第二三七話 ミナス平原会戦 六
「ブルガーエフ中将はⅢ号命令書を開封したようね」
エカテリーナは純白の扇子を掌に打ち付ける。
彼女にとり、皇国侵攻は勝算の高い戦争ではなかった。
皇国とは額面以上の国力を持っている。国際的な国力の基準となる数値以外の分野で特筆すべき部分が多い皇国は、エカテリーナの見立てでは国際的な基準の三倍の国力を有していた。それは多種族国家という特性も然ることながら、天帝招聘という指導者層の劣化を防止する機構に依る所が大きい。言わば能力に乏しい指導者が選択されることのない専制君主制……名君ばかりが即位し続けるという異様な政体。
「天帝招聘の儀の日取りを得た事……それを僥倖と捉えた政府の焦燥が悲劇の始まりだったのでしょう」
それは偶然だった。
しかし、それを何としても生かすべきであると固執し、複数の帝位継承者が紐帯を見せた。そこにエカテリーナも便乗したというのが今次戦役の発端である。先代天帝の下で軍事費の減少が続いて軍備が弱体化している点もそれを助長させた。
防禦的な軍事思想に偏重した先代天帝は、確かに帝国の侵攻を助長したが、彼により成された政策によって増大した国力こそが、今の皇国の抗戦を支えているのは皮肉である。
だが、客観的に見た場合、今次戦役での帝国の敗北は本当に敗北であるのか?
エカテリーナは敗北であるとは考えていない。少なくとも一方的なものではない。
政治的成果は生じている。
皇国侵攻に纏わる犠牲者は三都市空襲や帝都空襲を含めると五〇〇万を超えると推測される。正確な数値は不明であるが、余りにも膨大な為に集計と復興が進まない故であった。少なくともそれ程の人的被害であるのは確かである。
特にエカテリーナとしては帝都空襲の効果を喜んでいた。
農業生産に寄与しない数百万の死者は、口減らしとしては極めて効率的と言える。帝国の威信や権威の問題を口にする貴族は多いが、食糧不足からなる革命という潮流が表面化する事と比較するならば十分に許容できた。その威信が傷付いた事で帝国中央部で共産主義者が勢力を拡大したが、それを理由に懲罰行動を以て応じれば、口減らしは更に進む。農業生産で主体となる帝国南部や水産業に秀でた帝国東部を保全しつつ、他地方の人口を漸減する。それさえ叶えば帝国は命脈を保つことができる。
――それが帝国と呼べるとモノかは分からないのだけれど。
エカテリーナとしては南部と東部を中心に国家を再編してもいいとすら考えていた。人的資源以外めぼしいものがない土地を放棄する事に躊躇などない。例え、それが現在の帝国の中核州であっても例外ではない。寧ろ、痩せた土地であるが故に帝国は周辺諸国を積極的に併合して飢えを満たそうとした。
帝国の中核州である地域を放棄するという発想は、帝国の指導者層にはない発想である。中核州の貴族や帝族を中心に国営を行う以上、当然と言えた。旧《エカテリンブルク王国》王族の血縁であるエカテリーナであるからこそである。
エカテリーナは帝国の消耗を厭わないが、その消耗は中核州を中心としたものでなければならない。
それ故に帝国南部の三都市爆撃に関しては手痛い被害と言えるが、それによりトウカをより厳密に認識できたとすれば、必要経費としては高価とは言い難いとエカテリーナは判断していた。情勢次第では帝国滅亡の一撃であったかもしれないのだ。
トウカの思惑を読む事は、エカテリーナにとり至福の時間であった。
考えれば考える程に奇蹟的な人物であるように思えるが、今の皇国を救うべく到来したとしか思えない活躍をしている。北部以外の皇国人からすると内戦の規模と被害を著しく拡大させた人物という事実がそれを否定するであろうが、逆説的に言えば内戦の被害を受けて尚、帝国軍を撃退しつつあった。何より、内戦によって北部臣民の圧倒的な信任を得たからこそ、北部地域を縦深とした防衛戦を実現できたのだ。
航空戦力を踏まえれば、エルライン回廊で無理をすれば撃退は可能であったと思えるが、縦深に誘引する事でより甚大な被害を与えようとしたと推測できる。無論、北部に〈南部鎮定軍〉を進出させたのは政治的意図もあったであろうが、トウカは敵の被害を拡大する事に熱心である。強迫観念染みたものがあった。
地方軍閥の長でしかない彼一人が、皇国の政戦を左右しているという事実。
有能な人物であれば賞賛と畏怖を抱いただろう。
しかし、エカテリーナは違った。
トウカが存在しているという事実を皇国という統治機構に当て嵌めてしまった。残酷な程の客観性を伴って。
神々はその時代に最も必要とされる者を当代天帝に選出する。
恐らく、次代天帝は軍事資質に偏重した者となるだろう。
そんな人物はそうはいないが、今の皇国には一人だけその資質をこれ以上ない程に満たす者が一人だけ存在するのだ。
それが、サクラギ・トウカである。
国難を経て軍事力を摩耗した皇国の指導者に必要なものは、尚も軍事的才覚に他ならない。
エカテリーナが天帝を選択できる立場や権能を持つならば、間違いなくトウカを選択する。少なくとも世界を俯瞰しても彼に勝る程に政戦を運用した人物は存在しない。無論、初代天帝を始めとして異世界の人物を招聘させた例もある為、トウカ以上の人物が存在しないとは言い切れない。
しかし、エカテリーナの知覚できる範囲に存在するのはトウカである。つまりトウカ以下の解はない。最低でもトウカと同等、或いはそれ以上の軍事的才覚を有した人物が次代天帝の座に就く事となる。
控え目に見ても脅威である。少なくとも周辺諸国は軒並み戦火に見舞われる事を覚悟せねばならない。無論、国内にいる先代天帝の平和路線を重視する貴族や政治家の排除が先であろうが、それこそが諸外国の準備期間となるかも知れない。
閉じた扇子で口元を隠し、エカテリーナは微笑む。
「まさか敗北を想定しておられたとは……他の継承者が騒ぎそうなものですが」
ナタリアが紅茶を用意しながらも賞賛を口にするが、瞳は敗北を前提とした戦場に腹違いの妹を送った事を批難している。
エカテリーナとしては、リディアであったからこそ皇国中央部にまで進出できたと考えていた。皇国の誘因という一手に乗らざるを得なかった中、急進しなければならなくなった点を陸軍総司令部も憂慮していたが、その命令を受けて疾風迅雷の用兵を見せたのがリディアであった。他の指揮官であれば躊躇するだけでなく、輜重や砲兵隊の遅滞を理由に侵攻速度を低下させた事は疑いない。実際のところ陸軍参謀本部も、リディアにそうした現場の“創意工夫”を望んでいたのだ。
しかし、リディアは急伸した。
これにより皇国軍は準備期間を喪った。
泥濘に足を取られた点は帝国軍の重装魔導騎兵部隊の運用に不利であったが、皇国軍の装甲部隊も同様であった。固い地盤のドラッヘンフェルス高地ではなく、泥濘に浮かぶベルゲン近郊が決戦地となった点は大いに評価できる。急進による時間的喪失により、塹壕構築も限定的に留まらざるを得なかっただろう。現に〈アルダーノヴァ軍集団〉などはベルゲンまであと僅かというところまで迫った。
それら全ては、リディアの果断によるところだった。結局、航空戦力の大規模投入に前には蟷螂の斧の過ぎなかったが、それでも皇国軍に与えた被害は、リディアでなければ更に少なかったっであろう事は疑いない。
「勝てるとしたらあの子だけだった。でも、あの子より航空騎は早かった……威力はどうかしらね?」
圧倒的速度は集結速度に直結する。望む時、望む場所に容易く集結できるならば、個々の威力が劣っているとしても群れとしての威力を発揮する事は容易い。
速度。圧倒的速度こそが優位を決定付ける。
「何より、あの子の敗北を騒ぐ者が居るならば、それは喜ばしいこと。……自らが侵攻に賛成しておいて非難する覚悟がおありなら存分に批難すると良いでしょう」軍を敵に回すでしょうけど、とエカテリーナは嗤う。
他の帝位継承者が騒ぐという懸念に関しては、リディアも然したる懸念を抱いていない。リディアが皇国国内で破壊工作に従事するという点を以て大部分が賛成していた事もある。競争相手が減ることを期待しての賛成であった事は疑いないが、その代償を彼らは支払う事になるだろう。被害を踏まえれば当然と言える。
因みにエカテリーナは、公式見解上では反対を表明している。
他の帝位継承者が賛成する様に仕向けた上で自身は反対したのだ。そして、陸軍総司令部の協力要請を受けて“已む無く”協力したという流れである。リディア自身も皇国侵攻の必要性は肯定しつつも、交易によって当座を凌ぐという手段を望んでいた。多大な利益を齎すかも知れない博打よりも、確実性のある交易。博打好きである癖、国家事業となると確実性を取る点はリディアらしいと言える。
そうしたリディアを死地に送る為、帝族の大多数は皇国侵攻に賛成した。
悲劇の英雄の誕生である。
英雄は成功によってのみ生まれいずるものではない。そして、その名声を以てリディアは軍での影響力を増すだろう。無論、表向きは降格や閑職に追い遣られるであろうが、決して階級やや役職によってのみ影響力が生じる訳ではない。行動によってこそ生じる影響力も存在する。
リディアの性格から熾烈な後衛戦闘を行う事は予想できる。
その辺りを起点に美談を組み上げて流せばよく、心ならずも皇国侵攻の指揮を担わねばならなくなったが、武運拙く敗北。しかし、敵に大被害を与え、友軍を逃す為に熾烈な後衛戦闘を行った。そもそも、明確にエカテリーナの政治勢力にあるリディアも皇国侵攻に反対していると錯覚させる事は容易い。
リディアに責任を求める声は門閥貴族や他の帝位継承者を中心に上がるであろうが、それはエカテリーナの望むところである。積極的に被害者を演じさせれば、民衆の同情と歓心を買う事ができるだろう。貴族に不当な扱いを受ける帝位継承者という看板を以て民衆の支持を取り付けるのだ。
「そもそも、今の帝国に皇国の軍神に抗する事のできる者など居ないでしょう?」
致命的な状況に追い遣られるまでリディアを追い詰める事は誰しもが望まないだろう。リディアの処刑を声高に叫ぶ者は、攻撃的な姿勢を露わにする皇国の地方軍閥への対応で主導を担わなければならなくなる。
荒れ狂う皇州同盟という自国の法律を堂々と無視し、首都で民衆に銃口を向ける武装集団を相手に回す度胸と能力を持ち合わせた者など居るはずもない。もう一度、自国の都市が爆撃されれば容易に責任を問われるであろう立場を望む者が居るとは思えなかった。それを示すかの様に陸軍や近衛軍では要職の押し付け合いが始まっている。
責任を負う立場にあると自覚したのだ。
だが、驚いた事に帝都空襲や三都市空襲に対して責任を問う声は貴族や軍からは然して上がっていない。帝都空襲が余りにも過大な案件であるのだ。
貴族達は責任問題が飛び火する事を恐れている。
軍の責任を問えば良いという段階ではない。他の貴族に打撃を与える名目で声高に叫べば、自身の親族である軍高官にまで咎が及ぶのではないかという恐怖。帝都は巨大な権益の塊であると同時に、無数の権益が複雑に絡み合った魔都でもある。何処に責任問題が飛び火するか分からないのだ。貴族の意向を受ける軍内の派閥もある為、責任問題を問えば軍高官を擁立した貴族にまで咎が及ぶ可能性もある。
帝都空襲の責任問題は弾火薬庫として扱われている。
一度始まれば大粛清染みた規模の処刑が行われる事は間違いない。責任が問われ没落する者が出る状況を貴族が看過する筈もなく、報復の為に政敵やその関係者を打倒する手段としても扱われるだろう。そうなれば勝者なき政争となりかねない。
誰しもの責任を問えるであろう帝都空襲という問題。
それ故に誰しもが目を逸らす。
しかし、エカテリーナは些か事情が異なる。
皇国侵攻に反対の姿勢を示していたからである。
皇州同盟に敵対しなければ帝都空襲はなかったであろう事は疑いない。それ故に他ならない。リディアに関しては消極的でありながらも関与した為に責任を問われるであろうが、これから軍事的圧力が増すであろう皇国方面を防護する指揮官として必要不可欠である為に処刑はできない。猛威を振るう共産主義者へ掣肘を加えるという役目もある。
ここでリディア一人に責任を被せて処刑する様では帝国は長くはない。何より、共に戦った〈南部鎮定軍〉将兵が許さないだろう。下手を打てば叛乱沙汰である。
「……しかし、戦死なされれば皮算用となりましょう」
ナタリアの言葉に、エカテリーナは瞳を丸くする。その姿にナタリアが狼狽した。
リディアの戦死。
それをエカテリーナは全く考慮していなかった。リディアの死を全く想像できなかったが故である。エカテリーナはリディアという姫将軍にある種の不変性を見ていた。
心底と驚いた。
成程、軍人は私生活でも奇襲が得意なのね、とエカテリーナは独語する。
「考えてもみなかったわ……あの子が死ぬ? そうね、生き物だもの。死にもするでしょう」
幼少の砌より帝城の城壁を砕いてみせた破天荒な腹違いの妹。そうした心象が強いエカテリーナとしては、リディアの死と言うのは極めて想像し難い。無論、そこには実戦経験豊富な傭兵から軍人となったナタリアと、帝都空襲時以外の軍事衝突の経験がないエカテリーナの差とも言えた。凄惨な実戦経験を経た軍人は死が平等であると理解せざるを得ない。
しかし、それでもリディアが死ぬという言葉そのものに、エカテリーナはある種の諧謔を見い出した。
リディアが戦死するならば、帝国を存続させる得る可能性は消滅する。
エカテリーナは謀略と政治はできても、指導者にはなれないのだ。容姿のみで人望を担保できるのは市井の話であり、権力者の遣り取りは常に利益が付き纏う。利益がない場合、人望を創出するのは天性の感性……人たらしなどの才覚を持つ者に限られた。
トウカやリディアの場合は、それを軍事力で創出している。
勝利は信頼を生む。信頼は人望へと繋がる。
政治は日常を継続させる事こそが主眼に置かれる場合が多い為、信頼や人望へと繋がり難い。対して衝撃的な非日常を以て大事を成す軍事は、成果として非常に見栄えと結果に優れる。だからこそトウカは積極的な軍事行動を続けた。無論、結果として一般的な政治との対立が先鋭化する。
リディアがそれを成すべく用意された舞台が皇国侵攻であったが、それはトウカの到来によって頓挫した。一世一代の大博打という訳ではないが、相応の準備と腹違いの兄の思惑に先んじる為に相応の無理は重ねられていた。しかし、同時に食糧事情の問題から皇国侵攻が元より既定路線であった為、エカテリーナはそれに便乗する形でしかなかった点も事実である。
「……そうね。戦死は困るわ。でも、想像もできない事を行う軍神が相手だもの。私の感じる不変性なんて意味もないはず」
だが、敗北の中で掴み取れるモノも存在する。
例え、リディアを喪う程の敗北であっても例外ではない。
ナタリアはエカテリーナへの報告後、ただちに航空騎で戦線に戻る予定となっているが、戦況が不利であることは通信で既に帝国陸軍総司令部や政府には伝達されている。よって、エカテリーナも概要は聞き及んでいた。
それでも尚、リディアは攻勢を継続し、政府と総司令部はそれを是とした。
リディアは死を覚悟しているかも知れない。或いは、童女の如き無邪気さでトウカに騎兵突撃を敢行しているのか。
或いは銀輝の姫将軍とて歴史の一部となるのか。
「でも、もし戦死したならば……」
エカテリーナが成す事は既に決まっている。
私情と政略は利益の生じない範囲に於いては不可分であらねばならないのだから。
「精々、妹を喪った悲劇の姉を演じてあげましょう」
妹を喪った姉という手札。
銀輝の姫将軍という手札。
どちらであれ、白き女帝は手札を減らしはしない。
「なんて事……」
ナタリアは残骸の連なる帝都の東部区域に位置するアヴェルチェフ通りを歩いていた。
薄汚れた民衆が行き交う雑踏の中、ナタリアの染み一つない軍装は酷く目立つが、誰しもが視線を合わせずに地面へと逃がす。帝国に於ける軍人の身分を示す光景がそこにあった。
帝都は瓦礫となり、姫将軍は異国で喪われようとしている。
全く以て不条理な現実が帝国に襲い掛かる現状への対策などありはしない。
エカテリーナは、リディアの死を想定していないという言葉など信じてはいない。
〈グローズヌイ軍集団〉などという後衛戦闘を前提とした戦闘単位が澱みなく設立された時点で、リディアの戦死が想定外であるなどとは思えない。
封緘書類が用意されていたのだ。
開封条項は、リディアが〈南部鎮定軍〉の指揮権を放棄、委譲した時点であり、その書類を開封者として指定されたのは参謀長であるブルガーエフ中将。
ブルガーエフ中将に封緘書類を手渡したのは、他ならぬナタリアなのだから身に覚えが有り過ぎた。陸軍総司令部からの依頼として輸送を請け負ったが、エカテリーナの意向が反映されていたとは考えていなかったのだ。
その時期はドラッヘンフェルス高地での戦闘が開始された状況であった。
その時点で遅滞防御の準備を進めていたならば、それは敗北を想定していたという事になる。それは陸軍総司令部も同様であろう。
――皇国軍の方針が帝国の消耗と輜重線の延伸を意図した遅滞防御だったから?
それが反撃を前提とした時間創出の為であると帝国陸軍は確信していた。各種戦力の集中や物資と弾火薬の集積、塹壕線の構築など……軍が決戦を行うには膨大な兵力と時間、物資、資金が必要となる。
何よりも亡国沙汰に在って反撃に転じる予定のない遅滞防御など意味はない。
命令の基本は、精神的にも実践的にも、常に攻撃的でなければならない。だから、防禦もまた次の攻勢の準備として考えられねばならない。
皇国軍の反撃を受けて敗走するという想定があっても不思議ではない。軍神サクラギが遅滞防御の方針に多大な関与をしていたのだ。反撃を前提とした遅滞防御であると見るのは自然である。
――帝都空襲によって門閥貴族の全面攻勢を求める要求に屈せざるを得なかった。
大攻勢を選択させられた帝国陸軍総司令部の焦燥感は、少佐に過ぎないナタリアにも伝わっている。彼らの目的は皇国北部の占領とそれに伴う賠償で食糧を確保する事であった。それが、皇国全土の占領という現実的とは思えない戦略への転換を迫られたのだ。増援として投入された戦力が、急造師団の兵力が次々と皇国で肥料になる中で、帝国陸軍総司令部の面々は顔面蒼白となった。
人海戦術を恃みとする帝国陸軍は、人的資源の“在庫”を常に気にしている。
畑から兵士を引き抜くかのような気軽さで徴兵している様に思える帝国陸軍であるが、彼らは実に準軍事的な視点から現状に危機感を抱いていた。
慢性的な食糧不足による若年層の減少である。
帝国国内に於いて若年層は減少しつつある。
度重なる戦争で人的資源を消耗したからであり、今次戦役に於いて出兵計画に賛成したのは一重にその状況を脱する為である。不穏分子に恩赦を条件として戦場に出して国内擾乱の芽を摘み取る事で内戦による人的資源の消耗を抑制しようと試みたのだ。財務省の口減らしの意向も、そのれを後押しした。争いが無くなれば、相対的に人的資源回復の時間を創出できるという発想。
当然であるが、今次戦役に於ける被害は内戦によって生じるであろう被害想定を遥かに上回っている。
軍神サクラギ・トウカが、帝国人を根絶やしにせんばかりの殺戮を両国で繰り広げているのだ。帝国軍による占領地での蛮行は有名であるが、皇州同盟軍のそれは蛮行ではなく、民間人や都市も目標に加えた殲滅戦である。
敵国の一切合切悉くが攻撃目標である。
そう嘯いたトウカの発言は決して誇張ではなかったのだ。
帝国陸軍総司令部が今次戦役に於ける誤算を察して事態の収拾……つまりは撤退を画策したのだろう。そして、エカテリーナはそこで己の名前を出す事で政治的画策を目論んでいる。その意図が奈辺にあるのかはナタリアの知るところではないものの、少なくとも自らの政治勢力を相対的に強化するものであろうとは予想できた。
――でも、門閥貴族の主力がエルライン回廊に差し掛かっているのに……
増援という話は帝都空襲後から出ていたが、その先鋒が遂にエルライン回廊まで前進していた。
その数、約二二万名。一四個師団。
門閥貴族の混成軍である為、編制の差異はあるが、兵力としては膨大なものがある。
外征を前提としない領邦軍である為、輜重線の構築に手間取った。総兵力自体が八〇万を超えると豪語していた門閥貴族連合軍であったが、彼らは大軍の運用に必要な能力と知識に欠けている為、今の今まで投入時期がずれ込んだのだ。
輜重能力に欠ける中、大軍が少ない進軍路に殺到するという無様を彼らは晒した。一部では餓死者が出た挙句、近隣の市町村を相手に略奪まがいの徴用をしながらの進軍で南部貴族の領邦軍との衝突まで起きていた。
それにより、複数に軍勢を分割し、その前衛がエルライン回廊に差し掛かろうとしていたのだ。決戦に遅れるという欲と名誉、恐怖が彼らに決断をさせた。
継承権第一位のヴィークトルは、門閥貴族連合軍の投入を抑制しようと試みたとの事であるが、エカテリーナが「皆様の愛国心に対し、帝族として感嘆の念を禁じ得ない」と発言したことで歯止めが掛からなくなった。深窓の姫君が国家への挺身と讃えたのだ。寧ろ、引く事が自らの風評に影響する状況へと陥っている。
故に彼らは一部でも決戦に間に合わせる事で体裁を整えようとした。
戦力分散の愚を犯しつつあるのだ。
挙句に一部の領邦軍は航空攻撃の風評に怯え、進軍速度を低下させている。自軍の消耗を惜しむ貴族が現れたのだ。
どの道、決戦には間に合わない。
砲兵だけでなく航空攻撃という要素まで加わった戦場は刹那的ですらある。門閥貴族が考えるよりも確実に早く決着は付く。
ナタリアは市場に並ぶ野菜類に視線を向ける。
物品が帝都空襲以前より減少しているという以上に、物品自体の価格が上昇している。帝都で暴動を起こす訳にはいかないと大規模な配給が成されているが、それも万全とは言い難い。
実際のところ、焼け落ちたの帝都の敷地面積で言えば三割程度に過ぎない。
しかし、石造の建造物が崩れ落ち無数の通りを寸断し、火災旋風があらゆる通路を押し通った。砕け、溶け落ちた道路を魔導車輌や馬車が通行できる筈もなく、人力では流通量も知れている。
道路が無事ではない以上、帝都民に各種物資が届くはずもない。生産地から帝都に輸送される食糧はあれども、帝都の流通網は完全に機能不全に陥っているのだ。流通を担う者達の死者数も見逃せない。荷馬や魔導車輌の損耗もある。特に魔導車輌は空襲を受けた地区以外の地点であっても熱波に護謨車輪が溶けて修理を要するものも少なくない。
帝王の命令によって近衛軍までもが瓦礫処理に充てられているが、人力に他ならぬ以上、その処理速度は限られる。瓦礫処理だけでも半年は要するであろうというのが識者の見解であった。
軍による輸送にも限界がある。有事下なのだ。輸送車輛の多くは侵攻に割かれている。
「物価も高騰している……一時的なものでは収まらないか」「そうだ。共産主義者の跳梁が交通網を停滞させている」
ナタリアの独り言に応える野太い声。
振り向くと、そこには褐色の精悍な将校の姿があった。
女性にしては長身なナタリアより尚も高い慎重に、精悍さを湛えた顔立ちに、戦意を隠さない瞳。若さを気取れる顔立ちでありながら、猛禽の如き金色の瞳と顎鬚が彼には良く似合う。
深緑の第二種軍装に黒の外套、佩刀した鍔のない実戦的な曲剣……彼には一分の隙もない。
周囲の女性達からの熱視線をないものとして扱うだけの傲慢に懐かしさを感じたナタリアは苦笑する。
「久しぶりです、サイード。共和国戦線での活躍は聞いていますよ」
「敵の無能に助けられただけだ。……皇国側は割を食った様だが」
鼻を鳴らすサイードに、ナタリアは傲慢が平常の男の変わらぬ様に安心感すら抱いた。帝都を焼かれて気落ちせぬ軍人など居はしない。首都なのだ。
サイード・イブン・アズィール。
優秀な野戦将校として戦野で辣腕を振るうエルゼジール系帝国人の彼は武断的な性格と指揮官先頭を躊躇しない将校として勇名を馳せていた。佩用した曲剣も実際のところは蛮刀である。巻頭巾を巻いていれば紛れもないエルゼジール人であるが、彼は嘗てのエルゼジールの動乱の際、大陸に拡散した移民の末裔である。
ナタリアはサイードと並んで市場を進む。
痩躯褐色の野心を隠さない男と長身流麗な麗人と言うべき女という姿は実に目を惹くものがあるが、同時に平民を圧倒するだけの威圧感を備えても居。貴族将校とも思える程に軍装に乱れもなく、将校としての気風を隠さない姿は平民が想像する貴族将校そのものである。
実際のところ、サイードは食い詰め平民出身で、ナタリアもランカスター出身の傭兵一族でしかなく、爵位など手にしては居ない。ナタリアなどは帝族との面会の必要性から決して固くはない給金から身形を整える為の費用を捻出せねばならない事もあって、寧ろ一般的な帝国陸軍少佐よりも汲々としている。
「ケレンスカヤ……同期の誼で言ってやるが、分不相応な相手に近付くのは止めろ。死ぬぞ」
「あら、どちらの姫君も仕え甲斐がありますよ」
エカテリーナに関しては危険性を伴うものの政治と謀略を知ることができ、リディアは不器用な武人でありながら、少女の如き無邪気さを残した希有な人物であった。それぞれ方向性は違えども余人にはない魅力を持っている。そうした姫君達の政戦を支えてこそ帝国の繁栄があるのだとナタリアは信じていた。
「……それが貴様の譲れぬ一線ならば咎めはすまい」サイードは正面に向けた視線を揺るがす事もない。
同期の多数が皇国と共和国の双方を相手取った今次戦役で戦死しているが、少なくとも表面上は帝国軍が皇国と共和国の戦線を押し込んでいる様に見える。
サイードが一抹の寂寥感を感じないでもない程の消耗なるものが、帝国陸軍の屋台骨を圧し折る規模であるのは疑いない。
特に皇国戦線に於ける士官の消耗は群を抜いている。
機動打撃で司令部直撃を行う真似を中隊規模の戦闘ですら重視するという部分もあるが、耳長族の狙撃兵や多連装擲弾発射機による瞬間的な面制圧。長大な距離を浸透する遊撃軍狼兵との遭遇や戦闘爆撃騎による対地襲撃……それらが士官の消耗率を酷く増大させた。初見であるが故に対応が遅れたという部分もあるが、皇国軍の戦術行動が基本的に敵軍の司令部を直撃。混乱に乗じて後背に回り込んで包囲撃滅を図るという方針に傾倒している為であった。戦線自体の押し上げにより、敵軍の包囲を方面規模で図るという帝国軍の大量突撃戦闘教義とは大きな違いがある。
「ところで貴方は何故、此処に?」
「俺の部隊が全滅判定を受けてな。流石に無理な突撃で先鋒を幾度も担えば消耗は避けられん」サイードは致し方ないと言わんばかりの溜息を一つ。
全滅判定は人員五割の消耗を以てして成される。基本的に全滅判定は部隊の壊乱によって齎される場合が多いが、指揮官は大隊以下の規模の場合、壊乱に巻き込まれて戦死する場合が多い。無理な突撃を何度も繰り返し、尚且つ、指揮官であるサイードが健在であるという事は、壊乱せずに消耗し続けて限界を迎えた事を意味する。熾烈な消耗の中で指揮統制を維持するという真似をできるだけでも、サイードという野戦指揮官の才能が窺える。
「でも、共産主義者が流通網を麻痺させているとは……聞きませんが?」
「共産主義者どもが門閥貴族の領邦軍主力の不在を幸いに蝗の如く国力を蚕食している。奴ら、既に一部の貴族領を占領して策源地としているぞ」
「それは……成程、相対的な政治力の……」
エカテリーナは自身の政治的隆盛ではなく、門閥貴族の権勢を削ぐ為、門閥貴族連合軍を皇国に戦力投射する事を許容したのだ。否、中止を出来ぬ様に退路を断った。賞賛の意味は正にそれである。
共産主義者を利用したのだ。領地を労農赤軍に蚕食された貴族は甚大な被害を受けるだろう。帝国は領地の統治に失敗した者に寛大ではない。
しかし、労農赤軍は些か力を付け過ぎた様にナタリアには思えた。神出鬼没であり、急速に支持者を増やしつつある共産主義を背景に、労農赤軍は帝国中央部で既に複数の領邦軍を撃破するという実績を上げていた。
だが、長期的な占領はせず、貴族の殺害には及ばなかった。本格的な征伐軍成立の流れを恐れたが故というのが一般的な意見であるが、実際は純軍事的に見て策源地を設定した場合、拠点防衛を行う必要が生じる。不正規戦主体の彼らは長所を最大化する選択を取ったに過ぎない。
しかし、今この時、策源地を策定した。
それは、帝国陸軍との雌雄を決する上での勝算が見い出せた故ではないのか?
威勢を振るっているとはいえ、依然として労農赤軍の規模は一〇万を越えないと推測されている。不正規戦主体で分散している事から正確な数が判然としていないのだ。正規軍ではない為、恐らくは勝手に労農赤軍を名乗って活動している武装勢力なども存在する事もあり、恐らくは農労赤軍自体も正確には把握していない可能性が高い。
それが帝国という大国との決戦を覚悟した?
今までの労農赤軍の油断も隙もない不正規戦の手際を踏まえると、些か軽率に思える決断と言える。攻勢に転じた戦線二つをも抱えるとは言え、労農赤軍を相手に戦域諸共に包囲できる予備兵力は存在する。練度は兎も角として。
「不正規戦を捨てて決戦を求めて動き出したのですか? 好機と考えて乾坤一擲の賭けに出たと?」ナタリアは首を傾げる。
エカテリーナ曰く、労農赤軍の最高指揮官……共産党指導者と名乗る女性が極めて手堅い効率主義者であると聞くナタリアには信じ難いものがあった。
ミリアム・S・スターリン。
その意図するところは奈辺にあるのか。
叛乱抑止と治安維持に於いて、世界的に見ては莫大な実績と経験を持つ帝国軍が叛乱や一揆への対応能力優れている。士官学校教育で非正規戦を行う国内叛乱軍への対応が割かれている国家は世界的に見ても帝国しかない。
その帝国軍を相手に優位を維持し続けた労農赤軍がここにきて勝算の低い軍事行動選択するとは思えないのだ。打算がある場合、戦力比だけではなく兵站や練度、指揮統制という正規軍と叛乱軍の間にあるであろうあらゆる差への解決に一定の目処が立ったと捉えられなくもない。
最大の可能性は、支援していると思われている皇国軍と連動している可能性であるが、両者は位置的に極めて距離がある。連携は容易ではなく、兵力や物資の大規模な支援は現実的ではなかった。戦略爆撃騎を用いた航空輸送は可能であろうが、帝国上空を飛行する以上、視認する事は容易である。結果として確認されてはいない。
「労農赤軍……奴らが皇国の支援を受けているのは確かだろうが、実際は皇国そのものではないのか?」
「? 話が見えませんが……」
支援を受けている以上、皇国の意向にある程度は従わねばならないのは当然と言える。敵国の擾乱を意図しての事であり、皇国も慈善事業に資金を投じている訳ではない。意向を受ける事と、皇国そのものである事にナタリアは違いを見い出せないでいた。
「共産主義……その中身を見たが、あれは劇薬だ。あんなものを国内に持ち込まれて喜ぶ為政者など居る筈もない。敵国で“活躍”して、そのまま壊滅して貰うのが上策だろう」
サイードの皮肉交じりの断言に、ナタリアは一拍の間を置いて応じる。
「皇国は共産主義と帝国の相討ちを狙っていると?」
「違うな。労農赤軍の指導者層が共産主義などという妄言を隠れ蓑に、皇国の利益を最大化する為に動く皇国の武装勢力なのだ。分からんのか?」危険物の手綱を握らず放置する相手とは思えん、と続ける。
ぶつぶつと罵るサイードに懐かしさを覚えながらも、ナタリアはその意味に思考を巡らせる。
敵国の反政府勢力に各種支援を行って、国情を擾乱させるという手は古来より行われていたが、労農赤軍の指導者……或いは上層部にとっての労農赤軍成立理由自体が皇国側面支援そのものであった場合、帝国は脅威度を見誤った事になる。
皇国が帝国内の不満分子を、共産主義を御旗に招き寄せて支援しているのではない。帝国の不満分子の核となる人物や指導者層を皇国が用意して叛乱軍を形成したのだとしたら、労農赤軍は革命なる戯言を言葉通り目指していない可能性もある。それどころか皇国の利益の為ならば、労農赤軍が壊滅的な被害を受ける事も躊躇しないだろう。皇国が主導で労農赤軍という組織を成立したのならばそうなる。
「相討ちならば、いや別に相応に被害を与える程度の活躍で全滅してくれても構わない、と皇国が考えているならば良いのだがな」
サイードは労農赤軍に称賛があると見ているのかも知れない。確かに、勝算なく正規軍と正面から軍事衝突を覚悟する相手ではない。
「内憂が派手に顕在化すれば自然休戦を望めると見たのでしょうか?」
皇国側が今次戦役に於ける落としどころを模索しているのであれば、十分にあり得る話である。帝国内の争乱が拡大する程に、帝国の軍事力は治安維持に割かれることになる。
「しかし、その……我が姫達は共産主義思想を皇国の軍神が持ち込んだと判断しています。ですが軍神の日頃の言動を踏まえると、その些か……」
常日頃から帝国を滅亡させると口にして憚らない軍神が自然休戦を望むとは思えない。軍事行動や政策を見ても帝国とは相容れない点が多く、決して姿勢だけで帝国を批判や罵倒している訳ではない。
帝国の過度な弱体化を軍神は現時点では望んでいない。皇国に根強くある外征に否定的な者達が、帝国が内憂で弱体化したならば放置した方が混乱を助長できると考えるからである。外敵が侵入した場合、それを理由に結束するというのは歴史が証明している。外敵が侵入しても尚、国内で争う姿勢を見せる陣営の支持は失われる運命にあるのだ。
トウカはそうした展開を望まない。それがエカテリーナの見解である。だからこそエカテリーナは国内擾乱を厭わない。
「ならば労農赤軍には勝算があるという事なのだろうな。いや、壊滅しても構わないと考えているのか……敗北から生まれる英雄もある。何処かの姫将軍の様にな」
あれは宗教だからな、と共産主義を評するサイード。
宗教を理由とした内紛の絶えないエルゼジール出身のサイードであるからこそ理解できる部分があるが、それは純粋な帝国人には理解し難いものがある。
貧困に蔓延る形の新しい宗教と相対する意味を、帝国軍人の大部分は未だ理解していなかった。
「……そこまで読めているとは、姫君への御紹介を私に望んでは?」
ナタリアとしては、サイードの見識と切れる頭脳を二人の姫君に為に生かせると確信していた。特に皮肉と冷厳に満ちた白い姫君の相手を務めてい貰いたいとすら考えている。口先の上では対抗できるという期待もあった。
「残念だな。俺は誰にも傅かない」
「不敬ですよ、それ」
予想された言葉に、ナタリアは苦笑する。憲兵が聞けば面倒が増える言葉であるが、そうでなくてはサイードとは言い難い。
「ところで暫くは帝都なの?」
根無し草の男に飯の美味い宿を教えて借りを作ろうと目論むナタリア。しかし、想定とは異なる言葉が返される。
「ふん……目的地は同じだ。御前と同じ輸送騎で皇国に赴く」
見透かしたかの様な言葉と共にサイードは口角を釣り上げる。戦機に逸る男の横顔。
そして、付け加えられる。
「友人に会いに行くのだ。どうも危地にいるらしい。助けてやらねばな」
一転して引き絞られた生真面目な表情。表情は以前より多彩となっていた。
「貴方に友人が? 私以外に?」
「……俺は御前を友人だと思った事はないがな」
それはつまり一人しか友人がいないということなのでは、という疑問をナタリアは呑み込む。
「己の性癖の為に貧乏籤を引く莫迦な友だ。死なすには惜しい」
心底と酷い言葉を聞いたナタリアは、控えめに見ても友人を選択する感性に乏しい褐色の同期に天を仰ぐしかない。
周囲の喧騒がどこか遠い。
戦時下と言えど、男の友情が女に理解できない点だけは不変であった。
命令の基本は、精神的にも実践的にも、常に攻撃的でなければならない。だから、防禦もまた次の攻勢の準備として考えられねばならない。
《亜米利加合衆国》欧州派遣軍総司令官 ジョン・パーシング元帥