第二一一話 其々の戒厳令
――本当にやるというの、わたし。
リシアの佩用した曲剣の柄尻を右手で握り締める。
最早、当主婦人を殺害して引けぬ状況であるにも関わらず、その惰弱を嘲笑する自身が居る一方で、彼が無害である以上は捨て置いても構わないと叫ぶ自身も居る。
小さいながらも凝った造りを見せる離れ屋の玄関前で、リシアは立ち尽くしていた。
母を殺した曲剣で息子も刺し貫くという罪悪感は、リシアにもある。
皇立魔導院の不正の証拠を掴むという目的は組織的なものであり、母息子を殺害する必要性は薄い。主導的な立場の当主さえ尋問できれば問題はなかった。し かし、戒厳令という期間限定の優位の中で行動であるが故に、トウカには時間がない。皇立魔導院が状況を察すれば、要職を占める者達が脱出を目論見かねな
い。左翼と右翼の衝突拡大に伴う戒厳令という名目があるからこそ、皇立魔導院も自らが当事者であるとは考えないのだ。
短期間でトウカの皇立魔導院に対する軍事行動への大義名分を見つけ出さねばならない。期間は戒厳令終了まで。大義名分とは言え、公開はある程度前後しても構わない。
トウカの命令によって主要貴族の邸宅と政府中枢施設は警護されているが、当然ながら皇立魔導院もその中に含まれている。未だ突入が行われていないのは、 複数の突入を同時に行う為であろうと、リシアは見ていた。時差が生じれば、捕縛の魔手より逃れる者も現れるであろうし、反撃の余地とて生じかねない。
だからこそ、リシアが悲願を叶える余地がある。
トウカが現れなければ無視し得たが、リシアが恋をしてしまったが故に看過できなくなったのはある種の皮肉と言えた。
「失礼するわ」
既に失礼の限度など振り切って久しいが、それでも尚、建前としての儀礼をリシアは維持した。嘗ての様に。
扉を叩いて確認する事もなく、離れ屋の扉を開いたリシアは、躊躇いを見せずに足を踏み入れる。
変わらない光景に僅かな懐古と多大な憐憫を以て周囲を見回す。
音楽を好む青年だけに、蓄音機や音盤が所狭しと戸棚に収められている。皇国では魔導技術を多用した小さな角柱状の音盤が主流であるが、この場に在るのは共和国で主流となっている円盤状の音盤であった。金額を踏まえれば、安価に収まる趣味ではないが民衆が手を出せない趣味という程でもない。
純粋に趣味というだけではなく、当主と不仲であるが故に離れ屋を望んだ側面があると知るリシアは、趣味と実益が合致したと理解していた。決して当主から疎まれて離れ屋に押し込まれた訳ではない。
廊下を直線に進むリシア。彼は逃げも隠れもしないだろうとの確信は、足取を悩ませない。
最奥の部屋に続く扉を前に、リシアは軍装を整える。襟を正し、先程まで背負っていた短機関銃の負い紐によって乱れた肩章を整えた。髪を手櫛で梳かし、手鏡で返り血の付着の有無を確認する。
無造作に取っ手を掴み、扉を開ける。
在りし日に聞き慣れた旋律が蓄音機から流れる中、リシアは部屋の応接椅子に座した青年を認めた。
「ギュンター……」
思い出よりも幾分かの成長を見た彼は、温厚さと木漏れ日の様な笑みを湛えてリシアを迎える。
「やぁ、リシア。久方ぶりだね。その、見ない間に一段と綺麗になったよ」
相も変わらず女性を褒める事が苦手な彼に、リシアは精一杯の笑みを浮かべる。
促されて対面の応接椅子へと座したリシア。応接机に用意された紅茶を手に取り、口を付けて心を落ち着ける。本来、判然としない状況で相手から出された飲食物を摂取する事は迂闊であるが、この一面明だけは軍事行動ではない。
「この曲……憶えていたのね」
「君が好いた曲だよ。だから僕も好いたんだよ」
木漏れ日の笑みを絶やさない彼……ギュンターは決して愚鈍でもなければ無能でもない。これから先に起こる事を理解できないはずがないが、それでも尚、彼は普段通りであり続けた。
一時の平穏。それは在りし日の光景の再現でもあった。
「父母は?」
日常会話の一つであるかのような問いに、一瞬虚を突かれたリシアだが、溜息と共に首を横に振る。
ギュンターは、「そうか、そうなんだね」との言葉と共に沈黙する。その心中は察せない。
リシアは罵倒されるだけの所業を行った。当主は間違いなく皇立魔導院との癒着がある為に死罪は免れないが、当主婦人に関しては、連座させる法的妥当性す らなかった。戒厳令下での敵対的行動の拡大解釈の範疇による殺害という事になるが、当主婦人の死は当主の口が滑るようにする為の潤滑油でしかない。
戒厳令とは、そうした振る舞いが行われるからこそ、皆が発令を躊躇する。トウカが望んでそれを成した以上、リシアもまた躊躇できない。躊躇は彼の意向に背く行為なのだ。
「父は最近、新しい地下室を作ったみたいだね。暖炉の横だよ」
「それは……」
恐らくは重大な秘密が隠されているであろう一室を軽々に口に出したギュンター。どちらにせよ国歌憲兵隊による徹底的な家宅捜索からは逃れ得ないであろうが、各省の有無は発見時間に影響する。十分な意義があった。
「助命を望むのかしら?」
そうであるとしても、リシアはその願いを叶える事はできない。この商家の取り潰しは確定事項で、後継者を含めた殺害までを行う事による抑止力は魅力的であった。何より、リシア個人にとってもギュンターはあ不確定要素である。彼は余りにもリシアを知り過ぎていた。
その辺りを察しているであろうギュンターは、自らが助かるなどとは考えていないはずであった。
「君が皇州同盟軍で昇進する度、僕は嬉しかった。いつの日か必ず戻ってくると知っていたからね」確信を滲ませた声音。
「あら? でも、それは貴方の腕に抱かれる為ではなくてよ?」
「それは分かるよ。君がサクラギ上級大将に懸想しているのは、何処の新聞も報じているからね」
茶化す様な仕草で告げるギュンター。悪戯癖は治ってはいない様子である。
ロンメル子爵とハルティカイネン大佐のどちらが勝利するか、という名目での勝敗予想を報じる新聞もあると、ギュンターは可笑しそうに語る。因みにミユキの有利が全般的なものであるらしく、大穴でベルセリカやアリアベルの名も上がっているとの事である。
不敬とも取れるが、それ程にトウカ周辺に興味を示しているという証左でもあった。新聞社とは国民の望む情報を“創作”する幻想小説作家の集団を指す言葉である。よって彼らが報じる情報とは、真実か否かではなく、国民の望むものか、自らが誘導したい方向性かの二択しかないが、どちらにせよリシアの興味の範疇にない。
リシアは紅茶を飲み干して溜息を一つ。
「なら、分かってるでしょ? 返しなさいよ」
音盤から流れる旋律が盗聴の可能性を低減しているが、それでも尚、鮮明な言葉を口にする勇気が持てないリシア。
何一つ嘗てと変わらない調度品の数々すらもが自身を非難している様な気すらした、リシア。書架に収まる書籍や戸棚に狭しと詰め込まれた音盤までもが、蓄音機から流れる旋律すらも己の行動を軽挙妄動だと諌めている様に聞こえる。
全てを承知した上で微笑んでいるであろうギュンター。
「……変態。女を困らせて楽しまないの」剥れてみせるリシア。
全く以て在りし日と変わらない遣り取りに、懐かしさが込み上がる。
二人の軽やかな笑声だが、不意に途切れる。
「やっぱり、君はこれを求めてやってきたんだよね」ギュンターが懐から便箋を取り出す。
リシアは佇まいを正す。
正にそれを求めていた。震える手で受け取ったリシアは中身を確認すると、実物であると実感して懐へと仕舞い込む。
「在りし日の恋文は君にとっては不都合だもんね」
口元に手を添えて笑声を零す彼を、リシアは咎めない。それが間違いのない真実であるからである。
二人は肉体関係にあった訳ではないが、恋人関係と言えなくもなかった。途中で当主がリシアを抱き込む構えを見せなければ、リシアはギュンターとの関係を続け、恋人と呼べる関係となったかも知れない。
「厳密には恋文とは呼べないでしょう。どうとでも取れる様に書いたもの」
「でも、君は取りに来た。脅威となる可能性を排除できなかった」
その辺りを察せる辺り、商人としての経験は積んでいる様に、リシアには見えた。嘗ての純朴なだけの少年ではない。
無論、そうした成長を遂げても尚、彼が囁いたところの初恋を利用して栄達を望む真似はしなかった。その点を以て信頼するべきではないのかという提案を、胸中に潜む嘗ての己が叫んでいる様をリシアは自覚していた。
――ええい、黙ってなさい。在りし日のわたし! 貴女は失敗したでしょう!
八方美人のままに露骨な敵対を避け、曖昧な善意を以ての栄達を、当時のリシアは叶うと本気で考えていた。紫苑色の髪にはそれだけの“魔力”があると、彼 女は周囲の自身に対する扱いの中で確信していた。所詮は、後ろ盾がない故に重視されていなかっただけに過ぎないと言うのに。
権力者が利用しようとすれば、八方美人の姿勢など容易に崩れる。肩入れなき好意などでは権力者は揺れ動かないのだ。
リシアは、明確な方策なき状況を許容できない。皇州同盟とは、曖昧が許される組織ではないのだ。そして、トウカも優柔不断な者を寵愛しない。それが許さ れるのは私人として、尚且つ狐耳と尻尾がある場合のみに限られた。リシアへの慈悲はない。狐主義者は紫苑色の髪にすら頓着しなかった。
「私との関係を利用しなかったのは何故?」直截な物言いで訊ねる。
リシアは迂遠な言葉を好まず、ギュンターはそれを理解している。
だからこそ簡潔な一言が放たれる。
「愛ゆえに、かな」
「……困ったヒト」
リシアは立ち上がる。
これ以上の言葉は毒である。躊躇は事を成して尚、ヒトの身を蝕むと、リシアは理解している。あの自信と確信が形を成したとも思えるトウカですら、内戦時の躊躇は後悔となって、彼の姿勢を一層と苛烈なものと成さしめていた。彼にとりマリアベルを喪った事は己の失点なのだ。
右腰の拳銃嚢の自動拳銃の銃把を掴むリシア。
手紙は破棄する。後はギュンターの頭の中を破棄せねばならない。
魔術的には、大脳記憶を抽出できる技術は確立されている。費用対効果の問題から組織での運用すら行われていないとされている術式であるが、戒厳令下の皇 都は国家の闇を担う者達が暗躍する非公式の戦場である。正規軍や野戦指揮官の考える費用対効果など容易に覆すだけの価値を見い出す者は確実に潜んでいた。
既に撃鉄の起こされた自動拳銃を抜き放ったリシアは、親指で安全装置を外す。
母を殺した曲剣で息子も刺し貫くという罪悪感もあるが、硬い頭蓋骨を砕き大脳を破壊するには弾丸に頼るしかない。曲剣で一息に刺し貫く自信はリシアにはなかった。
突き付けた銃口。
「僕は死ぬ。でもね、生きるよ。君の中で」照準の先で微笑む過去。
リシアの心に爪痕を遺すであろう一言だが、彼女はそれを受け入れる。自らの意志を通して彼の意思を遺志と成さしめるのだ。最早、それは義務に等しい。
「ええ、覚えといてあげる。貴方は永遠よ」
引き金を引く。
在りし日に好いた旋律を、甲高い銃声が退ける。
飛び出した金色の空薬莢が部屋の隅で、からりと音を立てる。
既に旋律の途絶えた部屋で、リシアは軍装を翻した。
「あの集団を解散させるんだ! 速やかに! 確実に!」
狂乱の体で叫ぶ妙齢の上官の姿に、未だあどけなさの残る狸系種族の男性警務官が表情を強張らせる。
その日、皇都は戦場となった。
手記にそう書き残した事で、後世に脚光を浴びる事になる若き警務官は、八〇㎝を超す全長の電磁警棒を構えた。最早、電磁警棒や軽質合金楯で対処できる規模を越える中、彼らは戦列を必死に維持している。皇国男性の平均身長に届こうかという軽質合金楯を身体全体を使って構え、隙間から電磁警棒を構えて突き出す姿は正に戦列と呼ぶに相応しい。
近代に突入しても尚、戦列歩兵の真似事を敢行する彼らは勇ましいが、次々と投げ付けられる火炎瓶に、魔術による火球や水流、突風……殺意の見本市となり果てた皇都の一角で、彼らは紛れもなく戦っていた。
民衆を相手に。有史以来、治安維持を担う文官側の尖兵の主敵は何時であれ民衆なのだ。それを踏まえれば、彼らもまた実に歴史の歯車として振る舞っていると言えた。
――こんなところで勇気を見せるなら、従軍して見せればいいのに。
呑気な事を考えていた狸系種族の男性警務官の額に石飛礫が直撃する。狸耳が無事な事を咄嗟に確認し、彼は電磁警棒を構え直す。
軽質合金楯は、警務隊用の魔導障壁による衝撃緩和効果と防護範囲拡大の術式が裏面に刻印されているが、その魔力源は使用者に依存する。長時間の運用には適さない。
しかし、彼らには引けぬ理由がある。
「ええい、押し返せぇ! 背後は警府だぞ!」狂乱の体で叫び続ける妙齢の上官。
そう、背後は警務府なのだ。
質実剛健の陸海軍府の本営と比較すると多少華美な印象を受ける警務府だが、既に投げ込まれた塗料や火炎瓶、火炎魔術によって色彩豊かな建造物と成り果てている。観光名所としては甚だ下品なものであるが、それを護る彼らもまた色彩豊かな制服を身に纏う羽目になっていた。
「陸府は敵を押し返した! それ以上の人員を有する我らが押し切られては名折れであるぞ!」
狸系種族の男性警務官は、その叫び声に振り上げた電磁警棒で接近していた暴徒の一人を上段より打ち据える。長槍の如き上下運動は暴徒の接近を良く防いでいたが、最早、限界に近い。隊列が乱れる。
瞬間、巨大な閃光が周囲を満たす。
閃光魔術かと周囲を見渡せば、暴徒の津波の一部が欠けている。
「閃光弾だ! 陸軍が救援に来たんだ!」
誰かの叫び。安堵と歓声の入り混じる一分の警務官の言葉に、妙齢の上官が天を仰ぐ。憎まれ者が堂々と到来したならば、攻め寄せる暴徒は一層と熾烈に攻め寄せかねない。そうなっては殺傷前提の排除行動を執らねば収拾が付かなくなる。
狸系種族の男性警務官もまた、泣きべそをかいていた。好んで憎まれ役をする事は、職務に含まれていない。心情の上でも受け入れ難く、何よりも給料外でもある。救いはなかった。
現れる戦車隊。数は八輌、二個小隊。
履帯を石畳に押し付け、金属の擦過音を連鎖させて脇道から姿を見せた戦車の車列は一様に、暴徒達に砲身を振り翳している。砲身から硝煙を揺らめかせた姿を見れば、閃光弾を発砲した事は明白であった。
戦車砲にも閃光弾があるのかと、狸系種族の男性警務官が的外れな事を考えている中、戦車の車長用司令塔から上半身を出した遮光眼鏡の目立つ装甲兵将校が軽やかに右手を挙げる。
「へい、そこの彼女! 俺の高級車で遠乗りしない?」妙齢の上官を見て取った装甲兵将校。
狸系種族の男性警務官は、天を仰いだ。自国の首都近郊には最精鋭部隊を展開しているものとばかり考えていたが、そうとも言い切れないのだと彼は思い知る。
「死ね! 糞軍人! 御前らの出番などない!」妙齢の上官が叫ぶ。
共に治安維持を担う陸軍軍人相手に、そうした発言はいかがなものかと咎める者が出ないほど、陸軍府と警務府の関係は劣悪である。
皇州同盟成立に端を発した其々の悲喜交交。警務府もその恩恵を受けて過激派の炙り出しや、重武装の匪賊排除に成功していたが、北部に於ける警務権を事実 上喪失した。現在、北部は治安維持や司法の面でも皇国政府の統制下にない。治安維持を担うべき警務官すら排除して、そうした部分は皇州同盟軍憲兵隊が担っ
ていた。元来、北部は中央の影響力排除に熱心であった為、各領邦軍は警務隊と露骨な係争関係にあったこともあり、任務を負えるだけの能力を兼ね備えていた 事もそうした無理を実現させる要素となった。
国家に自らの行政執行能力が適応できない土地があるという事実。
挙句に皇州同盟は国内で暗殺や株価誘導とやりたい放題である。正規軍に等しい装備と組織体制を持つ皇州同盟を相手に、警務府は決定的証拠を掴めないでいた。寧ろ、現場に駆け付ければ、製造品番の刻印すらされていない最新鋭の短機関銃で銃撃を受ける有様である。
そうした無法と蛮行を重ねる皇州同盟と積極的な連携を見せる陸海軍に対する不満は根強いものがある。国防に必要とはいえ、積極的に敵対者を排除し、武力に恃んで資金収集に奔走する皇州同盟を重用するが如き振る舞いは、警務府の不信感を増大させた。
「へい、嬢ちゃん! そんな喚くな。頼もしい助っ人を連れてきたから一端下がれや!」
「馬鹿な、陸軍にも余裕など……」
確かに陸軍部隊は既に民衆に対する発砲にまで及んでいるが、その点を警務府に関しては否定的ではない。帝国の間諜や共和国の共和主義者が潜む左派集団に平時から対応している警務官は、彼らが厄介であると知っている。
本来、民衆に対しての発砲など、命じた瞬間に部隊が大混乱に陥り指揮統制を喪うこと甚だしい筈であるが、今回の戒厳令に於いて陸軍将兵が民衆に発砲できたかと言えば、実は左派集団が相手であったからという部分が大きい。
軍事費削減を許容する政府を選択した国民の権利に対する疑問は、彼らに引き金を引かせる。天帝陛下の方針であったからこそ辛うじて許容できたが、現状は天帝陛下不在である。軍備削減の方針を堅持しようとする勢力に対する打擲を躊躇する筈もなかった。
そして、皇州同盟軍最高指揮官たるサクラギ上級大将が、既に示威行進に対して発砲してしまっている。先例が生じた以上、難易度は酷く低下した。
つまり、禁忌など最早ないに等しい。
「大丈夫だ! 後援会の皆様方だ!」
――あかん! それ、あかん奴や!
狸系種族の男性警務官は、内心で悲鳴を上げる。序でに、突出した示威集団の一人の顔面を、電磁警棒で渾身の一撃とばかりに打ち据えた。
つまりは、在郷軍人会と左翼団体御一行様の登場である。左派集団に右派集団をぶつけるという国民間の分断を躊躇しない選択は、大きな禍根を残すであろう一手でもあった。
示威集団の後背方向から聞こえ始めた蛮声は、衝突の開始を示している。閃光弾による混乱が在郷軍人会と左翼団体に対する突入合図だったのだ。
警務府前に於ける混乱は一層の大規模化を見つつある。
暴徒鎮圧に暴徒を投入するが如き暴挙に、警務官の面々は開いた口が塞がらない。
だが、鎮圧のみを踏まえれば、有効である事もまた事実。
近代国家に於いて右派というのは、他の政治思想の者に対し、総じて暴力を躊躇しない場合が多い。愛国心とはならず者最後の避難所である。正に、その通りであり、右派勢力が非合法組織と関係している例は枚挙に暇がない。
「已むを得ん! 全警務小隊! 前進!前進! 暴徒を検挙せよ!」
指揮官の命令により、軽質合金楯を身体全体を使って構え、隙間から電磁警棒を構えて突き出す隊列を其の儘に、警務隊が戦列を前進させる。
警務官も暴徒も、既に多数の死者を出しているが、それでも尚、彼らは止まらない。感情に突き動かされての行動も、今となっては狂騒と熱気に当てられたが故の流血に過ぎない。
必死に電磁警棒を突き出し、暴徒の群れを突き崩す彼も、そうした状況に流されつつある。
愛国心とは喜んで人を殺し、つまらぬ事の為に死ぬことだ。
だが、近代化は国家にヒトを依存させた。つまらぬ事と称される国家の為に彼らは死なねばならぬのだ。
「前へ! 前へ!」
皇都の擾乱は、其々の思惑を乗せ、加速度的に広がりつつあった。
「皇軍だけでは足りないとは言え、右派勢力を動員するなど……最早、軍の存在意義が失われたに等しい」
シュトレーゼマン首相の言葉に、トウカは苦笑を漏らす。
本質的に国民軍である皇軍に急進的な暴徒鎮圧は疑問を抱かせる事になると、相応の大義を“演出”した人物の言葉とは思えないが故の苦笑である。
純粋な現実主義者であるシュトレーゼマンは、戦意が揺らいで暴徒鎮圧を拒絶する部隊が増えるのではないかという懸念を示したのだ。無論、それが建前である事を、トウカは見透かしていた。
「皇軍が国民軍と言われたのは貴殿だ。国民が国難に在って命を擲つ為に志願するのが国民軍である。そして、国民たる右派の彼らは立ち上がった。故に彼らは国民軍である」
戒厳司令官の権限によって、臨時徴兵という建前で右派集団を動員したトウカは、不足する暴徒鎮圧への兵力として当てた。無論、そこには秩序などない。素人が気に入らぬ敵と思い定めた相手に暴力を振るう混乱の坩堝となっただけに過ぎない。
だが、混乱が拡大するからこそ、左派集団も指揮統制を失う。
皇都地下に有線通信を張り巡らして指揮統率を図る陸軍部隊相手に、左派勢力の通信能力不足は現状で致命的である。飛行種族による飛行伝令や狼系種族による地を這う伝令は、航空部隊や憲兵隊によって阻止されており、彼らは無秩序から立ち直れない。
だが、それでも伝令の全てを阻止できる訳ではないが、伝令の中には敢えて監視を付けて見逃した者も少なくない。それによる左派集団の司令部と思しき地点の絞り込みは進みつつある。
組織だった示威行進とは言い難いが、政 府中枢である陸軍府や警務府などへの襲撃は間違いなく何者かの誘導があった。既にクレアや憲兵隊、情報部の思惑など吹き飛んで久しいのは明白だが、明確な
目的もなく左派集団を使い潰すとは考え難い。目的の為の陽動であると見るのが自然である。その場合、相手には軍事的視野を有した者が居るという事になる が。
――クレアの思惑に合わせた奴がいるな。これを奇貨として作戦計画を組み上げたのか?
何れにしても目的は不明である。司令部制圧までは情報を得られないと、トウカは見ていた憲兵隊や各情報部の監視を逃れた相手が容易に尻尾を出す筈もない。
シュトレーゼマンは溜息を一つ。
長帽子に長髪、整えられた顎鬚。上品に仕立てられた燕尾服などの第一正礼装に身を包んだ中年男性は紳士然とした佇まいであるが、今となっては些か表情に翳がある。
「正直に言おう。トウカ君。国民の分断は不味い。政権運営、いや、今後の国家方針すら左右しかねない」
「気に入らない。政治屋はいつもそうだ。分断の表面化は余裕のできる帝国戦後だろうに。そして、それを何とかするのが政治屋の仕事だ。必要な言葉を避け、真実でも嘘でもない曖昧な言葉で相手を誘導する。不愉快だ。俺は不特定多数となった国民ほど愚かではない」
帝国軍による侵攻の最中で、分断が継続し続ける筈もない。それが亡国の道であるという程度は、国民でも理解している。だからこそ、この国難の最中に暴発 した左派には相応の背景があると見て間違いない。無論、鎮圧後は武力による挙国一致で帝国軍に望む事になる。左派活動家は、この混乱の首謀者として全土で
狩り出される事になるだろう。故に、この混乱による被害に改めて目を向けられるのは戦後しかない。
シュトレーゼマンの物言いは、現状の主たる原因が自らにないと含ませたものであるが、平素より過激派の検挙活動を怠っていた政府にこそ原因がある。寧 ろ、トウカは暴発という結果の収拾に臨んでいるのだ。それ以降の後始末など行う心算もないし、付き合う心算もない。責任すらも感じていないし、負う心算も ない。
クレアが引き金となった点は問題だが、それは未だに表面化していない。現状、トウカは鎮圧行動の指揮官という立場に過ぎなかった。実情は別としても。
だが、トウカとしては、戦後の到来を易々と認める心算はないからこそ、被害拡大に躊躇はなかった。戦時下に於ける幾つもの陸戦と海戦は、皇都に於ける擾 乱など霞む程の被害を齎すが故に。悲劇は更なる悲劇の連続によって埋没する。歴史という堆積物が下層の出来事を押し潰していくように。
シュトレーゼマンは鼻白む程に単純な相手ではない。
「君はこの状況に心が痛まないのかな?」
「いけませんね、大量殺人者と大量殺人教唆者は同罪では?」トウカは呵々大笑。
寧ろ、実行犯より指示者が重罪とされる事は然して珍しくもない。政治や軍事を司る者にとって無能とは罪。よって現状の状態となるまで問題を放置し続けた政治家は有罪である。
曖昧であり続け、不確定要素を放置し続け、今回の暴動へと繋がった。そうした日本人らしいとも言える姿勢に、トウカはある種の懐かしさと焦燥を覚えてすらいた。
諸々を口にはしても、究極的に二人の遣り取りは暴徒鎮圧という事態に対する責任の押し付け合いに過ぎない。最終的には、トウカも「まぁ、やり過ぎた部分 もあるかも知れない」と声明を出し、シュトレーゼマンも「国難への協力に感謝する」と公式見解を発表する事になるだろう。そして、二人は揃って最後にこう 口にする
『帝国主義者の陰謀である可能性がある』、と。
戦時下である為、敵国が自国の首都に対して謀略を仕掛けたという陰謀論は受け入れられやすい。ましてや帝都空襲の被害を踏まえれば、報復としての側面は 十分に演出できる。帝国へ批難を上げれば、帝国も国威発揚の為、主犯であると認めるかも知れない。報復不能な状況で転がり込んできた報復に成功したという 建前は利用できる。
「不思議なことだね。いつの時代に於いても悪人は自分の下劣な行為に、宗教や道徳や愛国心の為に奉仕したのだという仮面を着せようと努めている」
共に責任や原因を認めない点を、シュトレーゼマンは諧謔味に満ちた言葉で告げる。
ヒトという生物は常に言い訳をしながら生きている。正統性に妥当性、大義や正義という万人に自らの行いを肯定できるにたるナニカを求めて已まない。
「君は愛国心で、私は道徳かな?」厚顔無恥のシュトレーゼマン。
「大御巫も呼びましょう。宗教も揃う」大いに乗り気なトウカ。
決して責任の分散を望んでいる訳ではない。二人は、責任を交戦国である帝国に押し付ける心算である。アリアベルは確かに軽い神輿で扱い易いが、後ろには怖い父龍の影があった。好んで龍の尾を踏む被虐性を二人は持ち合わせてはいない。
さも当然の様に自らの割り当てを道徳と嘯くシュトレーゼマンに、トウカは親近感を抱いている。厚顔無恥とも言える姿勢を崩さないシュトレーゼマンだが、 議会中の発言や政治活動を見れば、非常に礼儀正しく理性的な紳士である振る舞いをしていた。今回の遣り取りにあって、トウカを相手に自身を隠す必要がない と見たのだろう。或いは、相手によって自らを演出できる人物か。
「兎にも角にも、これは皇国の勝利かと」
陸軍府の最上階から窺える大通りに倒れ伏す暴徒の群れを、二人は見下ろす。
シュトレーゼマンは状況確認の為、護衛を伴って魔導車輌で陸軍府へと訪れ、トウカは陸軍府内の総司令部を出て応対をしている。既に命令伝達はなされ、トウカが頻繁に命令を発令する状況ではない為、首相の疑問に直接答える立場に回った。
「違うね。政権の勝利ではない。これは君の、サクラギ・トウカの勝利だ」
確信を滲ませた声音に、トウカは肩を竦める。
個人の為にある勝利ではないが、鎮圧を成果としてトウカは右派や憲兵隊、情報部より信を得るだろう。対する政府は具体的な行動を起こさなかった為、左派 からも信を喪う事になる。交渉の機会や解散総選挙の提案を、戦時下を理由に皇州同盟軍総司令官であるトウカと、陸軍府長官であるファーレンハイトの連名で 却下したが、行動の是非は政府に帰属する問題であった。
政府は国内の諸問題に於ける主導権を喪った。
シュトレーゼマンは、その辺りを理解しているが、最早どうにもならない。主権者たる天帝なき今、国民の信を喪った政府など役には立たない。そうであるに も拘らず最大与党は左派である。中道左派とも言える現シュトレーゼマン政権は最大与党と共に、揃って少数派である右派系政党からの追及に晒されると推測で きた。
少なくとも衆議院は空転する。否、右派系政党の意向を無視し得ない。
特に予算編成時には、軍事費に対して大いに妥協するだろう。そうでなければ、愛国者を名乗るならず者達は再び騒乱を起こしかねない。トウカとしては、戦局の悪化に伴う臨時予算編成を願う心算であった。
「最早、国会に正義すらない……」
シュトレーゼマンの言葉に、トウカも鷹揚に頷く。
国会は右派勢力によって多大な圧力を受けることになり、左派勢力は公爵邸襲撃や政府中枢への襲撃を行ったとして指導者層を根こそぎに喪うだろう。組織的な政治工作は不可能に等しい。
「政治に正義などと……正義など本質的には快楽や悦楽、快感に過ぎぬでしょう」
「………それは」
絶句するシュトレーゼマン。トウカは「何を今更」と嘯く。
正義という概念は、歴史どころか日常生活の隅にさえ繁殖している程度のものに過ぎない。
正義とは何か? 邪悪の対義語か? 自己正当化の方便か? 正当性担保の台詞か?
トウカはそれらも正しいが、正確には邪悪……或いは対抗勢力に対する優越感を示す言葉であると考えていた。
人物や言動、物事を声高に非難する事により、相手を貶めて自らの思考と立場が優越するという快楽に類する感情を得る。それを掻き立てる表現の一種として多用されているに過ぎない。
大日連では、高度情報化社会となり、自らの名前を伏せ、立場を隠し、相手に一方的に自らの正義を叩き付ける真似が誰しもに叶う事になったが、それ故にヒ トの本質は露呈した。現代に於いて、大多数の人間が何処かの誰かを止めどない熱意を持って批判しており、それは隠しようもない事実となっている。ヒトは生 まれながらにしてヒトを妬み恨み非難する因子を備えているのだ。
現代に於ける情報の奔流。批判材料と理論と理屈は常に流れている。
あらゆる対象を批判する材料が容易に入手できる中、正義という快楽は特価大廉売される量産品に過ぎなくなった。表現の自由という名分を建前とし、賢しら に意見を垂れ流し、自らの立場に酔い痴れる。口先ばかりでありながら、物言う者は声が大きく、その意見が多数派であるかのような印象を受けるだろう。
自身の価値を認めさせる、或いは自身の有する物質や事象の価値を認めさせる、若しくは社会的地位を獲得するよりも、他者を批判して自らの立場を上位に置 く事は酷く容易い。極めて費用対効果の高い矜持の保持と自尊心の獲得方法である。物質的な充足に繋がらない批判など、時間の無駄とすら考えているトウカか
らすると議論する余地もない事でしかないが、彼自身も皮肉が半ば趣味染みているところがある。
そうした現代を生きたトウカにとり、正義とは消耗品に過ぎず、神秘は剥ぎ取られて久しい。
トウカはそれを歓迎する。
聖職者の嘯く正義にすら、神秘が宿らなくなったが故に。正義とは情報という話題に過ぎなくなったのだ。そうした正義が情報の一つにまで貶められた現代で生きていたトウカ。故に、正義に対する姿勢はどこにでもいる現代の少年と変わらなかった。
衣服と同じで飽きれば変えれば良い。
正義など消耗品に過ぎない。軍事力という正義ですら消耗するという事実を知るトウカにとり、政治家の正義など然したるものではなかった。
「さて、我々の正義を押し付けるとしましょう」
それもまた歴史の皮肉である。
愛国心とはならず者最後の避難所である。
英蘭人文学者 文壇の大御所 サミュエル・ジョンソン
愛国心とは喜んで人を殺し、つまらぬ事の為に死ぬことだ。
《大英帝国》哲学者 第三代ラッセル伯爵、バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル
不思議なことだ、いつの時代に於いても悪人は自分の下劣な行為に、宗教や道徳や愛国心の為に奉仕したのだという仮面を着せようと努めている。
《大独逸帝国》詩人 クリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネ