第二一〇話 戒厳令の中で
「襲撃行動を取れ! 躊躇うな、戦車前へ!」
中戦車から上半身を乗り出したトウカが端的に命令を発する。最早、戦車による暴徒の蹂躙に躊躇は見受けられない。
陸軍府への道程は障害物に満ちていた。
これはトウカもリシアも、そして内心で奇声を挙げるネネカですら予想し得ない事であった。
通達された戒厳令を無視した左派勢力による示威行進。駆け付けた警務官の規模では鎮圧など覚束ない規模での示威行進だが、トウカは躊躇なく戦車部隊による鎮圧を命じた。子供はいないが、婦女子と老人は見受けられる。それらですら轢殺する構えを見せた。
示威行進をする左派集団からの銃撃を受けたからである。ネネカとしては「世界で最も大義名分を与えてはならない相手に大義名分を与える形になったのだ」と独語せざるを得ないものがある。
無論、トウカの果断を否定できない事も事実である。
何一つ準備もできていない中での戒厳令発令は、皇都郊外の部隊に多大な混乱を齎した。諸外国の武装蜂起と同様に、様子見を選択した部隊に加え、上級司令部との情報共有を求めて将校を派遣する部隊も少なくない。最悪の例としては、部隊内で皇都の戒厳令の一翼を担うか否かで意見が割れて行動の余地を失った部隊などがある。
半数は動けない。そうした中、左派集団は示威行進という最悪の選択をした。戒厳令で市民が家屋に押し込まれた状況は、普段は賑わう主要道路の沈黙を齎した。その中での示威行進の声は遠方まで届き、追従する者が急速に増大するという悪循環を齎したのだ。
最大の問題は、武装した極左勢力の人員が紛れ込んだ事である。
武力衝突による惨劇を御所望かと、トウカは銃撃を受けた時点で早々に蹂躙を選択した。民間人に対する武力行使に、〈第六装甲大隊『クラインシュミット』〉所属の六五輌のⅥ号中戦車からは命令の聞き直しが相次いでいるが、トウカが再度、重ねて命令する。蹂躙せよ、と。
トウカは周囲の兵士に風魔術によって拡声させると、これ以上ない程の大音声で怒鳴りつける。
「我々は政治暴力主義者に一切の譲歩をしない! そして、彼らを利する動きをする者達の生命を保証しない!」
いきなりの言葉に左派集団から非難の声が上がるかという刹那、トウカが手を振り下ろす。
戦車砲による一斉砲撃。その割に砲声が小さい。一部車輛は躊躇したままに砲撃を行わなかったに違いなかった。ネネカはそれを批難できない。国民を撃つというのは、それほどの行為なのだ。
弾種は榴弾。流れ弾による被害を押さえる為、道路を狙ったものであるが、それは悲惨な結果を齎す。
本来、三〇mもない距離では同軸機銃などを使用するのが通例だが、敢えて榴弾を使用したのは砲声による威圧効果を求めてであろう。非装甲目標に対しては殺傷範囲を低減できる徹甲弾をしようしなかったのは、貫徹力から流れ弾になる可能性を考慮してのことである。
道路上の“暴徒”が薙ぎ払われる。
「部外者であるならば去れ! 当事者であるならば死ね! 皇国は国賊を必要とはしない!」
残酷なまでに簡潔なトウカの命令。彼は敵対するなら民衆にすら死を命ずる。
呆然とする人々だが、再び中戦車が機関音を響かせて前進の構えを見せると、暴徒達は正気を取り戻して我先にと逃げ出す。後に残るのは血の海に倒れ伏す犠牲者に舗装された主要幹線道路であろうが、我先にと逃げ出すにも時間を要する。
身体的に劣る者は押し退けられ、倒れ踏み殺されるが、誰もが助けようという余裕を持たない。戦車が迫ろうとする中では当然の事である。
「文屋ども、あの様子を撮れ。平和を語る癖に平和の為に戦えない連中だ。隣人すら救おうとせぬ者が国家の平和を案じるなど片腹痛い。平和とは戦って勝ち得るものだ」
時折、自身を狙って放たれる銃弾が車載魔導障壁に弾かれる光景すらも無視したトウカの一言に、文屋達が真っ青な顔で頷く。中には炉端で嘔吐している者も少なくないが、その中で一人の勇敢な記者が中戦車に駆け寄り、トウカに噛み付く。
「閣下、あの中には善良な民間人も居るでしょう! 虐殺ではありませんか!?」
ネネカが止める間もなく、トウカの自動拳銃が抜き放たれる。
その場で射殺してもネネカは驚かない。彼には惨劇を必要とする理由がある。
「筆は剣よりも強しとでも言うのか? ならば暴徒を貴様らの筆は止め得たのか? 馬鹿を言え。出来ぬならば黙っていろ。御前らには偏向報道の自由があるかも知れんが、戒厳令下の俺は義務として貴様らを殺せる事、努々(ゆめゆめ)忘れるなよ」
トウカの手の内の自動拳銃が銃声を響かせると、記者の背後にいる女性の手にあった大きな撮影機械が弾き飛ばされた。銃撃を受けた以上、撮影機械は使えない。記者の記者たる理由を奪ったトウカは、記者をぞんざいに手を振って下がらせる。
皇都戒厳司令官、サクラギ・トウカ上級大将。
陸海軍とクロウ=クルワッハの推挙を受けて戒厳令下の皇都を統括する役目を負ったトウカは、皇都の安寧を維持する為に積極的な行動が求められる。
ネネカはトウカにそうした“義務”を与えた彼らの意図を理解できるが、心中では彼らの責任回避とも言える決断を嫌悪していた。
最悪、戒厳令による影響を国民が非難した際、トウカに責任の大部分を帰属させる流れを意図しての事であるのは間違いないが、それはトウカも理解している のだ。だからこそ、皇国を常に戦時下にして危機的な状況下に置こうとする。危機に際してこそ、軍閥指導者たるトウカの価値は最大限となる。そうした状況下 では、トウカは容易に処断できない。
帝都空襲も、結局は帝国の過剰な対応を誘発させる為に過ぎないのだ。過大な危機を乗り越える為、トウカの無法を貴軍官民の大多数は容認せざるを得なくなる。戦時下に無法が赦される理由と意味を、トウカは真に理解していた。そして、その危険性は想像を絶する。
トウカが鮮血と遺体の絨毯となり果てた大通りを一瞥する。
「閣下、お待ちを。歩兵に進路を警戒させます。生存者も居るかも知れません」
ネネカは近くの歩兵に担ぎ上げて貰い、中戦車の車上に立つ。この時ばかりは小さな身体が恨めしいが、戦車に昇降用の梯子を備え付ける訳にもいかなかった。慈悲はない。
トウカは、ネネカの言葉に一拍の間を置いて応じる。
「必要ない。戦車の装甲を以て推し通れば最大限に被害を軽減できる。生存者は知らぬ。売国奴の為に歩兵が逆襲を受ける余地を生じさせむること能わずだ」
兵力保全の観点からは一分の隙もない返答であるが、彼の言うところの売国奴は民間人である。民間人を轢殺する光景を記者に見せるのかと、記者を一瞥するネネカの視線を理解したトウカは軽やかな笑みを零す。
「遺恨こそ軍人の誉れ、汚名こそ武人の矜持。俺は敵を打倒する。相手の肩書きを理由に攻撃の手を緩める真似はしない」
ずるずると、負傷した暴徒が這ってが逃れようとする光景を尻目に、トウカが言葉を重ねる。
「人気者になると、批判も相対的に大きくなるものだ。それを押さえる権威がないのだから仕方がない」
余りにも過大な結果を出したが故に評価する者は多いが、知識層や権力者達からは強引な手段に対する強固な反発がある。経済活動に対する積極的介入や贈収賄、暗殺と言った疑惑も尽きない。
「派手に批判されるかと。そして、陸軍は助けられませぬ」
ネネカの心配に、トウカは狂相を湛えて苦笑する。
「批判するにも賛美するにも名は流布される。名前をこれ見よがしに叫んでくれるのだ。宣伝費用の圧縮に貢献して貰えるなら幸いだ。最近は宣伝戦の費用も馬鹿にならない」
名前が売れるならば手段は問わないと口にするトウカに、ネネカは「政治家に転向されてはどうですか?」と溜息を一つ。
「悪評を過大に受け取る者も少なくないと思いますが?」
「軽視されるよりは忌避される方が望ましい。気違い戦争屋が指揮を執るとでも言えば、友軍は士気は上がり、敵の士気は下がる」
ネネカは根本的な思想の違いを思い知る。
悪評も忌避も嫌悪も己の纏う軍装とするその姿勢。軍事の為に政治や経済、世論すら捻じ曲げる手法は既存の思想にないものと言える。強いて言うならば国家 社会主義的なものであるが、それよりも遙かに軍事力に対する信奉があった。既存の政治思想とは統治という点を主眼としているが、トウカにはそれがない。相 手を如何にしてぶん殴るかという点のみに絞られた思想を有している。
そして、政治思想ではなく、軍事思想と呼ぶに等しいそれを以て統治を試みる真似を押し通しているのが現在の北部である。ネネカの危惧は政治家達の間でも 少なくない。なまじトウカは、統治に対する見識と視野がある為、現状では破綻を見ていない事もまた不安を掻き立てる要素である。無論、破綻がない最大の理
由はマリアベルが残した強大な工業力の影響が各分野に波及しているからであるが、早々にそれらを切り崩す動きに出た中央貴族の影響下にある商家を形振り構 わず潰しに掛かったトウカを、ネネカは決して甘くは見ていない。
彼は金銭の偉大さを知っている。
結局のところ、彼は金銭を欲している。新規技術と重工業化で金銭を生み出す工業製品を作ったは良いが、それを売却する上で不利を強いる勢力を軍事力で打ち据え、尚且つ、敵勢力の利益を奪おうとしている。
それは何故か? 単純な事である。権力を望んでいるからに他ならない。戦争ばかりしている面が目立つが、トウカは権力を求める事も忘れてはいない。故に 金銭を望むのは自明の理。金銭は権力を生むのだ。誘蛾灯に群がる蛾の如く金銭にヒトは群がる。金銭を用いれば、成したい政策も軍事行動も制約を受けなくな
るだろう。主義主張や理想を実現のものとするにも、国内外で生じる諸問題を解決するにも金銭の多寡は最大の要素である場合が多い。その保有量によって選択 肢と手段の幅は変化する。よって大事を成さんとする権力者ほど金銭を得る方策に熱心である。組織を率いる者であるならば義務とすら言えよう。道理を通すに も誠実を見せるにも金銭が必要なのだ。それが政治であり統治である。
無論、それら全てが軍備拡大の為なのだ。
戦車の天蓋上で胡坐を掻いて前進命令を出したトウカの横顔は、ネネカからすると狂相そのものであるが、支持者からすると揺るぎない自信に満ちているとも取れる。
次々と前進を開始する戦車群。
大通りの血染めの絨毯を踏み締める鋼鉄の野獣。
横断幕や掲示板、そして遺体を踏み締めて進む戦車の威容。記者達の撮影機の砲列がその姿を捉える。ネネカは天仰ぐしかない。
突然、響き渡る悲鳴。生存者を戦車の履帯が踏み付けた。
「おや、生存者が居た様だな。政治暴力主義者とはいえ、哀れな事だ」
完全に他人事であるトウカに対し、記者達に平静を維持している者は少ない。路地裏に駆け込む者もいる。
彼は一面に於いて暴君になろうとしている。暴君という肩書を使い、国内の敵対的勢力を政治的に打倒する旗手となろうと目論んでいるのだ。苛烈な行動に対 する非難がトウカに集中するほど、他勢力の左派勢力排除は容易になる。過大な行動によって前例を作るトウカの悪行の前に、ある程度の強硬手段は霞む上、大 多数の目はトウカに誘引されるだろう。誘引と攪乱。軍事行動に等しいものがある。
朱に染まる大通りを尚も紅く染めながらも〈第六装甲大隊『クラインシュミット』〉が進み、後続の歩兵部隊が恐怖を顔に張り付かせて行軍する。皇州同盟軍では行軍の際、隊列を重視しないが、陸軍歩兵部隊は厳格な行軍序列を教練に組み込んでいた。
避ける事の難しい人々の鮮血と臓物を軍靴で踏み締めながら進む歩兵達の表情は、青を過ぎて蒼白に変わりつつある。一部の歩兵が隊列を離れて建造物の物陰に駆け込む。行軍を乱す行為だが、ネネカは咎めない。
「大佐、煙草はあるか?」自らの軍装を弄るトウカに、「御座います、閣下」と、ネネカは高級煙草を差し出す。無論、新品である。
ネネカが愛煙家であるという訳ではなく、煙草を切らして落ち着きをなくす中毒者……将官を宥める小道具の一つとして懐に潜ませているだけである。
包装を破いて一本、押し出したトウカは口に咥えると、煙草を揺らしてみせる。ネネカは、その部下を使い慣れた姿に眉を顰めつつ、魔術で指先に火を灯して煙草の先端を炙った。
近づいたトウカの横顔が想像していたよりも遙かに幼いもので、ネネカは息を呑む。狂相に歪んでいるが、その瞳には昏い知性の光も灯している。
不意に、ネネカの腕が掴まれる。
「立つな。危ない」
あっ、と声を上げた時、既にネネカはトウカの胡坐の上に収まっていた。一部の記者がその姿に撮影機を向けるが、トウカは一瞥するだけで咎めない。対するネネカは顔を蒼白にして沈黙する。
そうした姿を撮影されるという事は、トウカに対して好意的な陸軍軍人であるという世論が形成される事を意味すると察したからである。文字通りの抱き込みであった。
「閣下、煙草の臭いが付きますので……」
「抜かせ、参謀本部の老人共もその辺りは配慮していないだろうに」
トウカがネネカの頭……狐耳の間に手を伸ばして乱暴に撫でる。
確かに陸軍という海軍よりも男所帯である戦闘組織では、喫煙や飲酒という行為に於いて女性に対する配慮に欠ける部分がある。入隊した女性が男性的な性格 になる事が多い事から問題化する傾向にないとは言え、ネネカの様な女性士官も少数ながら存在する。会議での喫煙は凄まじいもので、紫煙によって霞む視界は 霧中行軍も斯くやという有様であった。
幸いな事に、トウカの口元から零れる紫煙は、戦車の前進に合わせて後方へと流れていく事を、ネネカは確認する。序でに残敵掃討を意図した斥候兵の背を眺めるトウカの顔を、ネネカは見上げた。
「困った事だ……政治とやらまで考えねばならんとは、な」
虚を突かれたネネカが目を見開くが、トウカに再び頭を乱暴に撫でられ言葉は発せない。
「組織人には組織が目指す目標が提示されている。軍は敵野戦軍の撃破や敵領土の戦力……言わば勝利が同じく提示されている。商家なら利益だろうし、貴族なら領地の繁栄。実に分かり易い。そうした目標への進退は数値化可能で明白だが、政治は違う場合が多い」
相手を殴るのではなく、支持を受け、説得し、提案が採用される事を目的とする政治に躊躇なく暴力を持ち込んだ者の言葉とは思えないが、ネネカは、それでも尚、軍事と政治の違いに対するトウカの姿勢に興味を抱かずにはいられなかった。
「どの辺りが違うのでしょうか?」
「簡単な事だ。政治は人数の数だけ別の目標を指して、あれが目標だと主張する。揃いも揃って悉くが、感情や独自の理論から違う方向を見ている。挙句に自身が間違っていないと根拠なき確証を抱いて、他人の主張を間違いと非難する」
ネネカは「それに故に天帝陛下が」と口にするが、その絶対者の不在を思い出して言葉を区切る。国家の政治体制や思想によって、不特定多数の意見の制限項 目や、その取り入れ方法などは千差万別だが、皇国では最終的な裁定権を天帝に付与させる事で、種族間の軋轢が生じる可能性や国家が分断する可能性を避けて いた。
現状の皇国は、興廃を左右する決断を下せる者が不在である。国民の大多数を納得させ得る権威者が不在である以上、それは止むを得ない。
「国民……国益や国土防衛を目標と捉えるべきだと主張するべきかと」返されるであろう言葉を承知で、ネネカは応じる。
国民への対応は、国民軍に等しい実情の皇国軍では例外を除いて穏当である。それ故に軍内の過激な意見には寛容ではない。苛烈な主張と行動が成せない現 状、国家方針確定の主導権は存在せず、それを行えば叛乱と捉えられる。現状の戒厳令ですら、議会に乗り込み両議院と主要貴族の認可を取り付けた事からもそ れは窺えた。皇国軍は政治への優越が制度化されていない。
「莫迦を言え。御前、戦車で轢き殺した連中を見ていないのか?」
ネネカは「建前が御座いますれば」と狐耳を曲げて見せ、トウカは「忌憚のない意見で構わんぞ?」と応じる。
「まぁ、国益や国土防衛という目標の定義すら多くの意味で捉えようとするだろう。俺は国益の為に軍事的勝利を得て武器輸出をしたいが、政府や中央貴族は緊縮財政という主張をする。帝国打倒による積極的防衛を実現したいが、政府や中央貴族は国境防衛の強化こそが最善だと疑わない。俺の主張は、政府と中央貴族にとっての無謀だ。相手はその逆を考えているだろう」
見えてきた陸軍府司令部の外観を一瞥したトウカが、ネネカの頭の軍帽を整える。軍帽の切れ目から突き出た狐耳の左右の角度を示し合せる事も忘れない。
トウカの求める挙国一致とは、大多数の考えと同じく意見統一を成す事だが、彼は諸勢力の箍を 外す事で為そうとしている。自身が悪評を一心に集める振る舞いを以て禁忌の基準を引き下げるという常軌を逸した発想によるものであるが、有効である。大多
数の勢力は、受動的な姿勢では祖国が滅亡すると理解しているが、行動に移せないでいる。だが、禁忌の基準が下がれば、聞き分けのない国民を容赦なく追い詰 める事が可能となるだろう。無論、勢力毎に対応は変わるであろうが、方向性として対帝国戦争の不確定要素となる者達の排除は疑いない。
箍が外れれば、建前など容易に消し飛ぶ。
拳銃を手にすると思考の沸点が下がるのと同様に、ヒトは事が成せるという確信があれば、建前など容易に翻せる。前例があるという名分は、斯くも強力なものがあった。統治機構ですら前例主義に囚われる例すらあるのだ。個人など語るべくもない。
「さて、諸勢力の諸兄らは俺の善意を受け取るかな?」酷く残酷な善意を示したトウカ。
表面上、感謝する者は居ないやも知れないが、その意図を察する知性の持ち主であれば、或いはトウカに感謝するであろう。当然、見返りなきものであるが。
ネネカは陸軍府司令部前で次々と停車する戦車部隊の中、彼の善意が何処よりのものかと、終わることなき思考の海へと引き摺り込まれた。
「無人のカウプト・ゼンガー通り……素敵ね」
リシアは無人……とまではいかないが、僅かな軍人程度しか見受けられない皇都有数の通りに感嘆の声を漏らす。
カウプト・ゼンガー通りは、皇国に於いて著名な商家……大商家が群れを成す通りとして名を馳せており、商店を構えていない大商家と言えば、マリアベルによって育成された重工業を生業とする企業程度のものである。寧ろ、マリアベルからすると破壊工作の目標でしかなかった。
リシアが、カウプト・ゼンガー通りを歩いているのは、とある商家の状況を確認する為である。
背後に続くのは、陸軍国家憲兵隊一個小隊。
トウカが、リシアの市内巡回を認めた際、護衛として呼び寄せた国家憲兵小隊は見事な警戒序列を維持している。背後に全員が続いている様に見えて、一個分隊は周辺家屋の屋根に跳躍力を恃んで展開している。手には軽機関銃と支援を前提とした武装をしていた。
だが、リシアは彼らを信頼してはいない。敵対するとは考えていないが、国家中枢や権力構造に対する抑止力にして打撃力たる国家憲兵隊は、基本的に民衆に向ける武器はないという姿勢を取っている。
それ故に、彼らは刀を反りを上向きにして差している。
リシアは刀を差している連中を基本的に信頼していない。太刀を佩いてこその兵士であるし、そもそも反りを上向きに差しては咄嗟の抜刀ができない為、戦場では飾りも同然になる。思想や主張の為に武装の効率化を妨げる真似を、リシアは認めない。
リシアが彼らを忌避している様に、彼らもまたリシアを忌避している。
陸海軍では、短期間で尉官から佐官になるには軍大学の卒業が必要であるが、リシアが所属したのは領邦軍であった為、軍大学を経ずに急激な昇進が続いてい る。現場に留まり順当に出世する例は少なく、最近までの皇国は然したる戦火もなかった為に武功を挙げる機会もない為に時間を要する。よって、誰しもが佐官
になれる訳ではないが、多くの士官学校出身者にとり、これが最も一般的な昇進方法と言える。トウカの様に軍への所属時から佐官である例は、それは極めて希 有な例と言えた。
国家憲兵隊とは、陸軍の中でも精鋭と称される部隊であるが、武功を挙げる機会は極めて少ない。故に武功のみを頼みに昇進した相手を厭う事は不自然ではない。ましてや、陸軍将兵を殺しに殺した成果による昇進である。
「ハルティカイネン大佐」
「……突入後、抵抗する者、武器を手放さぬ者は射殺。暴徒鎮圧ではなく、過激派拠点の制圧を前提にお願いします」
一拍の間を置いたのは慈悲か、或いは躊躇か。それは、リシアにも分からない。
恐らく、用心棒を雇っているであろう事は疑いなく、高い塀で窺えない敷地内には無数と詰めている筈であった。
今、リシアは商家の屋敷に突入しようとしていた。
既に包囲は完了し、リシアの突入命令を待つばかりという状況になっている。地下脱出路はリシアも教えられていたので爆破済みであった。
地下脱出路を教えた少年……今では青年となっているであろう相手を、リシアは胸中から振り払うと、リシアは右手を掲げた。
「突入!」リシアが右手を振り下ろす。
国家憲兵隊が「制圧行動」と連呼しつつも、屋敷の閉ざされた正門へと殺到する光景は、リシアに頼もしさを感じさせはしない。
国家憲兵隊隊は、皇州同盟軍や正規軍に比して余りにも軽武装と言えた。否、軽武装という言葉は正確ではなく、魔導資質に優れた者を選抜し、魔導杖などの 魔導武装を手にした彼らは決して制圧能力で正規軍に劣る訳ではない。問題は、継戦能力である。魔力消耗の激しい魔導武装全般に言える事であるが、積極的な
運用は魔力欠乏を招く。通常火器の様に弾薬消費が継戦能力と直結する様に、魔導武装は魔力量が継戦能力と直結する。しかし、魔力消耗とは、身体にも影響を 及ぼす。集中力と体力、瞬発力の低下は避け得ない。予備弾薬の携行重量を負わないという長所の代償と言えた。
「皇立魔導院……目障りね」リシアは貴族街の一角を見上げる。
魔導技術偏重の歪を齎し、陸海軍の近代化を阻害した代償は将兵の血涙で贖われた。トウカは絶対に許さないだろう。軍人が前線で最善を尽くせずに斃れる状況を生み出した者達を。
故に必ずこの戒厳令という好機に罪状を創り出して潰しに掛かる。法律や民意など意味を成さない。彼は軍人なのだ。最も得意とする方法で、軍事行動に悪影響を及ぼす対象を排除する。実に簡単な事である。
皆が考えている様に、トウカは思慮深い訳ではない。少なくとも、リシアはそう考えていた。否、無能という訳ではなく、目標とする対象の選定自体は効率のみを以て行う点を踏まえた考えである。
「トウカの戦争に花を添えてあげないとね」
リシアは、国家憲兵隊の魔導槌によって破砕された正門を一瞥して、薄く微笑んだ。戦野で紫苑桜華が咲き誇るかの様な姿に、護衛を勤める国家憲兵隊達が視線を逸らす。
自らも前進するとの号令を下し、リシアも歩み始める。敷地内からは魔力波と銃声、怒声が響き渡っているが、その規模は小さい。予兆なき戒厳令は誰しもにとっても奇襲だった。
――そう、奇襲だったわ。皇都の悉くにとっても。私にとっても。
トウカにしては珍しく、準備と手札の見受けられない“戦闘”である。入念な準備と、多種多様な部隊を揃える傾向にあるトウカにしては珍しい。何より、 「いかなる作戦も大胆であれ。大胆な作戦とは、一か八かの賭けとは違う。大胆な作戦は、常に予備と代替の作戦計画を持っている」と口にしたトウカが、予備 計画を持ち合わせていない状況で打って出た事に、リシアはナニカを感じた。
だからこその商家襲撃である。
皇立魔導院と繋がりのある商家の家宅捜索で何かしらの証拠を掴むのだ。トウカにとり、性急な理由で行わねばならなかったのならば、正統性や大義名分は御座なりである可能性が高い。リシアは、その点を補う心算であった。
無論、リシアには個人的な目論見もある。
「大佐、敵の抵抗は思いの外、頑強です。既に死者が三名、出ております」
「これは戦争よ。だから死者ではなく戦死者よ」リシアは「報告は正確になさい」と窘めながら、肩に下げた短機関銃を構える。
この襲撃自体も急に決まった事であり、準備不足が否めないが、国家憲兵隊司令部は意外な事に乗り気である。皇立魔導院という権力の遮光幕で守られて有効な一手を打てなかった相手に、正義の鉄槌を下す証拠を“取りに行く”と言えば奮い立たない筈がない。
リシアは屋敷内の見取り図を可能な限り書き出し、武器庫や隠蔽に使われているであろう部屋の位置も提示した。皇都に居た頃は頻繁に通っていた事から、その程度は容易くあった。
あの、リシアを抱き込もうとした商家。親の意思に気付かず、ただリシアに憧憬を向け、愛を囁いた優し気な少年。リシアが皇都を去った理由である。
リシアは皇都に舞い戻り、商家へ国家憲兵隊を率いて踏み込んだ。歴史の皮肉とは正にこの事。
正門を潜ると、既に庭先での戦闘は集結し、屋内制圧に移行していた。瀟洒な家屋の窓からは、発砲炎と魔導の閃光が垣間見える。
屋内からの射撃を警戒しつつ、庭先を進むリシアは、その光景に既視感を抱いたが振り払う。彼女は過去の清算も兼ねて訪れたのだ。
魔導杖による魔導砲撃で破砕された玄関口を踏み越え、リシアは正面の階段を六名の国家憲兵隊を率いて進む。
目標は二つあるが、国家憲兵隊の目標を最優先とせねばならない。最上階を目指すリシア。時折、遭遇する国家憲兵に答礼しつつ、屋内状態の確認も欠かさな い。床の血溜まりや壁の血飛沫を見れば、熾烈な近接戦が行われた窺い知れる。破壊された跡をみれば、手榴弾や小銃擲弾と思しき炸裂跡も見受けられる。短期 間で双方が持ち得る火力の多くを投じたと、リシアは判断した。
そして、商家側の主武が魔導武装である事に満足する。嘗てと変わりない。
最上階へと進み出たところ、進んできた国家憲兵が、リシアの前で直立不動の姿勢となると、報告を口にする。
「大佐、当主を捕縛しました。屋内の大部分は制圧しつつあります……しかし」
「離れ屋は放置なさい。あそこの住人に不正をする度胸なんてないわ」
リシアの命令で、母屋とは別にある離れ家は制圧されていない。
それは規定事項であるが「あの腐れ父君にも顔を出しておくべきかしらね」と、リシアは報告に来た国家憲兵に続く。その国家憲兵の足並みは妙にぎこちない。リシアを恐れているのか、或いはリシアの背後のトウカを畏れているのか。
当主が捕縛されているのは、最上階の書斎である。
足を踏み入れたリシアは、両腕を左右から二人の国家憲兵に捕縛された当主に対し、敬礼を以て申告する。
「陸軍北方方面軍、情報参謀。リシア・スオメタル・ハルティカイネン大佐です。御久しぶりです、父君」
「貴様に父君などと呼ばれとぅないわッ! この売女めッ!」
リシアは、威勢の良い姿に苦笑を零す。父君と呼ばせようと硬軟織り交ぜてリシアを抱き込もうとした相手の台詞はとは思えない。
「春を売る真似は致しませぬが、売国奴を転売するのは得意ですわ、父君」
「貴様ッ!」
何かしらを喚く当主。リシアは尋問は国家憲兵に任せようかと考えたが、こうも要らぬ口が良く回る様子では、短兵急に自白や証拠物を引き出すのは難しいと考える。
リシアは、ちらりと部屋の隅で手足を縛られて床に座らされている女性に視線向ける。母君である。人間種として中年も半ばの年齢である筈だが、三十代前半 程度の容姿に見えるのは、遠く中位種や高位種の血を引いているからであろう。少なくとも、皇国では特筆する程の事ではない。
喚く当主を捨て置き、母君……当主婦人へと近づいたリシア。
「貴女、私達を恨んでいるの?」
当主婦人からの突然の言葉に、リシアは咄嗟に言葉を返し損ねた。
若く美しい当主婦人は物腰も柔らかく、良い歳の重ね方をした思慮深い女性である。罵倒を口にするとは考えなかったが、リシアは遺恨の是非を問う真似をされるとは考えてもみなかった。
「……御冗談を。寧ろ感謝しております。私は皇都から逃れたが故に、英雄を目にし、英雄に恋焦がれる奇蹟に恵まれた。孤児如きには過ぎたる幸福かと」
リシアの階級章を見れば、皇都と北部のどちらに栄達の道があったかなど自明の理である。戦功もない生意気な小娘として少尉か中尉となって、この戒厳令の一翼を成していた可能性もあるが、今のリシアは戒厳司令官の片腕として、皇都を主導的に激震させる立場にあった。
「その髪を生まれ持った貴女が、自身の思う生き方を貫ける事、私は嬉しく思います」そっと目を伏せた当主婦人。
紫苑色の髪を生まれながらに手にしたが故に、人生の選択肢が息の詰まるが如き有り様であるのは、先達の末路が示している。なにもかもを与えられ、なにも かもを奪われた人生を、リシアは望まず、それを跳ね除ける為、軍人を志したという側面もあった。今にして思えば、ラムケが院長を務める孤児院が自らを然し て特別扱いしなかった事が異様なのだ。
総ては在りし日の思い出。皇都も孤児院も過去に過ぎない。
短機関銃を付近の国家憲兵に押し付け、佩用した曲剣を抜き放つリシア。
喚く当主を背後に、リシアは当主婦人に曲剣の切っ先を向ける。当主婦人は言葉を発さない。ただ、リシアを見上げるだけである。
「では、母君。御然らばです」
リシアは当主婦人の心臓に曲剣を突き立てた。
口元が喘ぐ様な仕草を見せた後、身体が力が失い当主婦人が冷たい床へと斃れる。
頭部への貫通銃創は醜く、然りとて罪人の如く頸を撥ねる真似は忍びない。魔術で窒息させるなど論外である。結局、最も身体への傷が少なく、苦しみが長引かない手段をリシアは選択した。
血振るいもしない曲剣を翻し、リシアは再び当主の前に立つ。
余りにも煩いと国家憲兵が猿轡を噛ませた為、聞き取れる言葉ではないが、言わんとしている事は察せる。
血濡れの曲剣刀身の平地で当主の頬を叩いたリシアは、当主婦人の血が当主の頬を濡らした事に満足する。
「陳腐な言葉で申し訳ないのだけど、死にたくないのならば、一切合切悉く、白状することね」
曲剣の血振りしたリシアは、そう言い捨てて軍用長外套を翻す。
廊下に出たリシアは、周囲の国家憲兵に「同行は不要よ」と告げる。心配する国家憲兵達に「機密書類を書架に隠す癖は直っていなのかしらね」と返すと、リシアは一人で階段を下り始めた。
これからが彼女にとっての戒厳令本番である。
「いかなる作戦も大胆であれ。大胆な作戦とは、一か八かの賭けとは違う。大胆な作戦は、常に予備と代替の作戦計画を持っている」
《独逸第三帝国》 元帥、エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル
ミユキ「て~ん~あ~ん~も~ん」
トウカ「そんな歴史はないのだよ」