第二一八話 軍神の誤算
「皇国に逃げるんだ! 先に行け!」
いずこかの父が大通りで叫ぶ声を耳に、皇国大使は自己嫌悪と罪悪感で己が身が押し潰されそうであった。
手には握り潰した通信文が、これ以上ない程に自己主張していた。
「大使! 我々も脱出を!」
縋る様に肩を抱く友人でもある駐在武官に、大使は尚も動けないでいた。ここで全てを投げ出して逃げる事を選択してしまえば、生涯の限りに於いて彼は外交の精華たる大使という役目に誇りを持つ事はできなくなるやも知れぬという葛藤。
「分かっている! しかし! しかし、だ! これは余りにも!」
狂っているとしか言い様がない。そして、祖国の凶行を止めるべき法律も常識も、実はある様でなかったのだ。世界は常に外交努力を無惨な形で試そうとし続けるが、今回ばかりは想像の埒外であった。
「帝国による領有宣言が行われたのです! 皇国軍の交戦規定は満たされたのです! ええ、狂おしい程に!」
駐在武官の言葉もどこか遠い。
祖国の爆撃騎が、未だ民衆の逃げ惑う都市を灰燼とすべく、今まさに迫りつつあるなどと信じられ様はずもなかった。
曇天の先には、砲声と銃声が満ちている。
帝国軍が目前にまで迫っている。大部分の皇国人は既に脱出しつつあった。皇国臣民の旅行者や交易者も有事の際の対応は周知徹底されていた。係争中の国家 と面する国家に赴く際は、避難行動の手順が書類で配布されているのだ。何より相手は帝国。条約も法律も通用しない無頼漢である。己の身を護るのは己以外に 存在しない。
「皇州同盟め! これでは、ただの戦争屋ではないか!」罵声を放つ皇国大使。
既に中心部に銃声と砲声が轟く状況では、外交官にできることなど一つとしてない。査証を発行して難民となるであろう中原諸国民の幾何かを皇国に招き入れるという時間すらなかった。或いは、それを理解した上での皇州同盟軍航空隊による空襲である事は疑いない。
北部臣民は排他的である。穀物生産量に於いて劣る大地であるが故に、彼らは他者を受け入れる余裕がない事を本能で察している。自らの生活に満足し得ない者が、他者を受け入れ、そこに資金を投じる事を良しとする筈がない。
恐らく、皇州同盟軍の決断は皇国で少なくない批判を招く事は疑いない。
しかし、北部臣民は絶賛するに違いないと、皇国大使は確信していた。軍であれ難民であれ、彼らは郷土を侵犯する者に対し、許容も慈悲も与えない。彼らは被害者意識を持っているのだ。被害者達は反骨心を以て応じる。生活を脅かすであろう脅威に対しては敏感だった。
「狂っている……」
皇州同盟軍の決断は、皇都擾乱で一部から得つつあった信頼を揺るがす程に拙速な対応と言える。右派勢力もまた国難に在って難民を受け入れる余地なしと擁護するのは疑いないが、民間人を巻き込む事を前提とした“戦場阻止”を断固として行うトウカに恐怖を抱くだろう。
だが、皇国大使はトウカの決断の真の意味を理解している。
彼は北部臣民の意見の代弁者として成立した。
皇州同盟成立は、マリアベルから継承した苛烈なまでの姿勢を、北部臣民が歓呼の声を以て迎え入れた結果である。急進的な軍閥が許容される状況とは、それ以外に存在しない。
トウカは取捨選択を行ったのだ。最大にして確実な支持基盤である北部臣民を守るという姿勢を断固として見せた意義は大きい。北部での彼の地位は揺るがぬものとなろう。
支持しつつある者の賞賛ではなく、確実に支持する者の支持の護持を選択したのだ。多数の支持が必要な政治屋の判断ではない。左派が優勢であった世に在って、特定の個々人の支持こそを支柱とした軍人の発想である。
されども、彼は政治屋として正しい判断をしたとも言える。
帝国〈南部鎮定軍〉が攻め入り、崩壊しつつある北部臣民を尚も支持基盤とし続けるという姿勢は、義務を断じて遂行するという事である。その義務に対して の狂おしいまでの献身と挺身は政界に於いても武器となる。何時の世も右へ左へと意見を翻して陣営を渡り歩く者は信を得られない。断固として己の姿勢を貫き 徹す者こそが最終的な信を得るのだ。
そして、彼が帝国〈南部鎮定軍〉を撃退した暁には、北部臣民は彼の発言と行動を無条件で容認しかねない程の信頼を彼に対して抱くだろう。
外務府では、トウカの頑なな姿勢に対して「交渉の余地すら与えない」と批判が大きいが、大使は彼を政戦両略の英雄だと本能で察した。官僚を統制する政治屋の視点を持っている。信義の行使なくば、ヒトは続かない。
無論、大使としては容認できない信義の行使を認める心算はなかった。
駐在武官に背を押されて進む大使は、憤怒と悲哀を覚えた。
彼はトウカが苛烈であると思いはすれども、それを容認したのは北部臣民である意味を弁えていた。皇都擾乱など後の話に過ぎない。内戦前より皇国は思想的 に分断されていたのだ。生活水準の差異からなる被害者と加害者という感情に。トウカはその代弁者として成立したに過ぎない。
怒れる者が急進的な者を指導者として選択するのは歴史が証明している。これは必然的悲劇だったのだ。
最早、悲しみしかない。溢れる涙を止められない。
彼らは怒りの矛先を他国に向けつつある。その点に関してもトウカは優秀と言えた。国内に向ければ再度の内戦勃発であるし、次は確実に国が割れる。それを 避けるべく一時避難した北部臣民を他地方に受け入れさせる事で交流を図ろうとしている。交流と共同で困難に当たるという目標は被害者意識の少なくない部分 を誘拐させるだろう。その為の負担を他地方に押し付けた点も流石という他ない。
しかし、他国へと害意を向ける者が祖国で台頭するという危機を止める者は最早、戦時となった今では皆無に等しいだろう。
それは外交が軍事の先鋒を担う事を意味する。
交渉ではなく、恫喝や正当化の手段の一つに成り下がるという絶望を、彼は一外交官として感じざるを得なかった。
しかし、ここで終われない。政治家と貴族が祖国の分断を放置し、惨禍が迫る今この時に在っても尚、彼は皇国外交官の一翼を成しているのだ。迫りくる惨禍を最小限に留める義務がある。
廊下の窓から見える逃げ惑う民衆を一瞥し、大使はしっかりとした足取りで歩を進め始める。祖国の外交を担う一員であるという矜持は彼を立ち直らせた。
矜持など政戦に於いて投げ捨ててこそ最善を希求できると言わんばかりの姿勢が昨今では目立つが、矜持とは当人のそれまでの経歴にして自負心でもある。そ れはら周囲を心服させる大きな要素であるし、周囲の信頼の根拠とも成り得た。トウカやマリアベルの様に、狂おしい程に苛烈無比な行動を続ける事で信頼の要 素を証明し続ける事など常人には叶わない。
「書類の破却は?」
「文武ともに終えているそうです。最後は我々だけです。その後は万全を期す為、この大使館事態を焼き払う心算ですよ」
足早で廊下を進む二人は要点を掻い摘んで状況確認を行う。
混乱して逃げ惑う民衆を避けて車輛で離脱するのは不可能であり、脱出は地下水路を利用して行う。大使としても事前の避難計画通りの言葉に、異論は挟まな い。他国の大使も同様の離脱手段を講じるであろう事は疑いない。特に帝国の大使などは通りに飛び出せば怒れる民衆に袋叩きにされて襤褸雑巾の有り様となる
のに一刻とかからないだろう。無論、皇州同盟軍航空隊による戦場阻止の為の空襲が始まれば、彼らも同様の立場に追い遣られる。
地下水道へと続く扉を開けた武駐在武官。
大使は跪くと軍靴の靴紐を一層と強く結び直す。過度の危機管理体制を平時でも維持する皇国外務府は、公式の場でも礼服に軍靴という出で立ちっであるのは世界的に有名な話である。
「よし、行こう」「おうともさ」
友人として二人は頷き合う。
駐在武官はP98自動拳銃を構える。本来は、他国では外交特権があれども武装の許可は下りないが、何処の国の大使館も武器の一つや二つは隠し持っている 御時世。皇国もまた例外ではない。帝国大使館などは怒り狂った民衆に襲われる事を理解した上で、本国から駐在武官という名目で兵士を送り込んでいたらし
く、水冷式機関銃の重低音が断続的に響いている。先程に駐在武官より知らされた情報であるが、怒り狂って殺到した民衆を二階から複数の水冷式機関銃で掃射 しているとの事である。
他国に対して領土的野心を隠さない国家だけあり、帝国は自らが恨まれている事を良く理解している。大使館から機銃掃射という時点で、外交はどうしたと罵声を浴びせられる事案であるが、それを帝国の国是が容認する以上、それは彼らにとっての正義である。
地下水道へと続く階段を駆け下りると、駐在武官が負い革で背にした騎兵銃小銃を大使へと押し付けてくる。狩猟が趣味である為、皇国大使も小銃は扱えた。地下水道という限定空間である為、銃身が切り詰められて取り回しが容易になっている騎兵小銃の存在は頼りになる。
先に進む駐在武官は前衛としての役目を負う心算であろうが、大使としては自身は夜目をの効く種族なので先に立ちたいという欲望に駆られたが、国家の一部 を担う以上、立場や各職は種族的差異を優越する。統治機構は、精神的安寧と法的秩序、科学的近代化を齎すが、常に最善を導き出す訳ではない。
進む二人。先行した外交官達の後を追うべく急ぐ。
不意に前方に朧げな光を感じた皇国大使は、無言で駐在武官の肩を掴む。
「先に誰かいる。かなり先だけど、明かりが見えるよ」静かに告げる皇国大使。
「外交官を頸になっても、陸軍でやっていけるな」駐在武官の軽口。
二人は、頭上の大通りの溝から差し込む僅かな陽光の下で頷き合う。
時間は限られている。既に大使館は炎上を始めている筈で、退路は既にない。例え、何処かの勢力が警戒線を張っていたとしても、彼らには突破する以外の選択肢はなかった。迂回するだけの時間はない。
しかし、近付くにつれて先行した筈の外交官達が集団に交じっている事に気が付いて、構えた銃口を下げた。対する困惑の表情で立ち話をしている集団も、二人に気付いたのか、視線を向けてくる、一瞬、上がりかけた銃口が再び下がる。集団も二人の正体を認識した。
先行した筈の外交官達の間を縫ってに現れたにこやかな老人に、皇国大使は困惑の表情の意味を察した。
「御久しぶりです、皇国大使」
「これは……共和国大使」
よく観察してみれば、集団には面識のある共和国外交官が複数確認できる。皇国と共和国の外交官が脱出中に遭遇した察した大使は、曖昧な笑みを浮かべた。何処の国の大使館も脱出方法として同じ答えに行き着いた点には納得と、僅かな可笑しさを感じざるを得ない。
「共和国の皆様も脱出を?」
「ええ、その心算でしたが、その、水路が砲撃で崩れまして……」
困り顔を連ねる共和国側の外交官達に、皇国大使はその意味を察して微笑む。
彼らは地下水路で郊外まで脱出し、共和国側の国境付近に逃れようと考えていたが、予定していた地下水路が砲撃で崩壊した為、皇国側に逃れようとしていた のだ。しかし、皇国に逃れるという事は皇国の国境を突破するという事である。経路も不明であるし、無断での突破では国境警備隊の索敵軍狼兵に捕捉されて拘
束されることは間違いない。最悪、中原諸国崩壊で殺気立つ国境警備隊に難民と見られるどころか、帝国軍の浸透突破と判断されて射殺される可能性も皆無では なかった。
「では、御一緒致しましょう。私が皆さまを共和国まで送り届ける算段を付けます。なに、共に巨悪と戦う同胞ではありませんか」
共通の敵と争うという現実は、主義主張や政治体制という差異を容易に圧倒する。
皇国の国境警備隊の練度と攻撃的な姿勢は皇国議会でも議題に上がる程なので、彼らの判断は正しいものがある。「国境侵犯を意図する者に須らく死を与えよ」という標語の下に任務を遂行する彼らに臆するものがあるのは、決して恥じ入る事ではない。斯く言う皇国大使も、皇国の国境警備隊を徒歩で突破する勇気も度胸も持ち合わせてはいなかった。
巨悪に立ち向かう同胞と言うには、彼らは権威を以って統治する総てに対して害意を隠さない。しかし、それを押し殺して握手を交わすのが外交である。利益とは、不利益を乗り越えた先にこそ存在する。
二つの外交官の集団が歩き出す。皇国国境へと。
共和国側の外交官達は脱出の算段が付き、緊張から解放された為か口数が多い。
しかし、その中で捨て置けない言葉……共和国大使の言い放った言葉があった。
「しかし、難民の件。祖国は大層と喜んでおりましたな」
ナンダソレハ。
皇国大使は、乾いていく口内の唾液を感じ、慌てて引き戻すとするが、それを叶えるだけの理由を彼は見つけられなかった。
「それは……」
「おや、御存知ない? どうも我が国の大統領に直接、軍神殿が提言を成された様ですが……」僅かな逡巡と困惑を滲ませた共和国大使。
共和国大使に取り既定事実であったであろう案件は、皇国大使に取り与り知らぬ案件であった。皇州同盟が絡む案件であるのは察せる。彼らは政府や官僚に信を置いていない。故に情報は常に事後的なものとなる。無慈悲なまでに。
「難民の吸収です。本国は大喜びですぞ」
「難民を、ですか?」
難民を喜ぶ姿勢を露わにする共和国大使の姿勢を、皇国大使は計り兼ねた。
難民とは、好意的に判断しても不良債権である。被害者意識を楯に性質の悪い集団を形成する彼らを国民として迎え入れるのは難しい。治安と統制を損なう理由となり、悪感情からなる排斥と擁護は国家を分断しかねないものがある。
「戦力とする御心算ですか?」駐在武官が問う。
「ええ、そうです。先程、祖国より通達があったのです。連合王国から宣戦布告を受けた、と。人的資源の補給は必要だとか」
共和国大使の言葉に、皇国大使は干乾びた喉を揺らす。
共和国は北方の帝国、南方の連合王国に挟撃される形となる。
皇国と帝国、共和国という大国に囲まれた中原諸国は、周辺諸国の軍事均衡の上に成立していたが、それでも尚、帝国が侵攻を開始するという事は、皇国と共 和国が手出ししないという確証があっての事と取れる。或いは、交戦状態に陥っても戦況を優位に推移させ得る自信と根拠があるという事になるが、順当に考え れば両国が派兵できないという根拠を見い出したと見るべきである。
皇国は帝国にエルライン回廊を突破されて北部で遅滞防御を展開しており、共和国は後背を連合王国に刺されている。両国共に兵力に余裕はなく、これ以上、戦線を増やす真似を控え、国境の防備を固めて様子を窺うしかない。
皇国も共和国も連合王国の動員に気付かなかったのかという疑問はあるが、元より主戦線を帝国国境と定めていた共和国軍が相手であれば、段階的動員の最中 に在っての軍事衝突でも圧倒できると見ていたのは間違いない。皇国に関しては本土決戦の最中に在るのだ。長く変化のなかった第三国の情勢に対する情報収集
の優先順位が落ちるのは致し方なく、皇国の場合、融和姿勢を継続する外務府が役に立つ筈もない。
外務府が責任追及の矢面に晒されるであろうことを察した皇国大使を他所に、駐在武官が共和国大使へ尋ねる。
「難民を戦力化させる御心算ですか? 些か無理があるのでは……」
「最早、民主共和制を護る為ならば、自由や権利などとは言っても居られないと本国は判断したのでしょうな。大規模動員を経ても尚、戦力に不足があるのであれば、難民ですら使うしかありますまい」
帝国を憎悪するのであれば、難民であっても相応の戦働きを示すであろうとの判断である事は疑いない。例え、そうでなくとも督戦隊を用いて最前線で戦わせ 得るならば手札の一つと成り得る。共和国は最早、主義主張を跳ね除けて国家を保全せねばならない戦況になると判断しているのだ。
薄暗い地下水路を進む二国の大使館職員達。
下水道でないことは幸いだが、雪解けが始まった季節であり、増水した水は彼らの足元から容赦なく熱を奪う。地下水路の構造は、両端をヒト二人が並走できる程度の通路があり、中央を広い水路が占拠しているが、増水で水路を侵食しつつあった。
無数の足音に、撥ねる水音。
しかし、上の大通りの怒声と悲鳴、車輛の駆動音、破砕音は足下で蠢く彼らの音を容易に消却した。彼らは今、戦争の腸の中に在るのだ。
「しかし、帝国も切羽詰っていると見るべきでしょう」
駐在武官は「我々だけが苦しい訳ではないのでは」と言葉を重ねる。
食糧難とは聞くが、確かに中原諸国の資産を目当てに侵攻したとなれば切羽詰まっていると取れなくもない。穀倉地帯を奪えないならば、収奪した資産で他国から食糧を買い上げるという、暴力的にして単純な計算である。切羽詰まっているという表現は妥当とも言える。
「効率的にやるなら連合王国の開戦時期に合わせて、エルライン回廊でなく、中原諸国から皇国や共和国を攻撃すればよかった。両国の想定していない戦線の突破です。下手を打たねば致命傷を負わせられるかと」
それは軍人の知見と言えた。外交や政治から問題を見るのではなく、純軍事的な知見から敵国に打撃を与えるという視点のみで語られた言葉と言える。
理解できないと駐在武官が眉を顰める中、両国の大使は顔を見合わせる。二人にとり、それは然して難しい問題ではなかった。
連合王国を宣戦布告させ得る時期と、食糧難で帝国財政が破綻する時期、軍事行動で成果を得られる時期、それら全てを満たす時期がなかったと見るべきなの だ。国家の国是と財政、政治は連動しているが、全てを満たす選択とは往々にして存在しないものである。全てにとっての最善がないのは、国家とて例外ではな
い。個人から見て万能感すら漂う国家権力だが、実情として国家は個人以上に妥協を重ねている。歴史上には妥協が過ぎて廃滅する国家すら存在するのだ。
「或いは、連合王国を宣戦布告まで導き、共和国の挟撃を演出した者と、皇国のエルライン回廊突破を演出した者が、本来は別であった可能性もありますな」
「そうなると、前者は政治部門、後者は軍事部門でしょう。噂の共産主義の拡大を防ぐべく、国威や武威を知らしめる必要性を感じた双方が別々に策を弄したとも取れます」
両大使は、外交官の直感とでも言うべきもので帝国の戦争が一つの意思で行われていないと感じていた。帝位継承権の絡む問題か、国内勢力の主導権争いかまでは断定し難いが、効率性の問題と軍事行動の精密性とでも言うべき点で際立つ差異が双方にはある。
――少なくとも、共和国の挟撃は、内戦までをも利用した皇国侵攻までの知略はない。
皇国大使は、双方の演出を成した者を稀代の戦略家であると判断した。しかし 、差は大きい。
皇国侵攻は内戦勃発と皇国国内諸勢力の動きを予想した上で、エルライン回廊を奇想兵器を用いて突破。内戦で神算鬼謀の武勇を示した軍神すら守勢に回らせている。
共和国侵攻は、中立の姿勢を堅持していた連合王国を同盟を組むという訳ではなく、共和国に宣戦布告させて侵攻させるという一手で挟撃を演出した。
難攻不落と謳われていたエルライン回廊突破の奇想兵器。
《ヴィンサー連合王国》による突然の宣戦布告と武力侵攻。
共に国際的に認知されていた大前提を覆しての壮挙と言えるが、前者の複雑さは後者を遥かに優越するものがある。他国の内戦勃発の時期と内戦終結……内戦 の推移を正確に読み切った上での行動となっている。話を聞く限りでは、共和国は追い詰められてはいるが、一撃で致命的な打撃を受けたとは思えない。少なく とも共和国大使の言動からは読み取れなかった。
共和国は、南北に戦線を抱える事となったが、長年、遮るものがそう多くはない帝国と交戦を重ねていた地力は侮れないものがある。後退と戦線整理によって 段階的動員の儘に侵攻を行う連合王国を押し留めるのが不可能とも思えない。連合王国は悟られぬ事を期し、そして奇襲効果を獲得する為、戦時体制への移行を
経ての武力侵攻を選択しなかった。侵攻は限定的となる公算が大きい。連合王国もある程度の領土割譲が限界と見ているとも取れる。
情報が限定的である為、正確な推察は困難であるが、帝国には複数の戦略家が存在すると見受けられる。
共和国大使は、太腿まで濡れる事を恐れず、水路へ降りると、通路の皇国大使へと並び立つ。水路へ降りた事で見上げる視線となった初老の共和国大使の視線は薄暗い水路の中に在っても尚、陽溜まりの如き柔らかな気配を湛えている。
「さて、詳しくは分かりませぬが、貴国の軍神殿であれば理解しておられるのでは?」
皇国大使はそこに探る様な気配を気取った。外交官という当然の様に複数枚の舌を持つ者達の遣り取りは決して額面上に留まらない。
「いえいえ、一外交官にまで我が国の精華たる軍神殿の御深謀は伝わりはしませんよ」そう返すしかない皇国大使。
控えめに見て皇国外務府と皇州同盟の関係は険悪である。外務府は全方位外交の一環宜しく皇州同盟との関係改善を急いでいるが、当の皇州同盟は外務府を左 派の牙城として潜在的脅威と位置付けていた。口先では解決し得ないと内戦に踏み切った勢力の継承組織と、近年の数代天帝の基本姿勢である融和外交姿勢を堅 持してきた皇国外務府では根本的に相容れない。
その辺りまで見極めようとしていると理解した皇国大使は、明瞭な言葉を返さず、無難なものへと留めるが、共和国大使にはそれでも十分である事は疑いない。
《ローラン共和国》は、《ヴァリスヘイム皇国》と《皇州同盟》を天秤に掛けている。
外交の相手として、一国と一軍閥を同等に扱う価値があるかと値踏みしているのだ。
皇州同盟は、政戦共に一国と見るに相応しいだけの制度を兼ね備えているが、国家と見るだけの余地の有無は安定的な財源の有無に依る所が大きい。共和国は帝国に良く抗戦する皇州同盟が継続すると判断し、尚且つ、戦後は確たる立場を築くかの確認を急いているのだろう。
彼らの積極的な軍事行動が祖国を救済し得るかという期待が、現状の共和国にはあるのかも知れない。或いは、トウカが共和国に難民が共和国に流れるという 話題を通達したのは裏があるのかも知れない。難民を督戦隊を背に戦場に立たせるのは、トウカの提案であるかも知れなかった。中原諸国奪還の第一歩として共 和国戦線で戦うという流れを吹き込んだ可能性も捨てきれない。
トウカが共和国に秋波を送り、共和国は魅力に感じた。
無論、トウカからすると恩を売っておこうという程度に考えたのかも知れないが、現状の共和国は大きな恩義を感じたに違いなかった。或いは、一国家として 扱う事で同盟の余地があるかの調査も行われているかも知れない。亡国の淵に立つ民主共和主義国は、隣国が奇妙な王権主義国か、武断的な軍国主義国かなどと
いう差異は然したるものではないと割り切ったとするならば、皇国は国家として一つの危機を迎える事になるだろう。
一地方軍閥が隣国より国家としての待遇を受けるのだ。皇国は政治や経済だけではなく、外交的にも国土を分断された形になる。それは、最早、一つの独立国の成立に等しい。
「さて、本当に祖国に帰る道を失ったのか。皇国政府と皇州同盟の認識の差を確認しに来たようにも思えますがね」駐在武官が小声で嘯く。
郊外の廃墟内へと続くという階段を指差す駐在武官を他所に、皇国大使はある種の恐怖で肩を震わせるしかなかった。
「帝国主義者め! この糞忙しい時に! ああ、だろうな! そうだろうよぉ! 俺でもそうするぜぇ! 敵の嫌がる事を喜んでする奴でもなければ、指揮官は務まらんだろうなぁ!」
ザムエルは宿酔の鈍痛を振り払うかの様に、帝国軍の展開しているであろう方角に罵声を放つ。トウカ曰く、帝国陸軍〈南部鎮定軍〉司令官であるリディアは大層な美人であるというが、このままでは戦場で遭遇すれば婦女暴行は避け得ないとすら思える程に、ザムエルは怒り狂う。
昨夜の昇進を祝っての酒宴で散々に酒を流し込んだザムエルは、派手な飲酒の結果として重篤な宿酔の大攻勢に晒されていた。派手に水分と糖分を摂取して養生するまではいいが、意識のない内に前線に増派される二個師団の車輛に放り込まれていたザムエルは痛む体の節々に天を仰ぐ。
壁の戦域図には、大きく後退を続ける友軍の展開状況が蠢いている。魔導技術の賜物として、戦域図上の戦力は残酷なまでに正確な情勢を稀代の装甲部隊指揮官に教えていた。
「代行でリシアに指揮を執らせるのは糞だろうが。あいつめ、どれだけ撤退すれば気が済むんだよ」
ザムエルが起床した時点で、〈ドラッヘンフェルス軍集団〉の指揮は実質的にリシアが代行で執っていたのだ。書類上と命令者の名は次席指揮官であるタル ヴェラ中将であるが、実情はリシアが指揮を執っているという。トウカは最早、リシアを紫苑色の髪を持つ戦乙女として政治利用するという意図を隠してもいな い。リシア当人も乗り気である。
「そもそも、あの紫芋もしこたま飲んでいたじゃねぇか。何で平然としてやがるんだよ。やっぱマリア様の娘だろうが」
妙に酒精に強いという龍種の血脈に在るならば納得できるが、混血種や人間種であるというならば、明らかに種族詐称である。
実際のところ、リシア最初の数杯、混合酒を嗜んだ程度で、以降は短式硝子杯に注がれた果実水を飲んでいたに過ぎない。権力者や上官との酒宴を士官学校時代から重ねていたリシアは、呑み助の扱いを心得ていた。莫迦の莫迦な飲み方に付き合う心算はないと、酒守に耳打ちし、南洋諸島産の高級紙巻煙草を握らせたリシアの作戦立案能力を、ザムエルは知らない。
衛生魔導士を呼び寄せ、治癒術式で鈍痛を抑えるべく、部屋に備え付けられた多目的結晶を手に取るザムエル。
血管の膨張を抑制し、血中の酒毒を 中和、肝機能の強化を図るという複合術式は極めて有効な宿酔対策と言える。無論、倦怠感や食欲の減衰を解消するまでの効果はないが、頭痛や腹痛には絶大な
効果を有した。去りとて男の沽券に係わるとして、ザムエルの様に衛生魔導士の厄介になる事を拒む者は貴軍官民でも少なくない。少なくとも一両日中には改善 すると忍耐を選択する者は一定数、存在した。
飲酒をするという行為を勇姿と捉えるのは、軍人という社会人もまた例外ではない。ザムエルも、そうした意味では酷く“立派な”社会人と言えた。
「政治に関わると心が汚れるぜ、畜生。溝浚いなんぞ、やるもんじゃねぇ」
民衆が関わる事を避け、嫌悪するであろう分野にすら関わらねばならない政治家という生き物は、人格も歪むと、ザムエルは確信している。人格が受けた傷に よって形を成し、傷の数や大きさによって、その形がより明確な形状を成すとの確信は、軍人であるからこその視点によるものである。それは、マリアベル隷下
であってヴェルテンベルク領邦軍自体が多大に歪んだマリアベルに影響を受けているのではないかという周囲の疑念を理解した上での確信でもあった。
がしがしと頭を掻くザムエルを余所に、部屋の扉が開く。
言葉もないく扉を開けた無礼者に視線を向けると、それは黒衣の軍神だった。
「辛そうだな。ヴァレンシュタイン」
トウカの第一声は抑えられたものであった。宿酔に対する配慮には感謝できるが、それでも言葉を返す事が億劫なザムエルは胡乱な視線を向ける。幸いな事に、トウカの御伴は副官のミユキ一人であり、非難の視線はない。
「気分の優れない名将がいると聞いてな。どうだ? 衛生魔導士の促成過程を終えた狐に診させては」
「……助かる」
戦時下の軍教育課程としての促成過程は平時に比して半分以下の時間で育成されるが、血液内の数種の毒素を中和する術式は汎用性に優れる為、教育課程に含まれているので、ミユキにも可能である。
ミユキがザムエルの左手を取り、詠唱を始める。それを見届けたトウカは応接椅子に腰掛けて要件を口にする。
「共和国の話は聞いているな? 今回の件で相手が決戦を急いだ。残念ながら、これ以上の遅滞防御は難しい。三カ月を目処に〈南部鎮定軍〉を殲滅する」
「無謀だぜ、そいつはぁ」ザムエルは呻く。
しかし、説明を重ねるトウカの言葉を受け、ザムエルは黙り込む。
個人の武勇を圧倒できるだけの兵力と砲兵火力を〈南部鎮定軍〉は兼ね備えている。対する皇国軍は兵器性能に勝るものの、陸軍や無数の領邦軍、皇州同盟軍の混成である為の連携不備を完全に解消できてはいない。挙句にベルゲン近郊での兵力集結は未だ四割程度に収まっている。
三カ月後の決戦時には六割程度……諸勢力を総計した兵力は二五万名を超える程度に収まる。それも、内の約四万名は促成錬成を終えた程度の新兵が主体となっている。
対する帝国南部鎮定軍の総兵力は、決戦時には後続含め約一二四万名であると推測されている。無論、五〇万名程度は民兵であると推測されているが、小銃と手榴弾程度は充足しているとの事であった。督戦隊の下であれば大規模な突撃は可能である。
彼我の戦力比は四対一。
「他の領邦軍はどうしたんだよ? 想定なら後、五万は掻き集められんだろ?」
「共和国だ。帝国との戦線が想像以上に後退しつつあるらしい。西部貴族が怯えて戦力抽出を渋る。余裕のない東部と南部なら兎も角、西部まで余裕がなくなるのは想定外だ」
「想定外……」
あの軍神が想定外!
ザムエルは、掛ける言葉が見つからなかった。皇国北部の貴軍官民の誰も彼もが、トウカの戦略眼に絶大な信を置いている。彼が“想定外”などという言葉を口にする事こそが想定外であるとすら言えた。
「……なにかが居る。居るんだ。帝国の何処かに居る。俺が警戒していた相手とは別口だ」
「主様……」詠唱を終えたミユキ。
軍神に寄り添う狐耳の副官。
よく見れば、トウカの貌には色濃く疲労の後が窺える。昨晩は一睡もしていなかったであろうことは疑いない。流転する戦況に対し、彼は全身全霊を以って応じている。二十歳にも満たない若者に押し付けるべき案件ではない。
「糞がッ! 公爵や武家はどうした! 口先ばかりで役に立たねぇ奴らだ!」
「いや、彼らは良くやってくれている。昨日も小柄な高位龍種の派遣に即応してくれた。為すべき事は理解している」
トウカが、七武五公を称賛するなど、先程までのザムエルには想像し得ない事である。
一夜で歴史が動いたのだ。
ザムエルは軽減されたつつも、尚、残る頭痛を押し退けて立ち上がると叫ぶ。
「テメぇは寝てろ! おい狐娘、御前はコレの女だろ! 男一人慰められねぇのか! 甲斐性みせろや! 俺は指揮に戻る! いいな!?」
ザムエルは椅子に掛けていた軍装の上衣を引っ掴み、部屋を飛び出そうとする。
「待て! リシアの後退は俺が指示した。段階的な後退ならアレにもできる。理由は――」
「――五月蠅ぇよ! 中央の戦線のみの後退……突出部を敵の打撃部隊に作らせて袋叩きだろ!? 後は任せろや! テメェは、その狐でも抱いて寝てろ!」ザムエル畳み掛ける様に言葉を叩き付ける。
彼とてトウカの戦闘詳報や軍事学論文を研究しているのだ。言動では「戦略は詳しい連中に丸投げする」とは言いつつも、彼自身、一度はマリアベルという主 君を不見識と浅慮で手遅れの儘に失っている。過去を学ばぬ事に対する恐怖は、彼の不器用を是正しないまでも、先例に学ぶだけの理由を与えた。
突出部を敵に形成させ、そこを装甲部隊などの機動力に襲わせる。
トウカの立案した防御に関する戦闘教義の一つである。本来、《独逸第三帝国》陸軍が行っていたモノに改良を加えたものであった。彼は常に歴史に学んでいる。
最前線の歩兵部隊や対戦車砲部隊、迫撃砲部隊の広域展開による戦線形成。突破された後は野戦拠点と重砲や突撃砲、自走砲、砲撃型魔導士の直協支援を受けた次の防衛線が敵を受け止める。それでも突破されるならば、重戦車や列車砲、魔導砲兵、重噴進弾発射機部隊を主体とした部隊で遅滞防御を行う。
敵の停滞、或いは縦深へ深く食い込んだ状況で、予備兵力の装甲部隊や装虎兵部隊、魔導車化歩兵部隊を主体とした部隊が迂回攻撃により敵部隊を分断、攻勢の起点となる主力部隊を撃破、攻勢の衝撃力を削ぎ取るという戦術を基本としていた。
その戦術を実行するには、中央の段階的な後退は勿論、両翼が防衛線を堅持する必要性がある。敵の攻勢正面を限定せねば、刈り取るべき突出部は生じないのだ。
ザムエルは上着を羽織り、部屋を飛び出す。
あの帝国砲兵師団を相手に高度に陣地化された訳でもない両翼の戦線が堅持できる筈もない。素早い陣地転換が困難な帝国軍の野戦砲は、突破時には軽砲や騎兵砲以外、随伴できないものの、直協支援という意味では絶大な効果を持つ。
ドラッヘンフェルス高地よりの撤退戦は熾烈さを増している。
無数の軍狼兵小隊が遊弋し、狙撃猟兵による浸透突破が図られ、〈南部鎮定軍〉の進出を妨害しているが、所詮は寡兵に過ぎない。掃討戦を選択せず、被害を受けながらでも突破を選択した〈南部鎮定軍〉司令官であるリディアは、制限時間付きの優位を理解している。
ベルゲンまで駆け抜ける心算である事は疑いない。
〈南部鎮定軍〉は共和国の混乱を好機と捉えた。戦力分散の余地が皇国側に生じた事を理解しているのだ。
戦野は混迷を深めつつあった。