第二一五話 限界点
「いよいよ限界か……」
ロンメル子爵領地下に敷設された皇州同盟軍総司令部の指令室の隅で、トウカは壁に投影された戦力図を俯瞰する。
ドラッヘンフェルス高地周辺に於ける遅滞防御は限界を迎えていた。
トウカの想定よりも些か限界点が早いが、それは敵軍内に不正規戦 に対応した部隊が存在している事が大きく影響している。嗅覚や聴覚に種族や地形把握に秀でた種族などを中心とした不正規戦は本来、人間種による統一編制に
近い帝国軍に対しては極めて有効であった。無論、相手も魔導探査技術や猟師主体の斥候兵などによって応じるのが常であるが、今次戦役に於ける対不正規戦に 於ける彼我撃破率は以前の戦役より大きく迫りつつある。戦術転換があったと見るべきである。
無論、ザムエルによる装甲部隊と砲兵の連携による伏撃や、迫撃砲による行軍に対する妨害も極めて有効であったが、現状の前線兵力だけでも五〇万を超える 帝国軍が相手では分が悪い。何より弾火薬の備蓄を無視しているであろう曵火砲撃を以て迫撃砲の展開地点を森林諸共に耕されてはい敵わないものがある。陸軍
や皇州同盟軍所属の前線指揮官達も負けておらず、寧ろ、偽装した迫撃砲陣地を砲撃させる事で弾火薬の消耗の誘因となる様に誘っている。
トウカが座したままに戦況を見守る姿を、周囲の司令部要員が気にしているが、皇都で珍獣扱いされ続けた彼は視線程度に動じない。
「サクラギ上級大将が直接指揮を執れば、今一度の主導権奪還は可能で御座ろう?」
そうした雰囲気の中、皇州同盟軍首席参謀であるアルバーエル中将を伴ったベルセリカがトウカの前に立つと、さも自信を漲らせた風体で言葉を投げ掛ける。
勝手に帝都空襲に挑んだトウカに対して言いたい事があるのは明白だが、ベルセリカの背後のアルバーエルの表情も厳しい。空飛ぶ参謀総長という肩書を上司が持つ事には否定的な様子である。
「費用対効果に劣ります。国力差と政体を踏まえた上での戦力価値と、現状の彼我撃破率を総合するとこれ以上は我が軍の損失が戦略面で上回る事になるかと」
皇国と帝国では戦力の価値が違う。国力と人口の差は兵士の生命に対する価値を変化させる。その上、練兵に必要とされる期間や資金、武装の調達などを総合した上での価値ともなれば、皇国は帝国を更に上回る。
トウカの見たところ皇国兵一名に対し、帝国兵士三〇名程度と同等の価値となる。
特に皇国は兵士に防護術式や防寒術式などを編み込まれた軍装なども配布し、挙句に高価な兵器を多数導入している。自然と皇国兵の価値は向上するのだ。
経営助言者の如く振る舞うトウカに、ベルセリカとアルバーエルが揃って溜息を吐く。司令部要員の居る前で不安を抱かせる仕草は望ましくないが、それを理解できぬ二人ではない。つまりは、それ程に不満があるということなのだ。
しかし、トウカとベルセリカの間にある緊張感を察したのか、アルバーエルがトウカに対して疑問を呈する。
「もう一度、南部の諸都市を空襲すれば侵攻の意図を挫けるのではないでしょうか?」
「否、だな。あれには複数の意図があるが、帝国もこのままでは下がれないだろう。それに、だ。もう航空爆弾がない」
ベルセリカとアルバーエルがぽかんとした表情となる。
陸軍府長官のファーレンハイトも同様の表情をしていた為、トウカは「どいつもこいつも俺が兵器を生み出す魔法の壺でも持っていると勘違いしている」とぼ やく。この世界であれば魔法の壺も或いはと思わせないでもないが、維持管理の費用を必要とするのが兵器という工業製品である。
「実はあの作戦に使用した航空爆弾は戦艦や列車砲、重巡、重砲などの砲弾や装薬を転用したものばかりでな……正直なところ戦艦や列車砲を陸海軍にくれてやったのは、その辺りもある」
トウカは〈剣聖ヴァルトハイム〉型戦艦二隻や、予備を含めると三〇基を超える機動列車砲を陸海軍に売却したが、そこには主砲弾を航空爆弾の中でも貫徹力に優れる地上貫通爆弾に転用しようという意図があった。無論、内戦で大部分を射耗したが、それでも尚、増産は続けられていた事もあって一定数の確保は叶った。海軍は〈剣聖ヴァルトハイム〉型戦艦二隻は修理中であり、陸軍も軌条間隔の違いから改修を必要とした為、共に現状での砲弾備蓄を重視してはいない。
「正直、他の兵器の生産に予算と資源を裂いている以上、あの戦略爆撃は向こう二年弱は無理だろうな」
何より南部諸都市を爆撃しては、戦略爆撃騎を警戒して帝国内で主要都市を護るべく掻き集められているであろう要撃騎が再び分散しかねない。航空戦力を皇国周辺から後退させ、同時に〈南部鎮定軍〉の頭上の上空防護をさせないという目的があるが、被害に耐えかねて早期決戦の為に一切合切を投じる決断をさせる程に追い詰めては意味を失う。自身の頭上を気にする程度に追い詰めればいいのだ。
――いっそ航空歩兵の母艦として後方地域での攪乱もありか……いや、航空歩兵の育成には時間が。そもそも戦略爆撃騎の速度に追従できる航空歩兵などそうはいないか……
大日連の戦闘単位に当て嵌めれば、戦略爆撃騎は超重爆、航空歩兵は戦闘回転翼機に準じた性能を持つ。寧ろ、前者は魔導障壁による強固な防護を持ち、後者は魔導砲撃という継戦能力に優れている。当然、積載量や魔導波形の放出による探知などという短所もあるが、現状では問題とされる程のものではない。
戦略爆撃騎に使用された大型騎を母騎として、航空歩兵を複数搭載すれば、航空歩兵の航続距離の短さを解消し、敵地での休養や武装換装、治療などを行える。
当然であるが、敵地上空を脅かし続ける事で帝国内の航空騎の動向を複雑化させる真似をトウカは許容できない。全ては夢幻に過ぎなかった。
「ドラッヘンフェルス高地の防御陣地を放棄する。撤退は夜間に行い、後衛は軍狼兵と装虎兵を主体に……最悪の場合に備え、陣地後方に三個装甲師団を。当初策定された撤退計画を堅持せよ」
トウカの命令を以て皇州同盟軍は動き出す。
陸軍にも伝達され、撤退に向けた動きは加速するだろう。
ドラッヘンフェルス高地周辺を突破された場合、以降に大規模な要害はなく、大軍である帝国軍の進撃を抑止するのは難しい。避難は未だ万全とは言い難い が、帝国軍の進出予定地域に限れば八割を超えている。貴軍官民を挙げた大移動の成果とも言えるが、それ以降の避難行動の時間創出は皇州同盟軍と陸軍による 遅滞防御に懸かっている。
アルバーエルが去り、ベルセリカからの御小言が始まろうかとした最中、駆け付けてきたリシア。皇都では胡散臭い動きがあり、常に事後報告であるが、今回ばかりは有り難いと、トウカは諸手を挙げて歓迎する。
「陸軍より通達、列車砲を使用すると」
「……持ち込んでいたのか。聞いていないが?」トウカは勝手な真似に笑みを零す。
兵力の上では陸軍が主体である為、自発的に遅滞防御に寄与する戦術行動を行うというのであれば、トウカが否定する理由もない。リシアが自信満々に意見を 携えて来る以上、皇州同盟軍部隊への通達は即座に行えると見て間違いはなく、火力投射の計画も策定済みであるのは疑いない。
「味な真似をする。計画書はできているのだな? 参謀本部に回しておけ」
トウカの言葉に、リシアが小脇に抱えていた書類を差し出す。用意周到である。この場にあるならばと、トウカは受け取った。
「ファーレンハイト長官……いや、シャルンホルスト大佐の提案か。陣地構築の為とはいえ、軌条を妙に多く敷設しているとは思っていたが、その為か」
軌条敷設の大規模化は、陣地構築の為の物資搬入や兵力、弾火薬輸送の迅速化を意図しての事ばかりだと考えていたが、列車砲の運用を前提としていたのは間違いない。
「ザイデンシュテット 三六㎝対都市間列車砲……二四門? 随分と多いな。それにこの機構……射程一八〇㎞? 一八〇!? 噂の仮想砲身に特殊砲弾……火炎魔術による補助推進弾か」トウカは資料を見て眉を跳ね上げる。
砲身長四三mという長砲身と装薬の増加による高初速だけでなく、魔導障壁と風魔術による砲身の更なる延伸に加え、火炎魔術によって補助推進を行う弾頭。 ヴェルテンベルク領邦軍で使用していた機動列車砲よりも遙かに長射程化を実現した火砲は、正規軍の軍事費が縮小しても尚、膨大である事を示している。少な くともヴェルテンベルク領邦軍単独では追随できない規模であった。
――陸軍の秘匿兵器か。まぁ、隠し玉があるとは想定していたが……
この時期での使用をどう捉えるべきか、とトウカは思案する。
射程は大日連海軍の戦艦に搭載されている電磁投射砲に匹敵する程であり、米帝海軍の先進砲に準ずるものである。威力は弾頭重量と初速を踏まえると大日連海軍の戦艦程ではない。補助推進を実装している以上、弾頭の総重量や炸薬量は同規模の火砲より低下している筈である。
だが、特筆すべきは射程である。
トウカは、今回の投入が対都市間列車砲という都市攻撃兵器の価値が相対的に低下した故だと悟る。
飛行爆弾が実戦投入された結果である。
特性は違えども対都市間列車砲を遥かに優越する射程を持つ飛行爆弾がその効力を示したのだ。射程は実に三倍を超え、弾頭重量も二割増しである。飛翔速度 に於いては大きく劣るが、それは複数投射による面制圧を前提としているからであり、発射機は極めて簡便である。軽量で不整地でも展開が容易で陣地転換に要 する時間は数十分の一である。
長距離砲撃の価値が相対的に低下したのだ。陸軍としては在庫処分の感覚に近いのかも知れない。
「その、何だ……シャルンホルスト大佐は何か口にしていたか? 俺の批評などだ」
「??? いえ、特には」リシアが首を傾げる。
ヨエルの発言に噛み付いて以降のネネカと、トウカは顔を合わせてはいない。避けられている訳ではなく、ただ機会がないだけに過ぎないが、ネネカ程の戦略家を好んで敵に回す程にトウカは被虐趣味ではない。
「飛行爆弾の設計図と関係する戦闘詳報をシャルンホルスト大佐にくれてやれ。列車砲の礼だ」
ネネカの成果として陸軍府司令部は受け取る筈である。
対都市間列車砲の投入に関しての提唱者としてネネカの名があり、足りぬ仰角を補うべく、丘陵を利用して捻出するなどという真似を提案する者などそうはいない。
ヨエルの放言に対する口止めという訳ではないが、ファーレンハイトが期待する気鋭の参謀将校である。恩を売るに越したことはない。
リシアが敬礼をして下がる背中を尻目に、トウカはベルセリカへと視線を巡らせる。
「……二人きりですね?」
「某が人払いをしたからの」
皇都で鍛えられた話術は早々に封殺される。
リシアと話している最中にも言い訳の理由は幾つも組み上げていたが、呆れ顔のベルセリカを前にすると口にする勇気はない。
「まぁ、言われても某には分からぬ……政治で御座ろう?」
予備動作無しのベルセリカの中指がトウカの額を打つ。その威力にのけぞるトウカ。
額を押さえるトウカ。マリアベルに酒器を投げ付けられた事もあるが、高位種は揃って自身の額を狙う宿命を負っているとしか思えないと、トウカは痛みに呻く。
「止めはせぬさ。しかし、部下共には言うておけ。組織を率いるという事はそういう事で御座ろうに」ベルセリカは乱れたトウカの前髪を撫で付ける。
トウカは一礼する。
組織に於いての上位者不在の対応はベルセリカに一任するという命令書は、封緘して時間指定で開封、発令するという形で残しておいたが、指導者の唐突な不在は不安や不信を抱かせる要因となり得る。
「軽率だったとは思っています。しかし、これで俺を軽視する者は居なくなります。意見も通しやすくなる」
それは、トウカの紛れもない本心である。彼が手中に政治中枢を焼き討ちできる実力を持っており、尚且つそれを運用する事を躊躇わないという実績は絶大な 利益を齎す。実績ある恫喝はこの上なく有効であるし、有言実行の姿勢は支持者に絶対的な信頼を提供する。最早、トウカの政治権力は北部に於いて確立された と言っても過言ではない。
結局、トウカは軍事力を背景にした政治姿勢を恥じる事も厭う真似もしない。そう在る事が真理であると軍事力を信仰しているからだ。
個人の間では、法律や契約書や協定が、信義を守るのに役立つ。しかし権力者の間で信義が守られるのは、力によってのみである。
政治という常識を形作る分野を揺るがぬものとするには、常に軍事力による担保が欠かせない。
しかし、トウカが考えている以上に時代の潮流は加速を始めていた。
トウカの影響力は陸海軍にすらに留まらず、他地方にも及ぶだけの切っ掛けを得た。龍種は己が復権を求め、天使は古の約定を果たすべく軍神の両翼となる決意をしたのだ。
両翼を得た軍神は未だ自らの両翼の存在を正確に認識していないが、認識と信頼を得たならば飛ぶ事を畏れも躊躇もしない。時代は彼に飛び立てと駆り立てて いるが、未だ軍神は寒風吹き荒ぶ野心が眠る大地での戦いに注力している。そうした龍翼と天翼の影をトウカの背後にベルセリカが見ている事など、当人は気付 きもしない。
「某としては焼き討ちなどよりも、皇都の混乱が気になる。どうであった? 御屋形様は危険な真似をしたので御座ろう? 戒厳司令官など、真っ当な感性の者なれば引き受けはすまいよ」
そこに何かしらのか確信と打算があっての行動か、ベルセリカの問い掛けの意味を察したトウカは曖昧な笑みを浮かべる。
明確な理由はなかったが、陸海軍の危機を助け、右派の両院議員に恩を売るという目的もある。無論、皇都の左派活動を弾圧し、敵対的な商家を叩いて利益を守るという部分もあった。何より、関係悪化著しい警務府に妥協はしないという姿勢を見せつける意味もある。
皇都擾乱の副次効果として陸海軍への従軍希望者が続出しているとのことで、減少傾向から一転して爆発的な増加に両府長官は歓喜の叫びを漏らしたとの噂も ある。戦力化までの時間は必要だが、軍事費だけでなく人員確保の目途が付いた事は喜ばしい。陸海軍の人事部も祝杯を挙げているに違いなかった。
「位打ちを御心配されているので?」
歴史書で見た貴族政治を、トウカは現実に目にしようとは思いもしなかった。
位打ちは政治闘争……宮廷闘争の時代に比較的頻繁に行われていた手段である。相手勢力の一人を厚遇して離反の不安を周囲に抱かせ、或いは猜疑心を煽動す る事で相手勢力の分断や構成員の失敗を誘う政治手段である。増長すれば驕慢ゆえに自滅し、或いは猜疑や嫉妬から周囲に行動を制限される。突然の立場と地位
で力を発揮できず軽視され、組織内で主導権を奪われる可能性も少なくない。予期せぬ立場に抜擢されるという事は、予期せぬ行動と方針を強いられるという事 でもあるのだ。
突然の厚遇に浮かれて揺れる者は古今東西で絶える事はないが、トウカの場合は目的の為に立場がある為、現状の皇州同盟軍参謀総長よりも明確に利益や権力、軍事力が付随しない厚遇など一顧だにもしなかった。
「斯様な心配はして御座らんよ。……どちらかと言えば、龍共ぞ。あれの熱狂に巻き込まれては叶わぬよ」剣聖の溜息。
複数の戦闘航空団編制が成されつつある今、龍種は気焔を上げている。増長する者達を押さえ付ける権威者としての役目を負っているベルセリカの苦労は計り知れない。
本来、トウカが参謀総長ではなく総司令官となるべきという意見は将官の間でも数多くあった。外部との交渉事での肩書を求めて最高司令官という肩書もある が、実戦部隊の指揮権は総司令官であるベルセリカの下にある。これは、ベルセリカの権威によって綱紀粛正と指揮統率を図ろうという試みに他ならないが、剣 聖という肩書は確かに有効であった。武門ともなれば効果は絶大である。
「成程、そちらですか。確かに政治力に釣り合う軍事面での影響力は彼らの悲願。少々の跳ね上がりも致し方ないかと」
度が過ぎる様子であれば、憲兵隊の活躍となる。皇州同盟軍内で主導権争いをする気配があれば皇州同盟軍情報部の防諜網に引っ掛かる筈であった。
「浮かれた者に信を置くこと程に危険な事はない。途方もない莫迦をやらかしては叶わぬ」
ベルセリカの心からの不信感に、トウカは古の経験に根差したものであろうと推察する。
「龍種の利益があるからこそ、あの父龍は此方寄りの立場を取っているのです。我が軍が勝利という利益を得続ける間は跳ね返りの龍共の押さえ付けにも協力させられるでしょう。打診します」
ベルセリカは皇州同盟軍の顔役として、貴族や武家、企業家、高級軍人との会食や夜会などへの出席する日々を過ごしている。武辺者にとり途方もない心労であろう事は疑いない。トウカですら本心では避けたいと考える程の接待攻勢もある。
戦時下なれば、「欠席の段、平に御容赦を」と言えば、大日連の軍高官であれば済むが、皇国は帝国と恒常的に戦時下にある為、そうした御口上は使えない。戦時である事が日常に根差した情勢は、皇国臣民に自粛や自重という発想を失わせた。
戦争を理由にする事はできない。
「参謀総長の職に適任者が居れば、交代も構わないが……」
或いは、トウカがベルセリカの担う権力者達の御機嫌取りを行うようになれば、皇都擾乱での“成果”もあるので詰まらぬ宴席に呼ばれる回数は減少するので はないかと言い募るベルセリカを尻目に、トウカは流石に実戦部隊の最上級指揮官は兎も角として、外部への露出は考慮せねばならないと思い直す。
トウカ自身、皇州同盟軍最高司令官、皇州同盟軍参謀総長、シュットガルト=ロンメル領邦軍司令官を兼務している。
皇州同盟軍最高司令官は、トウカの実戦部隊に対する優位を示す肩書に過ぎないが、皇州同盟軍参謀総長は名実共に知性の総算たる牙城の城主と言える。その 上、ザムエルの妹であるエーリカに押し付けようと考えていたシュットガルト=ロンメル領邦軍司令官の地位も、未だ部隊編制計画を含めた双方の引き継ぎを終 えていない状況であった。
「御主が絶賛した狐の参謀将校が陸軍に居ると聞いたが?」
ベルセリカの言葉に虚を突かれたトウカは、思考が一時停止する。
ネネカを皇州同盟軍参謀総長に据えるという人事は、トウカは考慮すらしていなかった。
「……それこそ陸軍に対する位打ちと思われる。それに当人は愛国者。怒らしてもしまったので難しいかと」
能力的には十分に満たしていると言える。参謀将校であり、トウカの思惑を見抜いた実績もあった。陸軍府長官であるファーレンハイトが重用するだけあり、その資質は端倪すべからざるものがある。
「シャルンホルスト大佐の事を御存知で?」
「ミユキが皇都で友人ができたと嬉しそうにしておってな。エイゼンタールに訊ねた」
納得の経緯であり、既にトウカがフェルゼンに帰還して五日も経過している事を踏まえれば、ベルセリカがトウカの皇都擾乱での“活躍”の内情を知っても不思議ではない。
立ち上がったトウカだが、即座にベルセリカが腕を掴んで椅子へと引き摺り下ろす。慈悲はない。
皇都擾乱は刹那的感情と個人的思惑の交錯であった。
当初想定していた敵は踏み台に過ぎず、ただ熾天使が軍神を値踏みする為に用意した舞台に過ぎなかった。その辺りをベルセリカが知るにはクレアかネネカからの情報漏洩を疑わねばならないが、後者は立場と距離の問題から容易ではない。
――ハイドリヒの動向を確認する必要があるな。
トウカはクレアの副官であるホーエンシュタイン少佐への確認を決意する。
クレアへの信頼は損なわれたものの、彼女には新たにトウカとヨエルを取り持つ連絡役という価値が生じた。排除はできないが、情報漏洩は警戒すべき案件で ある。無論、上位者であるヨエルがトウカと敵対しないのであればクレアも裏切るとは考え難く、それ故に月一度、ヨエルの下に赴くという部分もある。無論、 皇都に赴くのは陸海軍府との会合や政府との折衝という理由もあった。
――うん? 皇都で活動するなら実働部隊の直卒は俺にはできないな。
暫くは現状維持とするしかないが、ベルセリカに伝えるには周囲には余りにも人目が多過ぎる。
トウカは硝子杯を傾ける仕草をして見せる。
酒精混じりでなくば話せない事もある。最近は武芸の稽古は量を維持しており、酒すらも抑え気味であるトウカは久方振りにウィシュケを飲みたいと、ベルセリカを宴の相棒として所望する。
「……御主も軽妙な男子となったものよなぁ」
「あちらで学んだ訳です。ああ、経費ですよ?」
ベルセリカの呆れ顔に、トウカは慇懃無礼な表情を務めて作る。
皇都での心臓への負担著しい高位種達との会談は、トウカの心理的な部分を酷く摩耗させた。それ故に、トウカはベルセリカの言葉など意にも返さないが、彼 は心の何処かで理解しつつあった。女性は多くの場面で理解ではなく共感を求めていると。少なくとも、ヨエルやネネカ、クレアには、ミユキほどではないにせ よ、そうした片鱗が垣間見えた。フェンリスだけは例外であったが。
そして、何より心理的負荷には酒が一番効く。
敢えて図太い姿勢を見せる事で皇都で揉まれたと示し、有象無象に応じねばならなかった点を強調してみせた。立場は近いと共感を見せた形であったが、ベルセリカは無造作に振り上げた拳を振り下ろすことで応じる。
直撃した頭部の箇所を擦るトウカの手を取り立ち上がったベルセリカ。
「某が決めて良かろう? のぅ、御屋形様」尖った犬歯を覗かせたベルセリカ。
トウカは叶わないと苦笑して頷いた。
剣聖に共感するなど過ぎたる感情であったのだ。
「全て許可します。適切に処理してください」
清楚可憐な容姿に秀麗な笑みを湛えた憲兵総監の一声。
皇州同盟軍憲兵隊司令部の一室で発令された命令に、各憲兵隊指揮官達が狼狽する様を副官である女性士官は興味深いと見据える。
濡羽色の髪を長髪の振分髪とし、流麗な印象を受ける身体つきを隠さない瀟洒な麗人と言った佇まいの副官は中位種の黒豹族であるが、種族的特徴を示す獣耳 や尻尾は魔術的に遮蔽しており人間種と変わらない背格好をしている。唯一、瞳だけは金色に浮かぶ瞳孔のままであり、彼女が身体付き通りの種族ではないと示 していた。
アヤヒ・ホーエンシュタイン。
皇州同盟軍情報部第九課より派遣された憲兵総監付き副官である。その本来の任務は憲兵総監の監視であり、同時にそれを相手に示す事で軽挙妄動を慎ませる という示威行為を担っていた。クレアは常にやましい事など何一つないという姿勢で副官であるアヤヒを重用しており、アヤヒも典型的な愛国者にして潔癖な憲 兵総監のクレアを軍人として信頼していた。
アヤヒの様な御目付け役は然して珍しい者ではなく、皇州同盟軍はヴェルテンベルク領邦軍からの伝統で、将官となれば二人の副官を配置される。一人は将官 に任命権があるが、もう一人は総司令部に抜擢される事実上の紐付きであった。総司令部との綿密な連絡体制の為などという御題目を信じている将官などいな い。その程度では佐官にすらなれないだろう。事実上の監視である。
しかし、クレアの副官は総司令部により抜擢されたアヤヒ一人である。
クレアがそう望み、赤心を示すとの理由である。ヴェルテンベルク領邦軍憲兵隊所属時は佐官であったが、自身による副官の抜擢の権利を捨て、司令部に任命権を丸投げして忠誠心を示したクレアの忠誠を疑うものなど、事情を知る者には皆無に等しい。
だが、皇州同盟軍の参謀総長にして最高司令官であるトウカが不信感を抱いている。
皇都擾乱に於ける遣り取りの概要を知るアヤヒはクレアに同情していたが、自身の進言程度でトウカが不信感を収めると考える程に無能ではない。
――どうも参謀総長閣下は報告書を信用なさらない。自身の所感を余りにも重視なさる。
若さ所以であろうかとも思える強固な確信と、老獪なる不信感に対処するにはアヤヒは実績も階級も著しく不足している。
――でも、帰還後は風向きが変わった。恐らくは、距離を定めたと見ていい。
熾天使ヨエルとの会談が契機である事は、随伴していたアヤヒにも分かるが、同時に理解や賛同によって信を得た訳ではないと察した。トウカのクレアに対する言動を見ればそれは理解できる。
敵ではないが味方でもないという……友軍という立場。
戦友であるザムエルやリシア、家臣であるベルセリカやラムケ、シュタイエルハウゼンとは違う友軍でしかないのだ。
アヤヒは、ヨエルとクレアの関係を知らないが、クレアに対する姿勢の固定はヨエルとクレアの関係を把握した事で成立したと、状況的に理解した。
最近では、ヨエルの意向を受けてクレアが皇州同盟軍に参加したとの噂が流れつつある。経路は全て天使系種族からであり、位打ちとも違う事はトウカとヨエルの有翼系種族の教導部隊設立からも察せる。
一〇〇人程の政治犯銃殺執行の命令書に署名するクレア。
往時と変わらぬ表情と声音、仕草だが、アヤヒは署名の筆跡の僅かな乱れを見逃さない。少なくともそうした点に気付ける程には副官を歴任している。佐官時代より一三年も副官を歴任しているのだ。
一人の憲兵中隊長から差し出された書類。憲兵中隊長の表情は引き攣っている。普段の苛烈な軍務姿勢に加え、セラフィム公ヨエルの紐付きであると知れたクレアに対する憲兵将校の大多数は、多大な緊張を強いられている。
階級という軍序列に加え、宮廷序列に在って最上位の公爵位を持つ熾天使の後ろ盾。委縮するのも致し方ない。ましてや中隊編制が基本の憲兵隊は、中隊長の 階級は大尉である。尉官では最高位といえ、今のクレアの数々の肩書を相手にしては、元帥号保有者に対する一兵卒に近いものがあった。
僅かな色気漂う清らかな笑みを湛えて書類を受け取るクレア。
洋墨壺に差し込んだ天使の羽を走らせて署名する。
しかし、書類の最後が僅かな音と共に破れる。
『………………』
室内にいる六名の憲兵中隊長は一様に無言を貫くが、瞳は恐怖に揺れている。怒らせる真似をしたのかと直立不動を一層と強固なものと成さしめて身構えた。
暫し破れを眺めたクレアは、その書類を憲兵中隊長へと差し出す。
「申し訳ありませんが、見ての通りです。再提出をお願いいたします」
「はっ! 了解です」
これは致命傷だと、その光景を目にしたアヤヒは表情を硬くする。
軍務に対して異様な潔癖さで望んでいるクレアの現状に、憲兵中隊長達の動揺は少なくない。見かねたアヤヒが進み出て退室を命じる程である。
「下がりなさい。書類は後日返却します」
退室する憲兵中隊長達の背を一瞥した後、アヤヒは執務机を挟んでクレアと相対した。クレアに休養を勧める為に。
実際のところ、クレアの命令がなくては動けない程に憲兵隊は脆弱ではない。寧ろ、機動的運用を行える治安維持部隊である憲兵隊は重装備の警務隊という扱 いも受けており、凶悪犯罪に対しても即応できた。現に一昨日の間諜による家屋籠城に対しては、魔導装甲擲弾兵装備の憲兵隊が時間を与えず突入している。
「“中将”閣下、御気分が優れぬのであれば休養を」アヤヒは柔らかな笑みで勧める。
昇進もクレアの重しとなっている。
ドラッヘンフェルス高地に於ける遅滞防御に於いて功ありと判断されたザムエルが大将となった点は納得できるが、クレアも皇都擾乱に於いて敵対的な政治勢 力の積極的漸減が評価されて中将を拝命した。無論、皇都擾乱の発端や情勢の誘導はクレアに負う部分が大きいが、それは一般的には伏せられており、公式見解 では皇都擾乱を早期終結させる為に陸海軍に協力した結果となっている。
アヤヒはクレアの昇進を、トウカのヨエルに対する信頼の姿勢の一つとして示したものに過ぎないと考えていた。クレアもその辺りを理解している筈であり、自身の昇進が政治的都合に過ぎない察していた。軍務に潔癖なクレアには歓迎しかねる昇進であったと推測できる。
クレアは厚遇されている。少なくとも朝野では軍神の憲兵として名高い。
しかし、実情は皇都でミユキを危険に晒した上、ヨエルの紐付きと判断され、留任されども以前の様な特命を受ける事はなくなった。憲兵という範疇を超えた活躍を求められなくなったという事実は、クレアにとり重大な事である。
俯いたクレアは溜息を一つ。
「今、一人になると余計な事を考えてしまいます。皇都を巡る情勢に関わった為に書類も溜まっているので処理しようと思うのですが……」
「閣下、軍務は避難すべき場所では御座いません。動揺が広がる前に御帰宅なさるべきでしょう」
軍務を理由に自身を取り巻く現状から目を背ける様に、想像以上に重傷であるとアヤヒは再度、帰宅を促すが、同時に今一人にさせて思い詰めては悪循環に陥りかねないとも考え直す。
「なら、二人で飲みにでもいきましょう。閣下も飲める御方でしょう?」右手を胸に当てて微笑むアヤヒ。
副官とは、ある種最も軍務の中で多様性を求められる立場でもある。上官の軍務を補佐するという部分だけでも、軍事知識や政治知識が求められる上、そこに心身共に支えるという部分が加わる。千差万別な種族があり、上官の癖や思考や嗜好を理解した上で彼らに最大限の能力を発揮させるという役目を負う彼らは軍人という範疇を超えた要素を多分に求められる。
それに、アヤヒとて無能ではない。寧ろ、副官という生き物は多種多様な心労があり、それ故にそうした立場の友人が多く居た。アヤヒも例外ではない。トウ カの副官である軍務に疎いミユキなどは例外だが、ザムエルの副官であるエーリカを始めとした複数の将官の副官と既知を得ている。
だからこそ分かる事情も多い。
戦時下の将官という不確定要素に満ちた戦局に当たる彼らは多くの心労を抱えている。それ故に抱え込む者やナニカに走る者も少なくない。鋭い感覚と感性を振り翳し、酷烈なまでに他者を評価する者とて居る。
「しかし、昼間からは流石に……」クレアが壁時計の針を一瞥する。
現在時刻、一四〇〇時。
一般企業では昼食と休憩が終わり、欠伸を噛み殺して其々の職務に就いている頃合いである。軍人も例外ではない。先程、退出した憲兵中隊長達の様に眠気とは無縁の立場に置かれている者など僅少である。
「御冗談を。昼からの飲酒は先代ヴェルテンベルク伯からの伝統ですよ」アヤヒは肩を竦める。
早退後の大衆酒場などヴェルテンベルク領邦軍軍人の嗜みですらあった。マリアベルがそうであったという理由もあるが、軍人の割引を行い飲食場所をある程度固定化する事で情報漏洩や間諜との接触を低減させる目的もあったが、一般には酒飲みの屁理屈として受容されている。
「その様な事をしている暇はありません、ないのです……」俯いたクレア。
執務机に落ちる涙。
「私、頑張ってきた心算です。国の為、義母の為に……それなのに何もかも足りていなかった……何も知らなかった」
不足を嘆くクレアだが、アヤヒが乱世に挑む英雄達を相手に互角を演じられる者などそうはいないと見ていた。戦争の時代。英傑は路傍の石のように生まれ、削られ、摩耗し、失われていく。その中で残った者達が英雄と称され、時代を記す筆と歴史を記す書を携える運命にある。
トウカもヨエルもそうした資質に恵まれ、運命に恵まれた者に他ならない。
運命は、何か偉大なことを為そうとするとき、運命の与える好機に気付き、それを活用する気概に溢れ、才能にも恵まれた人物を選ぶものである。反対に、破滅を呼びたいと望む時は、それに適した人物を選ぶ。
そんな運命という理不尽が指名した相手と肩を並べるには、秀才の域を出ない程度でしかないクレアは分が悪い。
「莫迦な子。本当に莫迦な子」
アヤヒは執務室へと腰を下ろし、クレアの頭に手を置く。
啜り泣く声に支配された執務室で、副官は憲兵総監の頭を撫で続けた。
個人の間では、法律や契約書や協定が、信義を守るのに役立つ。しかし権力者の間で信義が守られるのは、力によってのみである。
《花都共和国》 外交官 ニコロ・マキアヴェッリ
運命は、何か偉大なことを為そうとするとき、運命の与える好機に気付き、それを活用する気概に溢れ、才能にも恵まれた人物を選ぶものである。反対に、破滅を呼びたいと望む時は、それに適した人物を選ぶ。
《花都共和国》 外交官 ニコロ・マキアヴェッリ
戦線維持と憲兵の限界点。
長髪の振分髪……男の子が大好きな姫カットですね。輪郭と顔立ちが強調されて三次元では似合わない人ばかりなのですが……そんなホーエンシュタイン少佐は意外と昔から姓だけは出ていましたね。