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第二三二話    ミナス平原会戦 一




「中隊指揮官、戦死! 次席指揮官に指揮権が移りまぁす!」

 金切声の伍長の伝令に、新任少尉でしかないエグムント・ラムザウアーは罵声を浴びせたい感情を押し殺す。

 後退の続く戦野で指揮官の戦死を大音声で叫ぶような連中が不思議と生き残る事を理解しつつあったラムザウアーは、戦場の理不尽に寧ろ自身が叫びたいとす ら考えていた。正邪も善悪も関係なく、戦野はただ偶然と確率のみを以て死者を選別していく。勇敢な者が最初に戦死するという士官学校の教官の言葉は正し かったが、一部には例外もいる。低位種にも関わらず、劣勢の塹壕戦で奇妙な程に曲剣(サーベル)の扱いを見せ、何十人と帝国陸軍兵士を切り裂いて悠々と後退するという猛者も垣間見た。

 ただ、ラムザウアーの印象としては、嫌われ者や一般的な感性から外れたものが超常的な活躍をしている印象がある。そして、そうした者は大抵が思慮に欠けた。

 ラムザウアーは塹壕の隅で、小銃の薬室に装弾子(クリップ)を叩き込む。

 実際の処、彼自身もその狙撃の腕を以て雲霞の如く押し寄せる帝国陸軍兵士を多数射殺しており、友軍兵士の後退支援に多大な成果を残している為、著名な兵士の一人に数えられつつあるが、現状では彼もそれを知らなかった。英雄とは後の話題によって形成されるのだ。

「あの髭顔の伍長、いい歳して昇進できない訳だ」

「……軍でも居るのですよ。要領が悪くとも残留できるものが」

 新任少尉を慮って配置された軍曹が苦笑する。彼もまた連日の戦闘で窶れ、無精髭を放置していた。巌の如き体躯で無精髭である事に加え、冬季迷彩用の白外套である為、白熊に見えなくもない。意外な事に髭面でも奇妙な愛嬌が窺える。

 軍という組織は、一般企業を遥かに上回る程に実力組織である。ヒトの生死に積極的に関与する組織であるが故であるが、それ以上に戦火に揉まれる事で不適 格な者が篩に掛けられるという部分が大きい。定期的な帝国の侵攻と、周辺諸国との小競り合いは、そうした部分に拍車を掛けるのだ。

 それでも尚、要領の悪い者は残る。

 確率論的な問題であるが、些か目に付き過ぎるのは、戦時下で本土防衛という後のない戦況ゆえである。出来の悪い兵士でも放逐する余裕はないのだ。


「まぁ、娑婆でもやらかす人間は目立つでしょう? そういうもんです」

「そういうものか」

 幸いな事に次席指揮官は冷静な対処をしている為、最悪の状況は避けられるとラムザウアーは見た。狼狽や驚喜する様な者であれば、先が思いやられる。後退に次ぐ後退で指揮系統が一時的に曖昧となる中、背後からの銃弾で戦死している野戦指揮官が居ても不思議ではない。

「少尉、来ます! 大攻勢!」

 軍曹が単眼鏡を仕舞い込み、隣の重機関銃を冷却している兵士の鉄帽を叩く。砲声の響く戦場では、声よりも手っ取り早い手段である。

 無言で深緑の津波の先頭を指差し、攻撃用意を指示している。

「突破破砕線も持ちませんな……これは――」

「――少尉、新たな命令が!」

 金切声の伍長が伝令の為に滑り込んでくる。

 塹壕陣地とは言え、砲兵隊の効力射で巻き上げられた融雪交じりの土砂が降り注ぎ、塹壕を埋めようとするのだ。応戦の最中にエンピで掻き出す兵士も居るが、明らかに不足している。

 薄汚れた命令書を手に取るラムザウアー。

「伏せろだと? 一五三〇から戦線の押し上げ! 早過ぎるぞ!」

 敵の消耗を待って反攻に移るのならば理解はできるが、火力投射の規模を見るに未だ敵軍は十分な余力を残している。

「少尉! あれを!」

 軍曹がベルゲンの方角……空を指差す。

 塹壕内から見上げた空。



 空が黒かった。



 否、天壌を埋め尽くす程の龍が飛行している。

 何千という規模。

 龍の嘶きは未だに届く距離ではないが、それでも尚、空色を塗り潰さんばかりの光景は心胆を寒からしめた。

「あれが決定打か……この戦争、勝ったな」

 内戦に参加したラムザウアーは航空攻撃の恐ろしさを知っている。

 機関砲や機銃による掃射は兵士を地面に縫い付けるかの如く撃ち砕き、航空爆弾は爆風と破片効果で兵士を判別の付かない肉片として土砂と共に攪拌する。砲 兵とて類似した被害を齎すが、航空攻撃は一瞬で行われ、警報が間に合わない事すら少なくなかった。車輌よりも遥かに高速で移動する兵器が遥かに広範囲を移 動し、重砲の炸薬量を遥かに超える爆弾を抱えて突然上空に出現するのだ。

 客観的に見ても脅威の一言に尽きる。

 砲兵と違い持続的な攻撃ができないと否定的な意見が内戦前は大部分を占めていたが、砲兵を遥かに超える遠距離からの投射は想像を絶する。航空基地を攻撃するまでに一体、幾度の反覆攻撃を航空騎は可能であるか。考えるべくもない。

 無論、陸上戦力とて満足に整備できぬ中で、航空爆撃の積極的運用に予算を裂けないという都合があったのは誰もが知る事実だが、それをトウカは成した。そして、その威力を目の当たりにした陸軍は重い腰を上げた。否、全力で航空戦力整備に邁進した。

 しかし、所詮は数カ月。

 それでも尚、これ程の規模を備えている理由は、陣頭で飛行する巨龍の協力によるものと、誰しもが理解している。

「誤爆されては叶いませんな……塹壕で身を寄せ合いますかな?」

「髭が痛いと女共が嫌がるだろう? それよりも軍旗を持て」

 軍旗を掲げて友軍である事を示せば誤爆の可能性は低減できると、ラムザウアーは踏んでいた。

 無論、ベルゲンを視認できる距離ゆえに、大攻勢を選択した逸る帝国軍は突撃による戦線押し上げを開始した最中にある。塹壕を捨て、銃剣突撃に移った彼ら の突撃兵は無防備である。軍内でもより戦闘的な性格の者が集められる突撃兵だが、現在の帝国陸軍では、明らかに捨て石の民兵が担っている。

 それ故に残虐である。

 軍規など知りもしない有象無象の残虐性は後退戦の最中に遺憾なく発揮された。それ故に民兵であると侮る者も容赦する者も居ない。

「軍旗は銃弾に破れる程に誉らしいからな……軍曹」

「致し方ありませんな。男気、魅せるとしましょう」

 塹壕内で軍旗を振るにも限界がある。魔導障壁で防護したならば、砲兵隊の曵火砲撃に晒される。魔導障壁は、銃弾を弾き、術者次第では砲弾すらも跳弾にで きるが、展開は露骨に位置を特定される。位置特定と防弾を天秤に掛けた場合、前者が優先される。位置特定により火力集中が成された場合、魔導障壁など容易 に破砕されるのだ。撃破されるまでの時間統計の上では優位であるが、当然ながら披発見率が上昇するので確率論上は直撃弾を受ける者は増加する。

 指揮官先頭などというのは銃火の発展によって廃れて久しいと思われがちだが、実際のところ指揮統率の為に勇気を見せねばならない局面は意外な程に多い。特に中隊以下の部隊では日常茶飯事である。

 軍曹が軍旗の用意を付近の兵士に命じる姿を横目に、ラムザウアーは隣の兵士の鉄帽の顎止めを外す。爆風で首を絞められは叶わない。砲撃であれ爆撃であれ、爆風は人体など容易に巻き上げる。鉄帽に受けた爆風も例外ではない。

「少尉、準備できました。他の陣地も同じことを考えている様ですな」

 他の塹壕から翻る幾つもの軍旗。身近に軍旗がなかったのか、所属の領邦軍期や聯隊旗なども部隊旗も窺える。領邦軍旗や部隊旗などは、全てを記憶している兵士などは居ない筈であるが、大量の軍旗の存在は友軍塹壕線を示す指標となる。

 忽ちに直上を覆う戦龍の大軍。

 影が塹壕線を埋め尽くし、殺意が空を覆い尽くす。

「おい、軍曹。塹壕内の武器と弾火薬を掻き集めるんだ。空襲が終われば俺達の手番だぞ」

 その一言に塹壕陣地が慌ただしくなる。

 戦線の押し上げ……反攻戦が始まるのだ。

 緩降下……急降下爆撃に入る対地襲撃騎の編隊が一番槍を務める。

 ラムザウアーは与り知らぬ事であるが、大規模航空攻撃に於いての誤爆や攻撃序列の問題は幾度も議論が成された。トウカも第一次攻撃による火災と黒煙が以 降の航空攻撃の命中率と効果を低下させると見ていた。故に小型騎による爆撃が第一次攻撃となった。第二次攻撃は中型騎による砲兵陣地への水平爆撃となって いる。

 複数の大型騎による絨毯爆撃も立案されたが、航空爆弾の生産が間に合わない中で、命中率の低い攻撃手段は現実的ではないと差し控えられた。そこには使用 される航空爆弾が重砲などの大口径砲の榴弾を転用している事も影響している。火砲の砲弾も不足している点に変わりはなく、砲兵総監と新設された航空総監の 間で激しい激論が交わされてもいる。

 陸軍で各兵科の教育を統率する監軍部では、航空総監の新設に伴い激しい唾競り合いが起きている。新設兵科と見ても許容しかねる程に予算を圧迫するからで ある。本土決戦となり臨時予算や戦時法案が相次いで可決した中、将兵の育成を担う軍監部も当然ながら予算が飛躍的に拡充された。元より、陸軍は技能職を保 全する為、兵士よりも下士官の層を厚くするという手段で技術と練度を辛うじて維持していたが、それがエルライン要塞失陥で風向きが変わった。

 予算の爆発的な増大である。

 当然、監軍部は驚喜した。

 戦争は消耗戦である。人的資源も例外ではない。将兵の損耗を予算不足の頃より厭う陸軍派枯渇を防止すべく、野戦救命と実戦教育に心血を注いでいる。人的資源の消耗抑制は陸軍にとり常に最優先項目であり続けていた。

 練兵の規模拡大を意図する監軍部だが、そこで問題が起きた。

 航空科の予算要求が過大であったのだ。

 新兵科という理由を加えても尚、莫大な予算要求は監軍部を二分した。予算配分を巡る争いである。そうした中、皇州同盟とクルワッハ公爵家が航空科への資 金援助を申し出た事で混乱は拡大した。皇州同盟とクルワッハ公爵家の意図が、航空兵科への影響力拡大であると理解したからである。頑強に抵抗していた歩兵 支援主体の砲兵科だけでなく、軍狼兵科や装虎兵科まで抵抗を始めた。そこには、軍内部に於ける種族勢力の比重に変化を齎す動きを牽制する意図があった。

 結局のところ、皇州同盟とクルワッハ公爵家の資金援助は認められた。

 皇州同盟が陸軍府総司令部に「認められないならば、航空装備の売却と認可(ライセンス)生産を許可しない」と恫喝したからである。

 その成果が戦野に現れた。

「あの下には居たくありませんな」

「土塊と人肉の炒め物、帝国主義仕立て。と言ったところか?」

 空襲の本格化に伴い、狙撃の心配がなくなった塹壕からラムザウアーと軍曹は顔を出し、砕け散りつつある帝国軍の大攻勢を見据えた。軍曹と違いラムザウアーは双眼鏡を以てその光景を垣間見ている為、その有様が一層と克明に見えた。

 砲兵による効力射と同様に天高く巻き上げられる人体が地面に叩き付けられ、焼夷効果が軍服を火達磨にして兵士諸共に炭化させる。地面を蠢いているであろう兵士も居るかも知れないが、爆炎がそれを覆い隠している事で姿は認められない。

 甲高い効果音を響かせて航空爆弾を帝国軍部隊に叩き付ける急降下爆撃騎。
 低空飛行で翼下の機関砲や機銃を以て、車輛や兵士を破砕する地上襲撃騎。
 中高度から大規模梯団を維持した儘に編隊爆撃で陣地を砕く中型攻撃騎。

 それらの攻撃の間隙を縫う様に、攻勢が頓挫し、壊乱した帝国軍部隊に制空戦闘を制した戦闘爆撃騎が小型爆弾と機銃で追い縋るかの様に殺戮する。

「少尉、そろそろ……」

 大凡、現実感を伴わない殺戮を双眼鏡越しに見続けるラムザウアー。悲惨な光景でもあるが、周囲の兵士が航空爆弾が炸裂する度に歓声を上げている様に、ラ ムザウアーも帝国軍将兵に同情心は沸かない。侵略者が相応しい末路を迎えているに過ぎないのだ。そして、残酷な光景は既に戦場に片隅に在って日常となっ た。嘔吐感も罪悪感もない。寧ろ、満足感と充足感が肺腑を満たした。

「時間が近い、か。宜しい! 総員、着剣! 残敵掃討だ! ここで死んでは詰まらんぞ!」

 ラムザウアーの叫びに幾つもの復唱が続く。

 彼自身も腰に吊るした銃剣を抜いて小銃に着剣する。他国と比較すると長く、厚みのある銃剣は魔導防禦を貫徹する術式が刻印されていた。

「近接航空支援? もあるそうです。何でも、要請すれば、航空騎が駆け付けてくれるとか」

 軍曹は不要領に申告するが、実際のところラムザウアーも航空支援の能力と限界を把握していない。砲兵よりも広範囲を攻撃可能で、即応性にも優れる。しか し、持続性に劣る。師団砲兵や野戦砲中隊による砲撃支援の下での攻撃と比して間髪を入れない支援とはならないはずであった。

「まぁ、支援要請は上が考えることだ」

 航空支援要請を承認するのは、上級司令部である。

 何より、支援が必要とは思えない程に帝国軍は混乱している。

 終息しつつある航空攻撃。三〇分程度であったが、その瞬間的な投射量は砲兵に勝る規模がある。果たして爆撃後の土地を歩兵が前進できるのかと思える程の 爆撃は、砲兵による支援など必要とするとは思えない。何より、帝国軍は大攻勢の最中に在って、大部分が前進中であったのだ。避難も隠蔽も叶わない中、突然 の大規模空襲に晒された。航空要撃どころか、個人防禦の手段すら確立していない中での大規模空襲は、砲兵による曵火砲撃よりも効果があった。

 ラムザウアーは小銃の被筒部(ハンドガード)を握り締める

「少尉、時間です」

「総員、突撃にぃ、移れぇ!」

 皇国軍は地上に於いても総反攻を開始した。







「〈第三六二師団〉、壊乱! 師団司令部壊滅の模様!」
「〈第六砲兵師団〉、被害甚大。既に火砲の七割を損耗!」
「〈第四三親衛狙撃師団〉、後退中!」
「前線右翼は壊乱状態にあります!」

 大攻勢は頓挫し、後退を続ける部隊が続出している報告に、〈南部鎮定軍〉司令部は憂色に包まれていた。

皇州同盟軍総司令官、大御巫、クルワッハ公爵を始めとした皇国という国家の重鎮が決戦地と定めて一所に集っている。それ故に誘引されていると理解しても尚、進撃せざるを得なかった。

 リディアとしても、時間を与えれば与える程に航空戦力整備が推進されると踏んで皇国軍に時間を与えないという計略を基本とした。それ故に急造された師団を前衛にした大攻勢を続けた。短期決戦を求める代償として、促成錬成の将兵は甚大な消耗を続けている。

 しかし、今この時、攻勢は頓挫した。

「攻めきれなかったか。いや、そもそもこの時を待っていたのか」

 空襲に参加した航空騎の総数は情報が錯綜している為に不明確だが、反攻戦が可能と皇国側が判断した数は揃っていると見る事ができる。無論、これ以上の後退は不可能と見ての反撃となれば、未だ帝国軍に勝機があるが、リディアには判断が付かなかった。

 混乱によって情報伝達すら途絶している中では、各部隊の状況把握すら叶わない。少なくとも現状で受けている報告よりも尚、被害が拡大している事だけは確実である。

「予備兵力を投入せよ。敵との混戦に持ち込むのだ! 前線を押し上げよ!」

 リディアも困難な命令であるとは理解しているが、航空攻撃を皇国軍に躊躇させるには、その一手しか存在しない。以前より〈南部鎮定軍〉司令部の間で航空攻撃への対処法は議論されていたが、確実な対処法は最後まで見つからなかった。

 内戦時の航空攻撃による成果から、皇州同盟軍の航空戦術の情報は皆無ではないが、事実を知るが故に対処が困難である事を理解していた。要撃騎は、そもそ も練度の面で優位に立てず、総数に於いて大きく劣る。対空砲も地上襲撃騎や戦闘爆撃騎が優先攻撃目標として破壊する為、迎撃率よりも被害率が遥かに高い。

 元より要撃騎も対空砲も絶対数が不足しているのだ。

 エカテリーナの口添えで配備されてはいるが、三都市や帝都に対する空襲で恐慌状態に陥った貴族達は航空騎と対空砲を手放さなかった。北部で発生した航空 戦と、中原で起きた都市爆撃も、その傾向に拍車を掛けた。特にエルライン回廊近傍での航空戦では、同数の航空戦であったにも関わらず、大部分の帝国軍騎が 一方的に撃墜されたのだ。疲労と練度、航空装備の差であると結論付けられたが、その情報は貴族達には伏せられている。対処法がないと知れば、独立心の強い 貴族の一部が独立運動を展開するやも知れないという恐怖が、事実の公表を躊躇させた。

 総崩れも已む無しという状況だが、リディアは引くに引けない状況にある。

 例え、敗北しても金融都市として名高い中原を占領したという成果を以て皇国侵攻の失敗は補われる。エカテリーナは、サクラギ・トウカという想定外の要素 が生じた時点で、皇国侵攻の失敗を想定していた。代替の成果として、軍事的間隙を利用した中原侵攻を行ったのだ。皇国侵攻自体は、エカテリーナや陸軍総司 令部は北部占領を確実なものと成さしめるべきと考えていたが、堪え性のない門閥貴族が騒いだのだ。財務省も予算の都合上から短期決戦を求めた。或いは、敗 北しても扶養が減ると考えているかも知れない。速成錬成の低所得者と呼ぶのも烏滸がましい貧困者の削減は彼らとしても望ましい筈である。


 十分な食べ物が無くなると、人々は飢餓で死ぬ。半分は死んだ方が良い。そうすれば、残りの半分は腹一杯食えるからだ。


 外務省長官が非公式に述べたとされる一言を知るリディアは、銭勘定に勤しむとヒトは血も涙もなくなると良く理解していた。無論、その一言に対し、「あ ら、その喪われる半分。加工して再利用はしないのかしら?」と返して外務省長官を閉口させたエカテリーナは、血も涙もないどころか人間性すら喪っているの かも知れない。食糧不足ならば、人肉も流通させてしまえという更に踏み込んだ発言は、過ぎたる効率主義が猖獗を極める時代を窺わせた。

 リディアは、予備兵力……一個軍集団、計二六個師団が前進し始めたという報告を受け、大博打の始まりを自覚した。

「被害把握すら間に合いませんな。こうも忽ちに制空権を取られると対応の時間すらない」

「砲兵に勝る広範囲への攻撃だからな。どうしても情報伝達が飽和するし、混乱も助長されてしまう」

 ブルガーエフの言葉に、リディアは苦笑する。

 戦略面で見れば、航空攻撃の恐ろしい点は、広範囲を極短時間で攻撃するという点である。対処時間が極短時間であるという事もあるが、前線を飛び越えて陣 中深くを攻撃するという点は大きい。兵站への被害や情報伝達を担う部隊への被害が広範囲で生じるのだ。結果として、上級司令部は情報の遅延によって的確な 対処を行えない。

「そもそも、対処手段など、元より我らの手元にはありませんからな」端的な事実を述べるブルガーエフ。

 しかし、誠に残念な事であるが、彼女達は軍人なのだ。有りもしない最善を尽くす義務を負っている。

 予備兵力の大部分は速成錬成された師団ではなく、正規軍人を主体とした相応の練度を有する師団である。航空攻撃は一時的に終息している為、今ならば好機である。

「急造師団は、相応に被害を吸収してくれた。有り難い事だな」

 その為にこそ前線に積極的に投じた経緯はあるが、その犠牲を無駄にはできないと、リディアは腹を括る。彼女は、この侵攻を只の口減らしで終わらせる心算などなかった。

 未だ彼女の手元には直卒する〈第三親衛軍〉が存在する。督戦を兼ねているからこそ手放せないが、この期に及んでは一切合切を前線に投じて活路を開くしかない。

「私も〈第三親衛軍〉を以て――」

「――元帥閣下! 皇国軍の反撃です! 機動師団と装甲師団の存在も確認されています!」

 立ち上がろうとしたリディアを、攻勢を告げる急報が遮る。

 〈南部鎮定軍〉司令府は虚を突かれた。

 航空攻撃で大攻勢が頓挫しつつあるが、未だ総兵力では帝国軍が優位に立っている。数度の航空攻撃を以て完全に戦力を漸減してからの攻勢に移ると見ていた。

 混乱に付け込もうとしているのは容易に想像が付く。

 予備兵力として投入を開始した一個軍集団の攻勢が、総崩れの急造師団が無数と後退する中に巻き込まれかねない。

 急造師団の背後にも督戦を担う部隊は存在したが、航空攻撃の“射程”は彼らをも捉えている。報告は上がっていないが、督戦を担う部隊も大規模な被害を受 けているに違いなかった。トウカは之を航空攻撃の優先目標とした筈である。元より、督戦を担う部隊は、その目的だけでなく急造師団を後方から支援すべく火 砲戦力に優れている。砲兵を漸減するという意味でも、優先目標となり得た。そして、何より督戦隊の被害拡大は壊乱の可能性を跳ね上げる。

「馬鹿な。早過ぎる。自滅するぞ」

 砲兵参謀の呻き声に、リディアはトウカがその程度の下手を踏むものかと、胸中で毒付く。

 総崩れに予備兵力を巻き込む心算なのだ。

 或いは、トウカは誤爆を覚悟の上で前線の押上げを開始したのではないのか、という疑念をリディアは拭い切れなかった。主力は陸軍。皇州同盟軍の損耗という点のみを見れば、実に明確な政略である。

 そうはさせない、とリディアは野戦机に拳を叩き付ける。天板が砕けた。

「〈アルダーノヴァ軍集団〉は前線中央への展開を中止! 総崩れの急造師団から距離を取りつつ……そうだな左翼に当たれ。必要なら砲撃で左翼の急造師団を中央に押し退けつつ、前線に展開せよ。総崩れに巻き込まれるな!」

「何十万という規模の総崩れ。その混乱を避けつつ前線に展開……厳しいですな」

 厳しい現状を端的に認めるブルガーエフの現実主義に、リディアは苦笑する。現状を認めるというのは参謀の最低限の資質だが、意外な事にそれを出来る者が少ないのもまた事実である。

「爺や、そんな事は分かっている。でも、これしか手段がない」まさか戦線中央に布陣する訳にもいかない、とリディアは続ける。総崩れに本格的に巻き込まれ ては、練度に優れた部隊の意味がなくなる。熾烈な督戦によって総崩れを避けるという一手を取るのが通常であるが、今回の総崩れの規模は帝国開闢以来の規模 である。戦前全体の総崩れなどそうある事態ではない。あくまでも戦線の一部が突破された事に伴う程度のものである。

 総崩れの規模に加え、予備兵力であった〈アルダーノヴァ軍集団〉もまた少なからぬ被害を受けている。特に砲兵と弾火薬集積所の被害が甚大である。予備兵 力として〈南部鎮定軍〉司令部と比較的近い位置に展開していたが故に、〈アルターノヴァ軍集団〉の被害は正確に報告されている。

 督戦に最も有効な兵器である砲兵とその弾火薬が充足していないのだ。

 その中で督戦に用いて弾火薬を射耗する真似はできない。

「敵騎の数が不明ですが、総崩れになる規模。戦線全体への同時多発的な攻撃ともなれば、総数は……三〇〇〇騎を超えてくるかと」

「クルワッハ公は何時かに行った大規模演習の規模が六〇〇〇騎を超えたと聞く。大型騎や戦闘に向かない龍を差し引いたとしたら三〇〇〇騎から四〇〇〇騎の数は不自然ではない、か」

 端倪すべからざる物量である。

 物量戦である人海戦術を以て周辺諸国を武力併合してきた帝国軍が、航空兵力とはいえ物量に晒されて総崩れとなりつつある現状は一種の皮肉と言えた。

 決断力に優れると言われるリディアであるが、航空攻撃の疾風の如き速度に対応できないでいた。参謀の協議や意見に耳を傾ける時間的余裕すら許されない。加えて、彼女は流動的な戦場で命令の遅延が致命傷になると理解していた。元は速度を重視する騎兵科将校なのだ。


 決断力欠ける人々がいかに真面目に協議しようとも、そこから出てくる結論は、常に曖昧でそれ故に常に役立たないものである。また優柔不断さに劣らず、長時間の討議の末の遅すぎる結論も同じく有害である事に変わりない。


 そうしたルネサンス期の政治思想家の言葉すらトウカは許さない。元より協議の時間すら与えてはくれないのだ。その事実を理解できるだけ、リディアの判 断……直感とでも言うべきものは卓越したものがあるのだが、それでも尚、命令は間に合わない。否、〈南部鎮定軍〉司令部へと大規模航空攻撃の一報が舞い込 んだ時点で手遅れだったのだ。

「要塞戦で使われた野戦臼砲が温存されています。それを使って総崩れを振り払う事は可能でしょう。ただ、次の航空攻撃を〈アルダーノヴァ軍集団〉が凌げるかが焦点となりましょう」

 ブルガーエフの指摘に、リディアは苦笑を零す。

 野戦臼砲は要塞攻撃に使用したもので、野戦砲よりも移動は容易であるが、射程が酷く短いという欠点を持つ。温存されていたというのは酷く控えめな表現であり、野戦での運用が難しい為に予備兵力の戦闘序列に組み込まれているに過ぎなかった。

 リディア自身、分の悪い賭けであるのは理解している。

 次の航空攻撃が行われるまでに、皇国軍と混戦状態に持ち込むか、ベルゲンへと雪崩込むという博打は勝率は高いとは言えない。制限時間も分からず、何より 纏まった規模で航空攻撃が行われるとも限らない。航空爆弾や機関砲弾を再装填次第、小規模で順次航空攻撃を行われては攻勢は遅延すると見て間違いないの だ。

 だが、勝機は未だ存在する。

「〈第三親衛軍〉……いや、〈第一重装魔導騎兵師団〉を出すぞ」

「迂回突破ですか? 間に合いますかな?」

 ブルガーエフは、〈アルダーノヴァ軍集団〉に航空攻撃を吸収させている間に、〈第一重装魔導騎兵師団〉でベルゲンを急襲すると考えたのだろう。

「目標は後背の飛行場だ。私が直卒する」

「……姫様が囮になると?」

 ブルガーエフの感心しないという感情を滲ませた声音に、リディアは奇妙な諧謔味を覚えた。己が相手の立場であれば、その様にしたであろうし、何よりも爺やという生き物はそうであるべきなのだという観念があった。

「〈ヴォロシーロフ重装魔導騎兵聯隊〉は定数の六割、〈ブジョンヌイ重装魔導騎兵聯隊〉は五割……些か無謀と言えましょうな」

「さて、どちらが囮になるだろうか?」〈アルダーノヴァ軍集団〉か〈第一重装魔導騎兵師団〉か、とリディアは嘯く。

 リディアが〈第一重装魔導騎兵師団〉を疾風迅雷の用兵を以て、ベルゲンより更に後背に位置する航空基地を襲撃できる可能性は低いと言わざるを得ない。航 空基地の大凡の位置は、決戦以前より浸透させた斥候による成果で判明している。軍狼兵が哨戒している為、詳しい情勢は不明であるものの、ベルゲン近郊での 決戦の最中にある以上、師団規模の重装魔導騎兵を前に防禦行動を取れる戦力が展開しているとは思えない。皇国軍は既に予備兵力を投じている。余裕がある可 能性は低い。

 だが、航空戦力による戦場航空阻止が行われる可能性は高い。寧ろ、それを恃みとしたが故の予備隊投入であると見るべきである。

 後方連絡線の遮断や敵部隊、輜重の遅滞、妨害、撃破も当然だが、重装魔導騎兵師団本隊にも戦術爆撃が行われるのは間違いない。航空基地までの距離は正確に不明であるが、遠ければ遠い程に敵中深くへ進出せねばならず、航空攻撃を受ける期間は比例する。

 しかし、航空攻撃は〈アルダーノヴァ軍集団〉か〈第一重装魔導騎兵師団〉に分散する。航空基地に迫る〈第一重装魔導騎兵師団〉を看過できるはずもなく、相応の航空兵力が割かれる筈である。それが〈アルダーノヴァ軍集団〉によるベルゲン強襲を間に合わせるかも知れない。

 だが、それはあくまでも可能性の話に過ぎない。

 航空攻撃の威力と言うものをリディアは計りかねていた。

 内戦に於ける情報である程度は判明しているものの、内戦時の征伐軍は相応の邀撃騎を要していた。フェルゼン上空に於ける航空戦は両軍一〇〇〇騎を越える 龍騎兵が交戦したが、地上への被害は限定的であった。それが、果たして邀撃の成果なのか、元より爆撃の命中率が低いのか、リディアは判断しかねていた。帝 都空襲の正確な被害は未だ彼女には伝わっておらず、そもそも本土でも集計が終えていない。或いは、帝都空襲に於ける戦闘詳報が存在したとしても、戦略爆撃 と戦術爆撃の差から参考にはならなかったであろう。

 これは博打なのだ。

 大規模航空作戦という新機軸の戦術の限界を図る為、帝国は複数の都市と首都に飽き足らず、一方面軍の犠牲を必要としているのだ。それで目覚める事を〈南部鎮定軍〉司令官たるリディアは切に願っていた。

「爺やは、司令部に残れ。後退の時期(タイミング)は任せる」

 撤退の際、最も敵中深くに躍進しているであろう〈第一重装魔導騎兵師団〉は後衛戦闘を行わねばならない。リディアは、その全てを賭して指揮統制を維持し て皇国軍の追撃を阻止する役目を負う心算であった。壊乱した急造師団の残存を糾合しながらの後衛戦闘は、鎮定軍司令官であるリディアの武名でのみ成せるの だ。

 帝族が負け戦で最後尾を務める姿勢を見せなければ、指揮統率など覚束ない。

 ブルガーエフが眦を下げて頷く。

 参謀長という職責でありながら、〈南部鎮定軍〉司令部は副司令官を参謀長であるブルガーエフが兼務するという体制にある。本来ならば有り得ぬ体制である が、信の於ける将官達に自らの不在の際に代行を任せ得る者を見い出せなかった結果である。何より、帝国軍に於いて将官とは極めて政治的な要素を含むのだ。 ただ軍を指揮統率する能力があるだけでは、失脚する事も少なくない。軍組織もまた政争の舞台の一つなのだ。

 最期かも知れないという思いを互いに抱くが、二人は立場上それを口に出す事はできない。

「……致し方ありませんな。御武運を」

 敬礼を以てブルガーエフが万感の思いを振り切る。

 苦労ばかりかけてきたブルガーエフに本音の一つすら言えない現状に、リディアは無言で外套(マント)を翻す。それしかできない。

「なに、勝てばいいのざ、爺や……いや、参謀長」

 未だ戦力比では優位なのだ。

 指揮系統が各所で寸断されても尚、総兵力では未だ帝国軍が圧倒的優位にある。

 己の武名のみがこれを救うと信じて。

 彼女は天幕から肌寒い外へと進み出た。

 

 

 

 

 

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「十分な食べ物が無くなると、人々は飢餓で死ぬ。半分は死んだ方が良い。 そうすれば、残りの半分は腹一杯食えるからだ」

               《中華人民共和国》 中央委員会主席 毛沢東



 決断力欠ける人々がいかに真面目に協議しようとも、そこから出てくる結論は、常に曖昧でそれ故に常に役立たないものである。また優柔不断さに劣らず、長時間の討議の末の遅すぎる結論も同じく有害である事に変わりない。

               《花都(フィレンツェ)共和国》 外交官 ニコロ・マキアヴェッリ