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第二一四話    今一度の神話、或いは終わる事を忘れた神話

 




「毎月、逢いに来てくれるそうですよ」

 自らの両手を胸元へと引き寄せて夢見る乙女の如く振る舞う熾天使に、清楚可憐な憲兵総監は表現し難い感情に襲われる。

 軍神の定期的な来訪を都合よく解釈するヨエルだが、彼女には相手を都合よく誘導するだけの才覚がある。気が付けば彼女の思惑は達成されて尚、当人は気付き得ないという恐怖は計り知れないものがあった。その一翼を成すクレアは、その点をよく理解している。

「あの口振りは、情報共有……いえ、監視と釘を刺す目的の様な気が……」

 軍神たるトウカは、あくまでも並外れた軍事的資質を持つ戦争屋である。故にその提案は武力を背景とした恫喝に等しい。

 展開兵力は、最終的に装甲聯隊に二個航空歩兵聯隊、歩兵聯隊を基幹戦力とした一個師団相当とすると明言したトウカだが、物資供給はヨエルに依頼した。こうした提案にヨエルは頷いたが、当人は恐らくはその思惑を理解して尚、惚気ている。

 対するクレアは、トウカの提案に舌を巻いていた。

 後になって踏まえれば、トウカとヨエルは皇都近郊に展開させる皇州同盟軍の部隊……〈特設機動打撃師団『シュトラハヴィッツ』〉の維持を、トウカとヨエルは共同して行う事となった。

 恐らくは師団長を先代シュトラハヴィッツ伯爵に依頼するであろう〈特設機動打撃師団『シュトラハヴィッツ』〉の人員は、北部地域でも特に中央貴族に敵対 的な領地の領邦軍出身の部隊を主体とするだろう。その上で、先代シュトラハヴィッツ伯爵に増長を抑えさせながらも、将兵には「我々が中央を助けてやろうで はないか」、「中央の動向を我々が監視するのだ」と触れ回ることで特別な任務であると錯覚させる……という建前であろうが、実際は違う。

 陸海軍との協調した軍事行動で特に扱い難い部隊を実戦より弾こうという腹積もりなのだ。しかも、皇都近郊に展開するとなれば、ヨエル預かりとなると内外に喧伝するに等しい。

 挙句に〈特設機動打撃師団『シュトラハヴィッツ』〉は二個航空歩兵聯隊の練兵も担う事になる。ヨエルとトウカの協力体制を政治中枢である皇都の近郊で見 せつけるのは、ヨエルの立場を明確にさせる為であろう。そして、二個航空歩兵聯隊の存在がある以上、ヨエルは〈特設機動打撃師団『シュトラハヴィッツ』〉 の軍事的な切り捨てが困難となる。天使種主体の航空歩兵聯隊は、ヨエルの慈しむべき同系統種族なのだ。

 最悪、ヨエルの裏切りで壊乱しても、皇州同盟軍の被害は最小限に留め、尚且つ、政戦の上では成功時に最大限の利益を享受できる様にとの提案なのだ。

 ――皇都郊外に市街戦を前提とした部隊を展開させる事を陸軍は嫌がるでしょうが……

 皇都擾乱によって不安定化した情勢で治安維持への協力という名目ともなれば断り難いものがある。

 トウカは干渉主義だが、一つの行動に多くの意味を含ませる事ができる指導者でもある。相手を複数の意図(糸)で絡め取り、操るとまでは言わないまでも誘導し、制限できる術を知っていた。

 しかし、熾天使が相手では分が悪い。そもそも、喜んで絡め取られに行っている熾天使を傍目に、憲兵総監は深い溜息を漏らすしかなかった。大前提に齟齬があるのだ。

 軍神と熾天使。その認識の齟齬から手探りで関係性を模索する二人だが、一々と複数の組織を巻き込むので堪らない。誰も居ないところで二人きりで満足いくまで言葉を交わし続ければいいものをとすら思う。

 ――そうです。二人の遣り取りに巻き込まれたから私まで……

 クレアは、トウカの投げて寄越した無機質な視線を思い起こして拳を握り締める。

 干渉主義を隠しもしないトウカだが、自らに干渉する者を断固として赦しはしない部分があるとクレアは見ている。そして、クレアはヨエルが自身に干渉すべ く利用できる手札となったと見たに違いなかった。クレアがヴェルテンベルク領邦軍憲兵隊司令を拝命した時期から、北部に差し込んだ影響力という名の毒針と 見られたならば、クレアに“新たな”監視が付くだろう。

「貴女も躊躇わない事です。機会がないと嘆く前に創り出す努力をするのです」

 どやっ、という表情のヨエルは、どこか在りし日のマリアベルに似ている。年長者でありながら稚気を隠し切れないあどけなさ。意外とトウカの前では取り繕わずに接した方が望まれるのではないかとすら、クレアは思う。

「それ故に共に帝都を焼き払ったと言うのですか」

 人間関係模索の一手段として焼き払われた帝都臣民は堪らないだろうが、皇都擾乱すら知った事かと跳ね除けた熾天使には意味のない問いである。

 さも当然の様にクレアの言葉を黙殺したヨエルは、天頂部にやたらと羽毛が付けられたもこもこの扇子で口元を隠す。

「気を付けなさいな。彼は苛烈なの。誰しもが自らに害意を持っているとすら考える事を厭わない。独裁者の資質にして、臆病者の資質。愛するなり恋するなり取り入るなりするにしても、その点を忘れてはいけませんよ」

 よく理解しているという皮肉を飲み込み、クレアは頷く。

 ヨエルは何故かクレア以上にトウカを知っている。言葉の節々にトウカの過去を理解した上での一言が混じる。無論、尋ねる無意味をクレアはしない。

「しかし、シャルンホルスト大佐は宜しいのでしょうか? 大層と御立腹でしたが?」

 懸案事項という程ではないが、国家に対する姿勢を国家の剣にして盾たる陸海軍に伝わりかねない相手の前で暴露するというのは暴挙に等しい。故にクレアの言葉は存外に「適切な処理を望まれますか?」という意味も含まれる。

「捨て置きます。寧ろ、陸海軍などどうでも良いのです。彼の前で無条件で皇国に固執する訳ではないと示す事が重要なのですよ」

「一人で赴き、そう訴えて赤心を示せばよろしいかと」

 敢えて他勢力の不興を買う必要はない。無論、貴方の為ならば他勢力の不興を恐れないという意思表示の装飾品(アクセサリー)として、シャルンホルスト大佐の激情は扱われたと、クレアは理解している。狐嫌いは事実の様子であった。

 クレアはその生い立ちから熱烈な愛国者である。自らを受け入れた皇国を愛し、唯一の生存圏であると思い定めてもいた。彼女自身、ヨエルの発言には酷く動揺し、ネネカが立ち上がる事を制止する機会を逸するという無様を晒した。

 以前までのクレアは、ヨエルが愛国者であると信じて疑がわなかったが、今となってはその愛国心がトウカありきのものであると思い知った。

 しかし、遥か以前に建国に携わった時点で、人間種に過ぎないトウカの到来など予期できるとも思えない。その辺りにトウカの秘密があるのだと見当を付けた クレアだが、諸勢力が総力を挙げて調べ上げても尚、不明確のままで在り続けたトウカの過去を調べるだけの時間と資金の余裕はない。

「貴女は彼の事……どう思っていますか?」

 先までとは打って変わり、正面から真摯に見据えたヨエル。

 互いに理解しているのだ。

 トウカを選択したヨエル。愛国心を選択したクレア。互いに求めるものが違えたのは初めてである。血縁ではなく、養子でもないが、ヨエルはクレアを我が子 として養育した。恩顧に報いるなどという堅苦しい言葉を並べる心算はないが、クレアはヨエルに育てられたからこそ愛国者になったのだ。

 クレアにとっても、今回の遣り取りは己の根幹を揺るがす一幕であった。

「私は――」「――貴方がこの国を愛するなら私も貴方を愛するなどという不誠実な言葉は認めませんよ」

 ヨエルが重ねた言葉に、クレアは押し黙る。

 トウカ相手に口にした方便を何故知っているのかという無意味な疑問を口にする真似はしない。或いは日々の手紙から予想できる程度のものに過ぎなかったのかも知れないが。

 我が子を追い詰める養母。なんて酷い養母だと批難したい感情がクレアにはあった。

 言葉が纏まらない。批難に加え、気恥ずかしさまえ入り交じる。最早、何も考えられなかった。

「私は彼に惹かれています……だって当然じゃないですか! 全てを相手に戦い続けるんですよ! 誰もができなかった事を成して尚も自身よりも強い相手に喰らいつくなんて……恋い焦がれても仕方ないじゃないですか!」

 心からの叫びだった。

 気恥ずかしさにクレアは畳の上に蹲る。ばしばしと片手で畳を叩いて持て余す感情を発露させる。憲兵総監として己を律し続けた行為が無駄になったとすら思える。少なくとも部下の前では見せられない。

 気が付けば目の前で正座するヨエルが、蹲るクレアの背をぽんぽんと叩く。

「良くできました。お母さんは心配していたの。好いた男の前でも立派な憲兵総監のままなんて、行き遅れちゃうでしょう?」

 ――うっさい、何千年も行き遅れた糞婆に言われたくないッ!

 蹲った儘に見上げた熾天使の笑顔は何処か生暖かい。

「今、何か酷く無礼な事を考えましたね?」

「ち、ちがうもん! おかーさんがすきなあいてをわたしもすきなんておかしいでしょ!」

 ばしばしと養母となった熾天使の太腿を叩く。屋敷に住んでいた頃を思い出す遣り取りの様ですらあるが、懐かしさは覚えない。

「あら、この国は一人の雄が複数の雌を娶る事が赦される国よ? それにこの国では珍しい事ではないわ」

 なにがどうしたのか、母娘が同じ相手に恋をし、挙句に二人を妻に迎え入れるという行為は、皇国では少ないながらも皆無ではない。多種族国家は娘と変わら ぬ容姿……父母の種族によっては娘より幼い容姿の母という存在を出現させる罪作りな政体なのだ。無論、奇異の目で見られはするが、厭われる程のものではな いという程度の感覚に過ぎない。

 ヨエルが、トウカに近い女性を排除するとばかり考えていたクレアは、更なる情報の追加に考え続ける事を放棄していた。

 しかし、無様を晒し続ける事だけは我慢できなかった。

 上体を起こし、ヨエル抱き寄せられ、その六枚翅に包まれて尚、無様を継続する程にクレアは子供ではない。彼女は誓ったのだ。養母が誇れる軍人となる、と。

「ほら、みんなも心配しているのですよ?」

 ヨエルが和室の襖から突き出た無数の翅に視線を流す。

 複数の天使の影。

 ネハシム=セラフィム公爵邸の使用人は天使系種族で統一されている。クレアが住んでいた際も、天使種ではないのはクレアただ一人であった。公爵邸として は最も少ないであろう数しか居ないが、軒並み高位の天使系種族で占められているが、その大多数とクレアは面識がある。事実上の実家であるのだから当然と言 えた。

「もぅ、下がってよ!」

 クレアが膨れっ面で使用人の高位天使系種達を退ける。微かな笑声を耳朶に残して足早に去っていく使用人達。早晩、クレアの色恋沙汰は屋敷内を席巻するだ ろう事は疑いない。天使種は女性だけであるが、それはつまるところ噂好きである事を意味する。女という生き物は、いずれの種族であってもそうした方向性を 持つ。

「任務も重要でしょう。愛国心も重要でしょう。でも、恋心を犠牲にする必要はないでしょう。その様に自身を抑圧するからハルティカイネン大佐に嫌われるのですよ」

 ヨエルが呆れを滲ませるが、クレアからすると大佐の階級に在りながらも自由奔放に過ぎるリシアにこそ問題があった。

 クレアはトウカに近付いた者の経歴を押さえている。リシアも同様である。

 孤児院出身でありながら、恐らくは髪色を利用できると期待され、幼少の砌よりマリアベルが影より支援しており、ラムケもまたその意向を受けている様に見 られる。青年期に差し掛かると大方の予想を裏切って陸軍士官学校へ推薦入学したが、人間関係を理由に自主退学している。その後、ヴェルテンベルク領邦軍士 官学校に転入。卒業後は専ら歩兵部隊の指揮官として昇進を重ねた。匪賊討伐による積極的な戦術行動を領邦軍司令官であったイシュタルが高評価したこともあ り、彼女は内戦勃発時には若くして少佐の階級を得ていた。

 リシア・スオメタル・ハルティカイネンという女性は、酷く寵愛を受けた人物である。

 両親を持たない孤児という“設定”も大衆受けする要素として付属しているが、それも背後にマリアベルが居た以上、人為的なものであると見て間違いない。当人は意識していないが、リシアは間違いなく、マリアベルの後継者として育成されていた節がある。

 リシアは自らがどれ程に報われているのか理解していない。その一点を以ても、クレアには受け入れ難い相手である。親は居らずとも、周囲の愛と打算を一身に受け、彼女は若くして多くからの信を得て、然るべき立場へと立った。それは一つの物語の様ですらある。

「先代ヴェルテンベルク伯亡き今、彼女は道化に他ならないかと」それはクレアの心からの本心であった。

ミユキもまた例外ではない。

 ミユキがトウカの婚約者としての地位を得ているのは、紛れもなく天狐族の後ろ盾があるからに過ぎない。望めば得られるものではなく、望まねば得られない 後ろ盾だが、龍種と天使種がトウカの両翼となる構えを見せたこの時世。狐種の権勢が維持できる筈もなかった。政治権力の面では龍も天使も狐を遥かに優越す る。

 天狐族……ミユキは最早、軍神サクラギ・トウカにとり必須ではない。

 先の遣り取りからそれを察したクレアは、遂に反転攻勢を取れる立場となったと自覚している。

 だが、ヨエルはクレアを一瞥して憂色の溜息を一つ。

「命なき者ですらヒトを愛せます。愛とは感情に根差したモノ……ただ、存在するというだけで叶えられる事象です。そして、彼は今の貴女を拒絶するでしょう。政治情勢と色恋を連動させる貴女を」

「そんな事は……」

 権力者の色恋には常に政争が絡むとクレアに教えたのはヨエルである。整合性の取れない言葉にクレアは混乱する。

 だが、ヨエルは、トウカを()っている。狂おしい程に。

「取り敢えず、貴女は本心を以て彼に当たる事です。それ無くば勝機はありませんよ。嘗て望んで叶わなかった誰しもが再び動くでしょうから」

 難しい事を言う、とクレアは視線を落とす。

 憲兵とは自身の心情を偽り、統治機構の保全の為に友軍将兵からも厭われる事を躊躇しない軍紀の体現者である。本心を隠す事が軍務の常であり、日常ですらあった。遠く昔に忘れた女性としての感情の発露を成すは斯くも難しい。

「或いは……先代ヴェルテンベルク伯の挺身もまた、在りし日の龍の姫君の挺身に魅入られたものでしかないのかも知れませんね。無償の愛と挺身を同様と見れば、そうした理屈も通るでしょう」

 ふと思い出したかの様な一言。

 マリアベルのトウカに対する感情の在り処すらも思案するヨエル。久遠を過ごした彼女にとり、現在とは誰よりも過去の総算であるのかも知れない。血統に連 なる遥か過去の者達と同様の性格や心情を有して当然との考えにクレアは違和感を感じたが、それすらも理由があるのだろうと口を閉ざす。

「さて、廃嫡の龍姫の脱落は龍種の脱落? それとも大御巫の台頭かしら?」

 心底と愉快だと言わんばかりのヨエルは、口元を扇子で隠す。一頻り上品な笑声を零し終えると、ヨエルは扇子を閉じてクレアを見据えた。

「私を愛国者のままで在りさせたいなら、貴女が彼を皇国に繋ぎ止めると良いでしょう。私は彼が愛するモノを愛し、慈しむとしましょう。ヒトであれ国家であれ」

 ヨエルが強く想うだけの理由をクレアは知らない。

 しかし、神話の一部でもある熾天使とすら関係性のある軍神の到来は必然であったとだけは察する事ができた。偶然ではない何かしらの要素……夢想や悲願、慟哭、遺恨……数え切れぬ幾多の強き感情が軍神を引き寄せたとも思える。

 それは国難ゆえではない。其々が彼との再度の機会を求めて願ったのだ。

「桜城の血縁です。恋愛に対しては狂おしい程の夢想を抱いているでしょう」

 ヨエルの遥か遠くに想いを馳せるかの様な視線に、クレアはトウカに未だ自らが知らぬ物語が無数とあるのだと下唇を噛み締めた。








「桜城の血縁です。恋愛に対しては狂おしい程の夢想を抱いているでしょう」

 人間種は血による能力の継承を行えないと理解しても尚、そう思わずには居られない。否、そう在るを願っているのか。

 ヨエルは不安に押し潰されそうな義娘を前に自嘲する。

 忌々しい狐はトウカを決して放しはすまいと、ヨエルは確信していた。

 四六〇〇年以上も彼方の遺恨だが、狡猾な天狐が忘却の淵に追い遣る筈もない。|二重螺旋(DNA)に刻み付ける程の努力を以て子孫を突き動かしているのだろうとすら考えていた。

 ヨエルは天狐の執念を知っている。故に天狐が決してトウカを裏切らないとも理解していた。

「彼が証明しています。世界も国家も種族も……例え相手が生物でなくとも愛は生じる、と」

 色恋とは突き抜けた可能性が介在する感情でもあるが、それを糧に皇国が成立した奇蹟を知る者は今となっては数える程しか存在しない。

 ――そう、並み居る高位種の美姫を一人として娶らなかったという伝承など、在りし日の天狐の泣き言に過ぎません。私も協力しましたが……

 決して負け惜しみではない。敵性国家の隅で未だにいじけている天魔と比すれば無きに等しい程度の感情に過ぎない。ヨエルはそう確信していた。世間ではそれを遺恨と呼称するが。

「世界も種族も立場も権力も……彼の色恋には意味を成しません。彼が望む女性とは、自らを偽らず、純真無垢で天衣無縫で、どこか思慮に欠ける者なのですから」

 成程、とヨエルは苦笑する。

 在りし日の狡猾で執念深い心根は鳴りを潜め、今日の狐種の系統にああした者が多いのは、あの天狐の姫君の呪いなのかも知れないとすら思える。

 歴史の彼方となった天狐の姫君の執念とするならば、ただ待ち続けた熾天使は決して有利とは言えない。死して久遠の時を経て尚、狐の執念は終わらないの だ。意志を連綿と継承するという……当時は人間種特有とも言える概念を真っ先に取り入れたのはある意味、天狐の姫君であったのかも知れない。

 彼が愛した機械仕掛けの戦闘妖精の無機質であどけない横顔を、熾天使は思い起こす。

生命(いのち)なきモノとして生まれ、生命(いのち)ある者として(こわ)れる……彼女がそう在ること叶う様に願ったに過ぎないのでしょう」

 故に誰しもに好機(チャンス)があり、誰しもに好機(チャンス)がない。

 多種族国家などという無理を通したのは、現在に伝えられる種族間の闘争を止めるという熱意や、平和への義務感に駆られた訳ではない。

 最愛の(モノ)に、普遍的な日常を与える為だけに過ぎなかった。トウカがミユキの生存圏(レーベンスラウム)確立の為に戦っている点と同様である。否、トウカが彼の戦いを踏襲しているのだ。血は争えない。子は親に似る。

 嘗ての勝者は機械仕掛けの戦闘妖精であったが、熾天使を模して造られた以上、ヨエルとは姉妹と言えなくもない。無論、神々の尖兵として製造された熾天使 と、人類側の戦術兵器であった機械仕掛けの戦闘妖精は敵対関係にあったが、それは皇国建国よりも遥か以前のヒトと神々が覇権を争った時代の話である。

 ――さて、彼は何と考えるでしょうか?

 機械仕掛けの戦闘妖精は、旧世界に遺して来た最愛のヒトの面影を色濃く宿しているというが、再び姿を現す筈もない。既に機械仕掛けの戦闘妖精は全ての製造品番(ロットナンバー)が 耐用年数を超過して久しい。無論、製造施設や補修設備も悉くが以前の神話時代に破壊されている。機械仕掛けの戦闘妖精は神々の陣営にとり、自らを討滅させ 得る最大の脅威であったのだ。魔術的に製造された有機生命体である天使種とは根本的に違う為、稼働状態にある機体は皆無である筈であった。

 嘗ての主たる女主人公(ヒロイン)の不在で始まった今一度の神話。

 無数の世界を果実とした世界樹の中心たる世界で始まる神話だが、神々は嘗ての神話の後遺症から世界への干渉は難しい。トウカの到来ですらも相当の無理があった筈である。

 過去など参考にはならない。

「後悔なきようにするのですよ。貴女は再度の機会を得られないのですから」

 妖精種の血を色濃く引いていると言えど、今一度と望むには余りにもクレアは短命に過ぎた。

「まぁ、彼は良くも悪くも人間です。意外と想像の埒外にある結末を望むかもしれませんが」


 人間は愚かだ。賢い振りばかりして、より愚かになっていく。


 トウカもまた例外ではない。

 短命であるが故に多彩な輝きを放つヒトだが、それ故に愚鈍でもある。短兵急に事を進める人間は、美しさと愚かしさの境界線で綱渡りを続ける。自らの生命 が喪われるその日その時その瞬間まで。そうした姿そのものもまた美しくあるが、それが神々との戦争に突入し、幾多の世界を荒廃させた主たる要因でもあった 事は皮肉という他ない。

 高位種には理解できない部分も多いが、ヨエルはそれでこそであると考えていた。


 人生は神秘的。解くべき問題ではない。


「神話は既に始まっています。貴女にも神話の一幕に相応しい振る舞いを、熾天使たる私は望みます」

 言いたい事だけを告げ、熾天使は立ち上がる。

 結局のところ、斯くあれかしと望みはすれども最後は当人の意思に帰属するのだ。









「外務府にも国家憲兵隊が踏み込んでいる。遺憾の意で戦争を止められると言わんばかりの姿勢だからな。無能は利敵行為だ。或いは、元より敵と通じているか」

 星輝が散ったかの様な杯を、天壌を流れる星河へと掲げ、トウカは祖国では有り得ぬ風流を嗜む様子を見せた。無論、美しいとは思えども、風流事を理解する程にトウカは情緒的な生き物ではない。

 フローズ=ヴィトニル公フェンリスに招かれて、公爵邸を訪れたトウカは皇都の有力者が言葉を交わす中、庭園の噴水の縁に腰を下ろしていた。

「主様ががそう望んだんですよね?」ミユキが曖昧な笑みで問う。

「……利害が一致しただけに過ぎないよ」トウカは、誰とは言及しない。

 隣に腰を下ろした副官の出で立ちであるミユキだが、副官としては振る舞ってはいない。婚約者と言う立場にある事は暗黙の了解とも言えるが、この場に在っ ては権勢の意味合いもある。ミユキに手出しするという事は、トウカを敵に回すという事であると触れ回る為に足を運んだに過ぎない。

 皇都擾乱は早朝に終結宣言が成された。

 戒厳司令官を解任されたトウカは、陸軍府長官と警務府長官に諸部隊の兵権と行政権を返還し、晴れて自由の身となった。本来は逃げる様にして皇都より逃れる心算であったのだが、フェンリスより会合の要請があった為、出席せざるを得なかったのだ。

 当初のトウカはフェンリスの要請を跳ね除けたのだが、彼女はトウカの求めるものを良く理解していた。

 金である。金銭である。

 莫大な融資を持ち掛けられては、トウカも断り難い。それにつけても金の欲しさよ。拝金主義者に転向する事も已む無しという状況のトウカは、株式市場に於 ける製造分野で盛大な買い占めを継続していた。後先考えていない買い占めは大蔵府が懸念する規模で行われており、硬軟織り交ぜた公開買い付けは形振り構わ ない姿勢として投資家を恐怖に陥れた。

 全ては戦勝後に跳ね上がる事を求めてであるが、同時に産業の再編成に伴う利益創出を求めてでもある。積極的武器輸出に於いて兵器製造数を飛躍的に向上させるには、関係企業を一つの組織の下で統率するしかない。その役目を負うのは皇州同盟である。

 事実上の軍産複合体成立に向けた動きであった。

「皇都って色んな種族がいるんですね」

「見た事もない種族も居るな……寒冷な気候に向かない種族は北部には居ないという事か」

 ミユキとトウカは揃って庭園内で行われている権力者達の歓談風景を眺める。

 異世界で戦争をしているなどとは、一年以上前のトウカであれば想像もできなかったであろう。諧謔に満ちた世界にも鉄火の近代戦はあったという現実に、恋人が狐娘であるという幻想もまた受け止めきれないに違いない。

 多種族国家の種族的多様性を見れば、仮想(ヴァーチャル)戦記というよりも仮装(コスプレ)戦記という有り様である。無論、帝都や帝国南部の都市を焼き払った実績を鑑みれば、紛れもなく火葬戦記であるが。

「初代天帝陛下の御代でも、こんなに一杯の種族は集まれないですよ」

「皇国が今の形になったのは八代天帝辺りからだったか……」

 トウカはベルセリカより又聞きした皇国成立後の出来事を顧みる。

 皇国建国時、現在確認する全ての種族が団結して建国が成された訳ではない。現在の七武五公を中心とした種族以外の大部分は加わっていなかった。初代天帝 は最初に文武に秀でた種族を纏め上げている。国家としての枠組みを先に創出する事で他国の侵略の意図を牽制しつつ、種族間の融和を図り続ける役目を時代に 継承したのは現実的な判断と言えた。

 しかし、多種族国家である《ヴァリスヘイム皇国》が現在の形となるまでの道程は過酷だった。敵対的な種族に独立独歩の種族、叛服常無い種族……あらゆる 手段を以て諸種族を国家に組み込んでいった。譲歩と経済、文化、技術……そして武力。持ち得る全てを用いて国家形成を続けた歳月は六〇〇年を超える。

 トウカとしては遥か過去に対して然して思うところはない。過去を蒸し返したところで意味はなく、もし自身に不利益が生じるのであれば軍事的に打擲するという姿勢を明確にしている。

「不明な点が多いな。初代天帝も」

「御真影も名前もないですもんね。あ、でも、私の里の倉にも初代天帝陛下に貰った遺物があるって聞いた事がありますよ。……開けてみたりしちゃいます?」ミユキの期待の視線。

 好奇心旺盛な狐種の例に漏れず、ミユキは気にしている様子であるが、現時点で権威に挑戦する行動は拙い。演説では勇ましい言動が目立つが、明確に行動に する真似は未だに行われてはいなかった。時期尚早という事もあるが、それ以上に利益がない事から行う必要性が生じていないに過ぎない。言わば北部臣民向け の宣伝に過ぎなかった。

「やめておけ。要らぬ仕掛けでもあれば大惨事だ」

 無能ではないが、有能とも言えないと初代天帝を評価するトウカは、敢えて藪を突いて蛇を出す真似を避けるべきだと考えた。極端に振れた者の思考は斯くも図り易いが、中庸な相手はそうではない。手元に在る情報次第で行動が大きく左右される。要は全く想定できない。

 奇想天外な危険物などが無造作に放り込まれていても不思議ではなかった。

 権力者達を尻目に二人は会話を重ねているが、そこに影が差す。

「サクラギ卿、満足そうね?」

「これは、ヴィトニル公。御覧の通りです」

 立ち上がるとミユキを抱き寄せ、トウカはフェンリスへと応じた。

 実際は権力者御一行と交友を重ねているかとの問いであろうが、軍事力を振り翳す事を躊躇わないトウカを警戒する者は多く、話し掛けて来る者は極僅かである。強いて挙げるならば、大蔵府長官がセルアノに口添えをと泣き付いて来た程度であった。

 フェンリスは困惑の表情であるが、トウカはその表情を額面通りに受け取らない。

 レオンハルトの様な直情的で建前を信じて疑わない者とは違い、フェンリスは利益や状況に敏い立ち振る舞いをしている。過去の経歴と実績を見れば一目瞭然で、だからこそトウカと諸勢力の権力者達を取り持とうとしていた。

 つまるところ、この場に居る全ての者に恩を売りつつ、全体的な合意形成の中で利益を享受しようと図ろうとしたのだ。

 アーダルベルトが七武五公として足並みを乱し、ヨエルが古の権力政治宜しくトウカの傍にクレアを侍らせると宣言したが、それは各々に特別な利益を見い出 したからである。他の七武五公を敵に回しても優越する程の利益を見い出したとも言えるが、対するフェンリスやレオンハルトなどにはそうした利益はない。ト ウカが用意しなかったという以前に、軍事的に見た場合、これから皇州同盟軍が次々と配備する兵器は、明らかに狼種や虎種にとっての花形兵科を歴史上の存在 に追い遣る潮流を見せている。政治的にも敵対している以上、積極的連携の余地はない。

 だが、フェンリスの場合、大規模な商家を複数運営しており、事実上の財閥を形成していた。

 商業的には連携を求めたいところなのだ。新規技術を特許で固め、北部の開発事業などを囲い込んで複合企業(コングロマリット)を形成しつつある皇州同盟はそう遠くない内に莫大な利益を創出し始める。そこに参入する理由と余地を図っているのは間違いない。

 意外な事であるが、娘であるヘルミーネを道具に連携を迫る気配がない点はトウカも評価しているが、フェンリスとの連携をトウカは考えてはいない。利益を 蚕食されるという懸念以上に、敵対的な陣営にフェンリスが居るべきであると考えたからである。もし、レオンハルトが主導権を握った場合、酷く阿呆らしい状 況に陥る可能性を捨てきれない。

 戒厳司令官の肩書は取れたのですが、とトウカは肩を竦めて見せる。

「一部の方々にとり、小官は未だに戒厳司令官の様です」おどけた敬礼をして見せたトウカ。

 戒厳司令官の権限や法的根拠すら超えて振る舞ったトウカに対する視線は恐怖以外の何ものでもない。

「随分と派手に振る舞ったものね。リシアちゃんも商家に踏み込んで拳銃を振り回したそうじゃない?」

 ――おい、聞いてないぞ。

 トウカは、報告を受けていない事実に苦笑しつつも、「自慢の部下です」と切り返す。戒厳令中、ある一定の時期から妙に商家が査察に協力的になったのはそうした理由があったと、トウカは納得する。リシアは任務に精励している様子であった。

「しかし、この催しは小官への配慮と取って宜しいのですか? もしそうであるならば御放念いただきたいものですが」

 勘違いであるならば恥ずべき自信過剰であるが、事実であるならば傍迷惑この上ない事である為、トウカ釘を指す必要性を感じた。陸海軍との連携に加え、龍 種と天使種が積極的に戦列へと加わる姿勢を見せた今、消極的な友軍など必要とはされない。合意形成や即応性から寧ろ邪魔ですらある。

「……貴方の活躍で国内の反動勢力は排除できた。これからは協調して事に当たる時期でしょう。その為の布石よ」

 トウカと共に噴水の縁に座ったフェンリス。ミユキが反対側でトウカの袖を掴む。

 ものは言い様であるが、中々どうして拒否し難い言い回しをすると、トウカは辟易とした表情を隠さない。

「失礼ながら貴族や商家、多くの力ある方々には北部臣民の避難に関する膨大な支出を強いているという自覚が小官には御座います。これ以上の要請など……一応は恥を知る男である心算ですが」

 無論、敵を打倒する手段に関しては効率が最優先事項であるので恥という概念は適用されない。戦後を見据えた場合は別であるが、戦中から手心を加える意味と意義をトウカは現時点では持ち合わせていなかった。

「言ってしまうとね、貴方の発言力拡大を懸念しているのよ。ほら、あそこで群れる老人達を見なさいな。揃いも揃って不安そうな顔」

 フェンリスの視線の先には、軍服を纏う高齢の姿の者達が集まっている。

 トウカは、七武家やその縁戚の者達であろうと辺りを付ける。軍内部で階級序列以外の特殊な権力構造が半ば黙認されている集団こそが七武家であるが、その 定義は五公爵と比して極めて曖昧である。北部のシュトラハヴィッツ伯爵家も七武家の一つに数えられているが、彼の伯爵家は叛乱に加わった為に孤立してい た。

「貴方、七武家の要請を断ったでしょう? 怖いのよ。取り込むことも叶わず、新たな戦争の形を示し続ける貴方が。戦場が貴方だけのものになるのが」

 脇腹を突いてくるフェンリスに、トウカは七武家の要請と聞いて沈黙するが、暫しの間を置いて思い出す。

 ベルセリカに婿入りしてシュトラハヴィッツ伯爵家の当主として七武家に参加せよとの要請。

 余りにも馬鹿げた提案なので一笑に付したが、それすらも忘れる程度の要請であった。トウカとベルセリカの関係を知らず、皇州同盟に対する位打ちも同然の要請など考慮するにも値しない。

 何より、トウカは皇国国内に於いて皇州同盟以外の軍閥を容認する心算はない。陸海軍内でも一定の勢力を持つ貴族の連合など、問題の複雑化を招きかねな い。ファーレンハイトもエッフェンベルクも七武家に対する配慮で組織運用を過ちかねず、そして政治的な窓口と非公式な指揮系統が増える非効率をトウカは許 容できなかった。可能ならば軍内から影響力を排するべきであるというのが、トウカの見解である。それ故に七武家のトウカに対する警戒は見当違いという訳で もなかった。

「廃兵院にでも押し込むべきでは?」

 傷痍軍人の療養施設、それも精神病患者の隔離施設の寝台に縛り付けるべきとすら、トウカは考えた。ミユキに知られては何を言われるか堪ったものではない。

「まぁまぁ、そんなこと言わないの。みんな貴方が怖いのよ」頬を突いてくるフェンリス。

 トウカとしては、単独での戦闘能力が部隊規模で換算される高位種などにもそう思われる事は心外ですらあった。戦闘に秀でた高位種族による不正規(ゲリラ)戦など為政者にとっての悪夢である。脅威度としては決して引けを取らない。

「人間種を含めた低位種にとって、恐怖とは貴女方の形をしていますよ」

 売り言葉に買い言葉という訳ではない。

 歩み寄るのであれば強者の側からでなければならない。弱者の側からの歩み寄りは媚び諂う事と何ら変わらない。少なくとも大多数はそう受け取るだろう。初 代天帝も高位種を統率して歩み寄らせた結果として建国を成した。或いは、人間種に過ぎない身で高位種を統率するという奇蹟を以て諸種族との交渉を有利に進 めたとも取れる。

 トウカは、その辺りに付いて常々疑問を抱いていたが。

 初代天帝の政戦は、当時の五公爵による演出の結果ではないか?

 時の高位種が諸種族を統率する為の広告塔として、数としては大多数である低位種を纏める為の演出として初代天帝という虚構を作り上げたのではないのかと いう懸念を、トウカは以前より抱いていた。帝国陸軍参謀本部が、トウカという軍神の到来を演出であると判断した様に、トウカもまた初代天帝を演出装置であ ると考えた事は歴史の皮肉ですらある。ヒトは突然に強大な存在が個人の資質に依って起つという事実を往々にして認識できないものなのだ。

 柳眉を顰めたフェンリス。

 客観的な事実であり、彼女達が常日頃より払拭しようとしている……否、目を逸らさせようとしている事実でもある。彼らは国家を維持すべく、常に大多数である低位種の動向や風潮に注意を払っている。

「貴方の隣の仔狐ちゃんも高位種よ……種族間の分断を誘う様な手は避けるべきね」

 トウカはミユキを一層と強く抱き寄せる。

 戦争がある限り、高位種という戦力単位は低位種に必要とされ続ける。例えそこに恐怖と羨望と嫉妬が在れども、現実的な戦力として彼らは必要とされ続ける 定めにあるのだ。フェンリスのミユキに対する指摘は無意味なものであった。何より、現象でトウカが行っているのは高位種間の権力分散である。よって論点の 摩り替えでしかない。

「種族間の力関係(パワーバランス)の正常化ですよ。龍種などは政治権力があるにも関わらず、軍事戦略上の戦闘種の中で軽視される傾向にありました。いけませんね。自らの不利を不均衡と嘯くのは。貴女も中々の政治家な様です」

 航空戦力が主兵化する以上、そうした流れは避けられない点は、フェンリスも弁えているだろうと推測できる。阻止するのであれば、陸海軍内で編制された航空部隊の人事や予算に対する干渉を行う事が最も有効であり、場合によっては影響力を創出できる可能性とてある。

 影響力の拡大に対して消極的とも思えるフェンリスに、トウカは怪訝に思う。

 皇国で政略に最も秀でた人物とも称されるフェンリスだが、近年は政治で消極性が目立つ。種族間の関係への言及を踏まえるに、天帝不在の中で種族間の関係悪化を警戒しているとも取れる。

「小官の離反工作が気に入らないと?」

 トウカの離反工作は武力や経済力を用いたものが主だが、航空戦力の主兵化は龍種の種族的特徴を利用した離反工作と言えなくもない。アーダルベルト以外の五公爵からすると明確な位打ちですらある。急激な力関係(パワーバランス)の変化は心情的に受け入れる時間が用意されず、軋轢となる例は古今東西に無数とあった。

 しかし、フェンリスは苦笑して手をぞんざいに振る。

「……いいのよ、それは好きになさいな。皇国の利益を損なわないなら、権力闘争を否定はしないわ。大いにやればいいでしょう。元気な男の子は好きよ」

 立ち上がったフェンリスが、トウカの頭を撫でる。

 見目麗しい寡婦に子供扱いされるという体験に、トウカは気の利いた台詞を返せないでいた。優しげな風貌は、記憶の欠片さえ喪われた母の気配を思わせる。写真で姿を垣間見た程度に過ぎないが、それでもトウカには何故かそう思えた。

 衣裳(ドレス)を翻したフェンリスが離れようとする。

 しかし、ふと思い出したかの様に止まる。

「でも、種族間の関係を壊す真似は許さないわ。それは何十年しか生きられない脆弱な塵芥如きが乱していい紐帯ではないの」無機質な声音。

 先程の優しげな風貌からは想像し難い感情の奔流。平坦な声音であるが故に、明確に宿る感情もあるのだと、トウカは初めて理解した。

 種族間の紐帯の値札に掛かれた数字は、トウカとフェンリスでは違うのだ。

 

 

 

 

 

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人間は愚かだ。賢い振りばかりして、より愚かになっていく。

               古代希臘(ギリシャ)の哲学者 ソクラテス



人生は神秘的。解くべき問題ではない。

               猶太(ユダヤ)人 理論物理学者 アルベルト・アインシュタイン