第二一三話 認識票(ドッグタグ)
「事前の面会要請を省いた事、平にご容赦願いたい」
トウカの門扉からの第一声にセラフィム公爵邸の庭先に展開している航空歩兵達が、指揮官と思しき妙齢の天使種の号令の下、小銃や軽機関銃の被筒部を左手で掴み、銃床を地面へと当てると、右手で敬礼する。
ゆったりとした動作を以て、トウカは答礼する。
「セラフィム公は御在宅と聞く、面会を御取り次ぎ願いたい」
背後には、トウカが伴ってきたクレアやネネカ、装甲車輌や、セラフィム公爵邸を“警護”していた歩兵部隊も展開している。トウカに対する襲撃を懸念して であるが、トウカの背後のクレアとネネカは些か事情が異なる。敢えて何も問い掛けてはいないが、二人が同行すると言い張ったので連れ立って赴いたに過ぎな
い。トウカとしては、女性が居ればヨエルの警戒も薄くなるのではないかという期待以上に、自身以外の者を同行させ、二人で面会したという風評を避けようと 配慮しただけである。
「サクラギ上級大将閣下。では屋敷内で御待ち下さい。護衛の方々は――」
「――良い。ハイドリヒ少将とシャルンホルスト大佐のみを同行させる」
ベルセリカという信頼と実績のある戦闘能力に優れた高位種が控えていない状況では、天使種最高峰を相手にするのは元より不可能である。当初は、アーダルベルトに同行を願ったが、彼は「畏れ多い」との一言を以てトウカの要請を退けた。
――七武五公にも特殊な力関係があるのだろうな。
皇都の政治情勢に詳しいクレアの信頼が損なわれた状況では、トウカは表面的な状況ですら後手に回る。無論、クレアとネネカの二人の言葉から整合性が取れるかと判断した上で、情報の確度を増すという手もあった。
しかし、クレアの情報は往々にして正確であった。トウカを欺かねばならない局面とさせなければ、扱えない訳ではない。その飼い主の意向を窺うという意味もあっての今回の訪問である。
先導されて庭園を歩く三人。
庭園は、トウカから見ると遮蔽物の多い複雑精緻な構造をしており、植物や石像が規則的に配置されている。クロウ=クルワッハ公爵邸の様に、有事の際に機関銃陣地となり得るであろう箇所はなく、対戦車阻害と成り得る障害も見受けられない。華美ではないが寂れてもいないと称する程度の光景である。
公爵邸の前、先導していた天使種の指揮官……中佐の階級章を持つ妙齢の女性の一声で、内側より扉が開けられるが、トウカはクロウ=クルワッハ公爵邸よりも遥かに薄い扉に注目した。装甲が挟まれている気配はない。小銃弾すら貫通しそうな扉である。
面会要請を行わなかったのは、動きを察知されて左派勢力に襲撃される可能性を考慮した為であるが、それを進言したのはネネカである。対するクレアは、公 爵邸来訪後に情報を漏洩させて左派を釣り上げようと進言した。トウカはどちらも採用した。近隣には憲兵隊と警務隊が秘密裏に展開されつつある。
トウカは、ベルゲン強襲の際の空挺時の様な感覚を覚えていた。何処か身体が軽く、思考に熱が伴う。陰嚢は酷く収縮しているだろうが、天使という女性ばかりの種族が囲む中で確認する真似はしない。
高位種との遣り取りに対する恐怖は以前より減ぜられたが、相手は七武五公の中でも特に不明確な人物である。
ヨエル・リエ・フォン・ネハシム=セラフィム公爵。
皇国建国期より存在する権威の輔弼者にして、静かなる有力者。その影響力をトウカは計りかねていた。当人が直接、国家の意思決定に口を挟んだ例は僅かし かないが、政界で影響力が減じる事もなく、寧ろ彼女は天帝付近に在って聖域の如き扱いを受け続けている。決して表面化しない奇妙な影響力と言えたが、それ 故に独自の諜報組織を隷下に加えているのではないかと、トウカは睨んでいた。
流石に錯綜した皇都の現状の悉くを掴んでいるとは思えないが。
トウカは、それが叶わぬ様に流動的な戦況を演出している。否、演出しているという言葉は過ぎたものがある。各部隊指揮官毎の独断専行を容認した事による 無秩序な鎮圧行動の結果であった。トウカが敵対組織が自身の動向と思惑を把握する事を畏れ、状況の無秩序化をある程度放置したのだ。
そうした論陣を陸軍府総司令部では張っていたが、実際のところは民兵比率の上昇と、右派勢力の民兵が私服であることから混戦は避けられないと放置したに 過ぎない。右派に左派の戦力を優越させるだけに留め、トウカ自身は皇都へと遅参し始めた、エイゼンタール少佐やキュルテン中尉を中心とした皇州同盟軍情報 部を用いた諜報戦の指揮を執っていた。
相応の装備を有しながらも、現近衛軍司令官の方針の下、実戦投入できない近衛軍の切り崩しも図られているが、主要な目論見は主要商家の情報奪取と、首都に本社を置く軍需企業に対する破壊工作にあった。
――終末兵器を製造するには夥しい額の資金が必要だ。
残念ながら主要物資であるウランやプルトニウムの捜索は、情報部によって既に行われているが、国内での発見は難しいと踏んでいた。
トウカの知る限り、ウラン資源が放射線を放っている事は、一八九六年に仏蘭西人のアンリ・ベクレルによって発見されている。
光を遮蔽した上で感光材料をウラン資源付近に放置すると、感光材料が感光する。当時は写真に使用する写真乾板による実験で発見したとの事であるが、この世界では撮影技術も魔導技術を基幹技術としている為、感光材料は別で用意せねばならない。
その僅か二年後、キュリー夫妻によって、ウラン鉱石からポロニウムとラジウムの抽出に成功する。自然界に放射性壊変を発生させる元素が確認された瞬間であった。
ウランが、この世界に存在しないという可能性は低い。魔力波も高出力の電磁波に近い概念で理解されている以上、旧文明が放射線を用いた技術を運用していた可能性が極めて高い。問題は埋蔵量であるが、実は地球上に於いてウランはそう希少な物質という訳ではなかった。
ウランは地球の地殻や海水に含まれており、地球上では銀の四〇倍、錫とほぼ同量が埋蔵すると推定されていた。少なくとも金などよりは余程に埋蔵量がある。
この世界では、科学技術は軽視される傾向にあるだけでなく、基幹技術に魔導技術を用いている事もあり、数多くの分野が停滞している。無論、空間跳躍観測 など、トウカの元居た世界よりも遙かに進歩している分野も存在するが、原子力分野は未開拓に等しい状況であった。先んじて資源確保を行う事は難しくはな い。
せめて皇州同盟に原子力兵器を実戦配備するまで、トウカは何としても生きねばならない。
一兵器の為の莫大な資金調達と研究開発など、戦略兵器開発の意向を伝えても後任には理解しきれない筈である。現実的に資金と人材を通常兵器の研究開発に割り振られるのは目に見えていた。都市ひとつを灼熱に葬る科学兵器など、この世界では眉唾物である。
妙齢の天使が確認を終えたのか、トウカを屋敷の奥へと誘う。
――天使に誘われるとは此れ如何に? 神話上では祝福とされるが、中々どうして……
地獄への行軍としかトウカには思えなかった。
天使という空想の存在が神話通りであるならば、恐らくは戦闘能力の上で龍種の上を行くが、気質的な問題か、積極的に軍役を志す天使系種族は人口数に比して極めて少ない。
――そう言えば、あの自称悪魔。やはり元は天使か?
帝国首都で遭遇したエリザヴェータと名乗った天魔を、トウカは思い出す。
天魔と口にはしたが、外観はトウカの元居た世界で言われているところの悪魔そのものであった。そうなると、堕天した天使であるという可能性が浮上する。熾天使という天使の階位に在っては最上位のヨエルと互角の戦闘を繰り広げた以上、熾天使の堕天した姿かも知れない。
――しかし、西方の唯一神は余程に信望に欠けるらしい。
聖典の類を流し読みした記憶を手繰り寄せ、トウカは溜息を一つ。
妙に悪魔……堕天した天使が多い。唯一神の全知全能を前提とした教義では、神とは悉くを満たす存在とされているが、人望……否、神望には欠ける様子である。
トウカとしては、ヨエルの両翼が純白のままである事を祈るばかりである。よもや、自身が距離を置く姿勢を見せたからと堕天するなどという事はあるまいな、とトウカは頬を歪める。魔術分野の常識は、トウカの非常識である。油断はできない。
「こちらでお待ちください」
開け放たれた一室は、妙な奥行きのある広間である。公爵位保有者ともなれば、屋敷の規模は府庁に匹敵するが、クロウ=クルワッハ公爵邸と比すれば、規模も調度品も実用性に乏しい。無機質であるかのような印象すらあるが、細部は作り込まれている。
問題は、どう見ても和室であるという事であった。
外観は西洋建築であったが、案内された一室はどう見ても和室である。神州国の造りではない。些かおかしい部分はあるが紛れもないものである。
畳が敷き詰められた部屋に、トウカは慌てて靴を脱ぐ。幸いな事に、出入り口は土間になっており、下駄置きには苦労しない。軍靴である為、靴紐を解く事には苦労したが。
最奥の一段高い上段の間を一瞥し、トウカは妙齢の天使が閉めた背後の扉を顧みる事もなく、畳へと足を伸ばす。
神州国の軟さのある蘭州藺草を用いた畳ではない。祖国の硬さのある畳の感触を靴下越しに感じ、トウカは微かな望郷の念に捕らわれる。
懐古を振り払い、トウカは上段の間を目指して歩く。梁を潜る毎に御簾を避ける手間に若干の苛立ちが伴う。寸法を違えているとしか思えない。トウカもやんごとなき御方の居城……京都の御所には参内の経験があったが、明らかに御簾が縦に長い。
――祖国の大名屋敷の如き造り……やはり日本人が漂着していたという事か。
畜生め、先手を打ってきたな、とトウカは頬を引き攣らせる。
自身の祖国を知っていると言わんばかりの部屋の意図を、トウカは計らずにはいられない。祖国を理解しているなどという表面上の意思表示だけであるはずがなかった。生い立ちや家族構成……トウカを構成するに至った全般を理解しているという可能性もある。
「どうですか? 懐かしくはありませんか?」隣からの声に、トウカは眉を顰める。
そこには着物姿のヨエルが、扇子で口元を隠して佇んでいた。
絵羽模様の振袖には家紋と思しき何かしらの花弁の紋が刺繍され、袖丈は花嫁衣装などで見かける大振袖。その上に打掛を袖を通さずに羽織る様は、祖国の着 付けとは一線を画している。紫苑色を基調とした着物には天使の羽根と思しき象意が金の刺繍によって乱舞しており、公式行事でもなければ着用の機会がないで あろう服装と言えた。
トウカは、ヨエルの服装を一瞥すると、当たり障りのない言葉を口にする。
「セラフィム公。事前確認なき訪問、御容赦いただきたい」
「……構いませんよ。貴方に対し、私は閉ざす扉を持ちません」
淡く微笑む様は春節の陽だまりを思わせるが、頭上に輝く光輪は彼女が天使である事を隠さない。背中の六枚翅、恐らくは切れ目を通して突き出ているであろうそれよりも尚、特徴的である。
案内された座布団に腰を下ろしたトウカ。左右にはクレアとネネカが控えている。そして、何故かヨエルは上座を背にして下座へと座してトウカと相対した。トウカは、或いは天帝の為に用意された席なのだろうと見当を付ける。
「此度の要件、一体いかなるものでしょうか? クレアのことですか?」トウカの懸案事項の一つを口にしたヨエル。
しかし、クレアとヨエルの関係は、ヨエルが想像以上に皇国に根を張った権力者であるという事を認識する端緒となったに過ぎない。全体を俯瞰すれば、重要ではあるか中核ではなかった。
「公の御立場を明確にしていただきたい」
トウカは態々と追及する心算はない。そうまでせねばならない阿呆相手であれば、トウカも直接に訪問することはなかった。
クレアの仕込みであった筈の公爵邸襲撃は、何故か左派勢力の無秩序な武装蜂起に繋がった。当人の証言だけでなく、皇州同盟軍詳報部やマリエングラムの証 言も一致する事から、クレアが左派勢力の悉くを暴発させたとは考え難い。しかし、政府や警務府、陸軍府、海軍府もまたクロウ=クルワッハ公爵の権威に対す る挑戦だけならいざ知らず、戦時下の首都で火遊びをする可能性は極めて低い。
中央貴族の自作自演という線が有力で、皇州同盟の敵対的な経済政策で多大な損失を蒙りつつある他地方の商家の紐帯による画策が次点であると、トウカが睨んでいた。
アーダルベルトは航空戦力という新たなる可能性に食い込む事で、現状で虎種や狼種が先行している軍事分野で龍種の陣営強化を目論んでいる事は明白であ る。その為に航空戦力の兵装や戦術、編成に長じた皇州同盟との連携を深めつつあるが、それは中央貴族からすると裏切りとまでは言わないものの、一種の梯子
を外したとも言える行いと言えた。それに対する警告として、公爵邸襲撃を奇貨とした左派勢力暴発を演出した。罪はクレアに投げ付ければいい。
対する紐帯した商家による皇州同盟への反撃は、皇州同盟と関係深化の動きを見せる商家や府庁を牽制するという目的が想定される。皇州同盟は各種技術や財 力、軍事力を利用した既存の商家勢力の切り崩しをセルアノが主導して行っているが、それは強引にして苛烈無比を極めた。暗殺という手段すら容認されている 相手に抗する手段として皇都擾乱を望んだという可能性は十分にある。
しかし、中央貴族にせよ商家にせよ皇都擾乱は多大な不利益を被る上、自勢力の利益を最大化する動きを見せていない。中央貴族であれば、連帯して左派と右 派の関係を取り持つ動きを見せ、後の影響力拡大の目論見を見せるだろう。商家であれば、既に皇州同盟との連携を行いつつある他の商家や府庁を攻撃する理由 を左派勢力に与えるだろう。
何より、トウカを殺害する動きを見せていない。急襲する為の戦力を用意せず、陸軍内部に浸透している気配もない。それらに対する警戒の為、陸軍府は鋭兵中隊と腕利きの諜報員に、憲兵小隊を用意していたが、現時点で彼らは戦闘状態に陥っていなかった。
現状、純粋に左派を暴発させたに過ぎない。組織的な動きは認められなかった。端的に見れば、トウカの軍事行動を感情論から否定する面々は軒並み失われつつあると言っても過言ではない。
「以前にも言いました。私は貴方の味方です」
主張としては一貫した言葉であり、現状でヨエルは一度たりともトウカの不利益になる真似をしていない。胡散臭いとは感じるが、確たる理由と証拠はなかった。
このまま平行線では時間を無為に喪うだけであると、トウカは肚を決める。
「此度の一件、行動で示していただけたとの認識で宜しいでしょうか?」
左派勢力暴発の首謀者がヨエルではないかという可能性。
クレアとの関係を踏まえれば、動きに同調するのは容易い。左派の動きが公爵邸襲撃後に迅速であったのは、元より知っていた人物であるとすれば辻褄は合 う。中央貴族や商家が事前に察知していた可能性もあるが、彼らの情報網を陸軍情報部は掴んでいる。後手に回る可能性は低い。
ヨエルの暖かな春の陽光を思わせる笑みからは、そうした人物とは思えないが、高位種を印象で語る愚を犯す真似をトウカはしない。
「……お気に入りいただけましたか? これ以上を差し出せと申されるのであれば、そのお二人を退席させていただかないと……恥ずかしいです」
頬に朱を散らせてはにかむ熾天使。二十代半ばと思える容姿が尚幼く見える。西洋人染みた顔立ちの中に窺える、幼さを後々まで残す東洋人のあどけなさを垣間見たトウカは視線を逸らした。天使という生き物は斯くも敵意を抱き難く、魅力的に過ぎた。
背後からの身動ぎ。関係のあるクレアにも言葉を発し難い光景なのかも知れない。
しかし、そこで声を上げる者が居た。
「御待ち頂きたいのだ!……でぇす!」ネネカの悲鳴染みた叫び。
立ち上がり座したトウカを追い抜こうとしたネネカ。トウカはすかさずその尻尾を掴み引き倒す様に懐へと抱き込んで抵抗を許さない。両手首を掴むが、それでも尚、ネネカは暴れた。
「公爵たる公が首都での混乱を引き起こしたというのですか!? そうであるならば利敵行為に等しい! 国民相撃つを是とするなんて……貴女はそれでも天使なのかっ!」
「五月蠅いですね。だから狐は好かないのです。大体、あの時も……」
唇を尖らせた姿も一々と可憐であるが、狐に遺恨がある言動は要注意であると、トウカは心に留め置く。
トウカに尻尾をまさぐられて抵抗する気力を喪いつつあるネネカ。ミユキほどではないが、小狐族は小さな体躯に似合わず立派な尻尾を有している。
「そもそも、です。皇国が私の棲み処の上に建国されたのです。初代天帝陛下が望んだから赦したに過ぎません。私は、あの方が望んだ国家を存続させる義務を負ってはいても、国民の生命と財産、幸福に対する義務など負ってはいませんよ」
気持ちの良い程の割り切りを、「私、怒っているんですよ」と言わんばかりに両手を腰に当てて言い募る。
つまりは分業化であるとでも言いたいのであろうヨエルだが、国家権力に半ば同化した熾天使の歪んだ思想を見せつけられては、ネネカの様な善良な軍人の心中は乱れること必定である。
手元へと移した光輪を人差し指でくるくると弄びながら、ヨエルは頬を膨らませる。年頃の娘染みた仕草である。
トウカはネネカを懐に収めたまま、ヨエルに笑みを返す。
「貴女を望む真似はできませんが、貴女の心の内は承知しました。故にお聞かせ願いたい。何故、小官に好意的であらせられるのでしょうか?」
それは、トウカの疑問の根幹を成す要素。常々、気にはなっていたが、機会を逸した為、今が好機であると、トウカは訊ねる。
一瞬の逡巡を経たヨエルは、表情を引き締める。忽ちに神託を与える天使が如き気配を帯びた姿に、トウカは背筋を伸ばして表情から色を消す。
「貴方は私の初恋を体現した方です。あの日、あの場所で私を射止めた姿其の儘に再び現れた。それだけで良いのです。それだけで……」
自身が気恥ずかしい事を述べているとでも考えたのか、ヨエルの言葉は霞んでゆく。
トウカからそっと視線を逸らし、言葉を飲み込むヨエル。そこで気付いたのか、背後の襖に飲み物を用意する様にと言葉を投げる。どこか気恥ずかしさを誤魔 化しているかのような姿は、乙女の様ですらある。幾星霜の時を生きた者とは思えない豊かな感情に、トウカは気圧された。ヨエルは常に正面からトウカに応じ ているが、それは酷く危うい善意でもある。
「ところで、ハイドリヒ少将はいかがしますか? お返しした方が宜しいでしょうか?」
話を逸らす意味も含め、トウカはクレアの処遇に言及する。
切れ長の瞳と泣き黒子が印象的な権天使が湯呑みと御茶請けを乗せた御盆を手に現れる姿を一瞥したトウカは、背後で身動ぎする気配すらないクレアを見向きもしない。
「その子は……血の繋がりはありませんが、我が子と思っております。願わくば、貴方の御傍に侍らせて下さいませ。その子もそれを願っております」
ヨエルの淀みない口調に、トウカは一拍の間を置いて了承の意を伝える。
クレアはトウカの命令に対して忠実であり、酷く優秀な憲兵将校でもあるが、マリアベルはクレアをトウカに紹介しなかった。奇縁があったとはいえ、情報部 のエイゼンタールやイシュトヴァーン少将、エルゼリア侯、先代シュトラハヴィッツ伯などの面々との顔繋ぎを取り持ったマリアベルだが、何故かクレアだけは
紹介しなかった。隷下の領邦軍憲兵隊司令の任にあったクレアもまた重要人物であり、防諜上の主要人物である。遠ざけないまでも接触の機会を用意しなかった 点には作為や理由があっても不思議ではない。
マリアベルが、ヨエルとクレアの関係を察していたという可能性もある。或いは、ヨエルとの連携をクレアを通して行っていたという可能性も捨てきれない。無論、後者は内戦を踏まえると極めて低い可能性であるが。
「連絡役の役目も与えられていると判断して宜しいでしょうか?」
「厭われますか?」
「いや、しかし、非公式は不都合があります。公も連携を周知する為、ハイドリヒ少将を置いているとの見解をそれとなく政界に流していただきたい」
隠蔽を続けた後に露呈した場合、支持が揺らぐという可能性があるが、連携を周知する事で他勢力を牽制する意味合いが大きい。利用できる全てを利用して牽 制すると肚を決めたトウカは、ヨエルを利用して皇都の情報を仕入れ、情勢を誘導する体制作りを目論む。皇都に於ける重点警戒対象はアーダルベルトである。
龍と天使を互いに政略面で競合させて一方の突出を許さない。二人が連携しない様に二人が統率する種族を適度に競わせる必要があるが、戦時下であれば難しい 事ではなかった。
恐らく、ヨエルは思惑を察しているであろうと、トウカは見ていた。
だが、皇都での政略は重要であるが、それは戦後復興に必要な資金創出の為である。対帝国戦役自体は陸軍の協力さえあれば乗り切れると、トウカは踏んでいた。互いに必要としあっている皇州同盟と陸軍は、対帝国戦役終結までは堅固な紐帯を維持できるだろう。
戦後の不安定こそをトウカは不安視していた。各勢力が国内の勢力に軍事力を振りかざす余裕ができるからである。他国の介入を招くなどという常識論が通じ る状況ではない程の遺恨が生じているのも確かである。何時だって軍人の強硬論を後押しするのは民衆の感情論だ。再度の内戦を容認する世論は摘み取り続けね ばならない。
皇国臣民の大多数に皇州同盟と北部を容認させるには、戦果と軍事力と経済力が必要である。戦火は対帝国戦役で十分と言えた。帝国南部地域への空襲に帝都空襲、そこに〈南部鎮定軍〉の撃破まで加われば皇国近代史に於ける金字塔と言える。
問題は、軍事力と経済力である。
軍事力は皇州同盟軍にとり喫緊の課題であり続けているが、総兵力として二〇万名程度の確保は必要である。それは内戦末期の義勇部隊の乱造による兵力増大 の頃の兵力に匹敵するが、当時は事実上の民兵や、練度不足の新兵が半数以上を占めていた。二〇万を超える兵力の維持は戦時下であるからこそ可能で、新兵器
開発が軍事費に占める割合が大きい皇州同盟軍には苦しい数である。何より、皇国北部は政略上、蹂躙される必要があるが、それ故に大きな爪痕を残す。そうし た中での軍事費増大は皇州同盟の治世に対する不満を招きかねない。
つまるところは経済力が必要なのだ。
新兵器と新技術の叩き売りや、戦況を逆手に取った株式市場に於ける空売りなどでも補い切れない。さりとて資源の叩き売りは値崩れを起こしかねず、帝国か らの賠償金も然して期待はできない。戦後の武器輸出次第でもあるが、諸外国の軍事的緊張状態次第である。流石のトウカも、現状では諸外国を相争わせるだけ の諜報や外交を展開できない。
頼みの綱は神州国である。
もし、予想が外れて侵攻を控えたすれば、トウカは窮地に陥る。
最悪、皇国海軍旗を掲げた駆逐艦で神州国の商船の二、三隻を臨検。帝国への武器輸送を行っていたとの罪状を演出して撃沈。戦争を引き起こすしかない。戦時下であり続ければ、皇州同盟は排斥されない。戦争前に棍棒を投げ捨てる真似をするのは、自称平和主義者だけである。
南部の連邦は皇国北部と面しておらず、西部の共和国は帝国が健在な以上、利用価値がある為、安易に開戦に踏み切れないが、神州国は違う。過大な海軍戦力を有しているが、陸上戦力は貧弱であり、海上権力を恃みとした国家である。陸上権力重視の皇国は本土戦力によって敗北を阻止できる。最悪、海軍戦力が壊乱状態になる程度であり、戦況は膠着すると周囲は考えると推測された。
基地航空隊の編制や対艦攻撃騎の装備は既に量産が始まっている。内戦中には試作型の航空魚雷が配備されていたのだ。既存の魚雷を改修したに過ぎないが、性能は十分。艦隊戦で敗北しても、航空戦で主力艦を多数撃沈すれば互角の条件で停戦となるだろう。
艦隊による通商破壊などさせはしない。
島嶼部にも航空基地を造成。索敵攻撃により艦隊を見つけ出して撃沈し続ければいい。商船への被害はある程度は許容できる。寧ろ、被害が出れば政府の助成金で北部の造船所の商船建造が盛んになるだろう。
――まぁ、我々の懐次第か。政府がどれ程の資金を拠出してくれるかだな。天使と龍も期待はできる。
それにつけても金の欲しさよとは言ったものであるが、対帝国戦役後にはエルライン要塞の向こう側も気にする必要があるとトウカは見ていた。
帝国の内情と面子を踏まえれば、賠償金や領土割譲は実現しない。妥協点としてエルネシア連峰を挟んで皇国北部と接する帝国の領土を緩衝国家として独立さ せるという辺りが妥当である。表面上は両国の不幸な軍事衝突を避ける為の措置としてであるが、実情は皇国の傀儡国家に他ならない。
「少将の立場は了承しました。他に必要なものは? 用立てしますよ?」春風駘蕩の形容を現した笑みのヨエル。
泣く子も笑みを浮かべ、枯木は満開となり、嵐の夜でも雲居から満月が姿を見せるかのような微笑みに、トウカはどの辺りまでの要求が現実的か思案する。
「では、金銭遊戯に参加して頂きたい。利潤を折半します」
「いいでしょう。ところで皇州同盟軍に天使が必要とされる余地はありますか?」トウカは暫しの間を置いて頷く。
皇州同盟ではなく、皇州同盟“軍”への必要性とは、つまり軍事力としての有用性の確認となる。軍事力という点のみであれば、トウカは有用であると確信していた。
しかし、胸中では皇州同盟軍内に派閥を作られては敵わないと考えてもいた。しかし、それでも尚、了承したのは帝都空襲の際、航空歩兵が戦闘回転翼機の 如く活躍した光景を目の当たりにしたからであった。龍種の対地襲撃とは任務が重複する部分があるが、低速の天使種はより地上部隊に寄り添った直協支援が可
能である。龍種の対抗馬として、皇州同盟軍内で龍種が航空分野を独占する流れを阻止できるであろうという目論見もあった。
「二個聯隊規模をお願いします。関連予算は私が持ちますゆえ。早急に実戦配備を」
「龍種が航空分野を独占する点を御懸念であると?」
早急な配備ともなれば、対帝国戦役での活躍を意図してとなる。龍種のみが空で活躍すれば、航空産業は今以上に龍種主体となるだろう。それは、天使種の頂点たるヨエルにとり好ましい事ではない。
ヨエルは、ころころと笑声を零す。仕様のないヒトねと言わんばかりの声質である。
「龍種の活躍など精々が二〇年程度。その後は発動機を用いた鋼鉄の凶鳥達の時代とする心算でしょう?」
「!」トウカは目頭を震わせた。
終末兵器よりも尚、秘匿事項とせねばならない事実を口にしたヨエル。終末兵器は、その威力が実物による実験乃至実戦で証明され、尚且つ周知させねば周辺諸国より要らぬ恐怖を持たれる事はない。
しかし、航空“機”は違う。
明確な優位を築く前に開発競争になるなどという恐怖ではなく、国内の龍種が敵に回る可能性を秘めているからである。現在の龍種は自らの権益と化した空の 魅力に酔いしれているが、それは期限付きのものに過ぎない。畢竟、諸行無常。自らを優越する存在は必ず登場する。銃砲の発達が戦列歩兵を駆逐し、機関銃の
登場が歩兵の銃剣突撃や騎兵突撃を衰退させた。そうした歴史の一幕が異世界でも起きるに過ぎないが、衰退を受け入れねばならない勢力としては受け入れ難い 筈である。
「貴方は龍軍ではなく空軍と口にした……いずれは噴進機も導入する心算でしょう? 龍にも天使にも空を独占させる心算はない。違いますか?」
「……御内密にしていただきたい」
現状の、発動機や噴進機関は飛行爆弾の主機としての開発という建前によって推進されている。ヘルミーネはそちらに傾倒させており、航空機には関わらせて いない。航空力学に造詣のある研究者は未だに囲い込みの段階であるが、それすらも建前は飛行爆弾の研究開発に基づく事前準備という名目の書類が回覧されて いる。
トウカとアーダルベルトの関係に亀裂が入る案件である。
元より熾天使に対しての優位など築ける筈もなかったのだ。トウカは思い知る。否、思い出した。高位種を相手に同じ土俵で勝てる筈もないという事実を。自 らの優位を保持し得た状況は、常に軍事力を背景にした状況であった。その上、相手に無視し得ない被害を与える意思も露わに、一切合財悉くを投じている。
それでも実質的には勝利を得られなかった。事実上の痛み分けである。それも新機軸の兵器と技術、戦術を用いた初見という要素を踏まえた奇襲の連続によってであった。
「貴方は、ただ国益だけを図ると良いのです。仔狐さんの箱庭たる皇国を護る、それは貴方の望みでもある」
ヨエルが立ち上がると、トウカへと足を踏み出す。
トウカはその光景を尻目に、国益という言葉までが飛び出る状況に組織間の外交であると溜息を吐く。真意を質す心算が、相手はトウカの思惑の大部分を知っていた。
――いや、明確に敵対されている訳ではない。挽回は可能だ。いや、そもそも敵なのか? 味方なのか?
トウカに真実を現状で告げる意味など皆無に等しい。寧ろ、そうした思惑が明らかになる事を前提とした対応をすれば、致命傷を避け得る可能性がある。自ら の優位を示して誘導しようという意図とトウカは受け取ったが、皇国の保全という意味ではトウカとヨエルの国益は競合する。
突然の皇州同盟と天使種の外交は、トウカにも手に余る。
外交は、国益に資したか国益を損なったかという結果が全てであって、その評価は歴史の手に委ねられる。だからこそ、何が国益かを誤らない常識と、何があっても怯まない勇気が必要だ。
「俺は……」言葉を重ねられない。
自らの求める国益の在り処は明確であれども、手を携えるには余りにも不明確な相手である。諜報による成果を出せないだけの組織力を持つ相手であり、過去の経歴が想像以上に不明確であるという点も不安にさせる。
だが、引く姿勢を見せる真似はできない。トウカは皇州同盟の独裁者なのだ。
「私が貴方を護ります。帝国からも龍からも。その為に私は天兵を与えましょう」甘い言葉。
トウカの前で膝を折り、手を取って真摯な姿勢を心身で示す天使。宗教画の様ですらある光景。その心根が言葉と仕草通りであるならば、神が増長するのも致し方ない健気と献身である。天使はヒトを必要以上に甘えさせてしまう生き物なのかも知れない。
「しかし、気高い天使が小官の命令を聞くとは思えませんが」
「貴方の為に死ねと、私が命令するのです。意味のない問いですね」
一片の曇りもない微笑を湛え、ヨエルは広げた六枚翅でトウカを包む。
視界がヨエル以外は純白に塗り潰され、暖かな感触が続く。
「在りし日の貴方の父が願ったのです。いずれ漂着する貴方を護れ、と」
「っ!! 莫迦な……」喘ぐような声音。トウカ自身は気付かない。
自身の思惑をある程度察している理由としては有り得るようでいて矛盾もある台詞だが、トウカは許容量を超えた一言に上手く応じる事ができない。
翼を畳んだヨエル。
トウカは背後を一瞥し、クレアとネネカの表情を一瞥すると、再びヨエルへと向き直る。二人に聞こえていた気配はない。ヨエルの翅が防音効果を果たしたのか、防音魔術によるものであるかまではトウカにも判別できなかった。
「アレは戦死したのではなかったのか?」
トウカはそう知らされている。軍人だったのだ。遺体のない戦死扱いは戦場の常である。父親に知らぬ人生があったとしても否定でできない。
「……今は知るべきではないでしょう。来るべき時が来ればお話いたします」
悲しげに瞼を伏せるヨエルに、トウカは追及の言葉を持たない。
自身が冷静さを欠いている事だけは確信していた。それ故の沈黙である。
「ただ、貴方には、これを渡しておきます。なくては疑うでしょう」
発言の是非に揺れるトウカに、ヨエルは未だ信を置かれていないと苦笑する。その辺りは似ていないと口元を隠して軽やかに笑う熾天使は、次いで自らの首に掛かった首鎖を外し、胸元から引き抜く。
差し出されたものは認識票。祖国の陸軍が使用しているものである。装具との接触による金属音を避ける為、合金の上に強化樹脂が塗布された二枚の金属板の形は忘れようもない。
《大日本皇国連邦》陸軍 桜城・刀護。
トウカの父親のものであった。血液型も軍認識番号にも間違いはない。未だに残る本体の切欠きが酷く懐かしさを思い起こさせる。
握り締めた認識票。トウカはそのままに付き返す。
「貴女に預かっていただきたい。それは、貴方にとっての最愛のヒトの形見に他ならない筈です」
「……感謝を」
両手で掻き抱く様に胸元へと押し付けて礼を口にする熾天使に、トウカはある程度の余裕を取り戻す。ヨエルがトウカを通して見ていた相手の正体を理解したからである。そして、その因果を伏せ続けた理由にも一様の納得はできた。
「感謝の必要はない。小官には面影すらも思い出せぬ相手です。詳しくは、いずれで構いません」トウカは深く首を垂れる。
彼女の協力に対してではなく、父の最期が少なくとも戦死ではなかったと教えてくれた事に対してであった。認識票が二枚とも揃っている事から戦死ではない。
「貴女の信頼、その認識票の分は受け取ろう」
トウカは、高位種には叶わないと、今一度、嘯いて見せた。
「外交は、国益に資したか国益を損なったかという結果が全てであって、その評価は歴史の手に委ねられる。だからこそ、何が国益かを誤らない常識と、何があっても怯まない勇気が必要だ」
《日本国》駐《亜米利加合衆国》大使 松永信雄