<<<前話  次話>>>

 

 

第二三六話    ミナス平原会戦 五

 

 




「淑女に血化粧は似合わぬだろうに……罪深い事だ」

 〈プリンツ・ベルゲン〉の作戦室でシュタイエルハウゼンは報告書をぞんざいに机上に投げ置く。

 〈大洋艦隊〉の一部は海軍〈聨合艦隊〉と共に大星洋上での艦隊決戦を終え、今は帝国東部沿岸の海軍基地などを艦砲射撃で破壊しつつ帰路についている。

 航空母艦〈モルゲンシュテルン〉からは中型攻撃騎……中攻の派遣を要請する通信も届いていた。海上で受け取り、搭載騎として運用するという思惑をシュタ イエルハウゼンは拒否した。航続距離に余裕がない距離で、挙句に中型騎を航空母艦に着艦させるなどというのは投機的に過ぎた。皇州同盟軍の中攻による編制 の基地航空隊は洋上航法が不得手である上に、着艦などの訓練はしていない。シュットガルト湖に侵入した敵艦隊に対する雷爆同時攻撃に特化した運用を想定し ていたのだ。

 垂直着艦も不可能ではないが、非武装と非装備が前提である。それでは再出撃などできない。さりとて〈モルゲンシュテルン〉には中攻用の航空装備を搭載していなかった。

 ――ベルクヴァイン提督の敢闘精神を期待してだろうが、優秀な参謀を付けるべきだろう。

 能力的に可能であるから実施できるとは限らない。それを勘案するのが参謀という立場の将校なのだ。それが成されないという事は、艦隊司令官に押し切られたと見るべきである。

 皇国海軍所属の〈ラウテンバッハ〉型病院船三隻と皇州同盟軍の揚陸艦と輸送艦……計一六隻の船団の投影された姿を見やると溜息を一つ。

 紫煙の満ちた作戦室には何処か弛緩した気配が漂っている。

 任務が後方の洋上での病人警護ともなれば致し方ないものがある。

 世界的に見ても極めて攻め難い内海と言えるシュットガルト湖の軍港で、敵は陸軍大国の帝国である。加えて海軍と皇州同盟軍の艦隊が大星洋上で艦隊決戦を行い、帝国東部沿岸の海軍基地に艦砲射撃まで行っていた。

 攻撃を受ける可能性は低い。帝国に彼らを攻撃できる兵器や部隊は存在しないのだ。

 だからこそトウカはシュットガルト湖に艦内容積に優れた船舶を係留し、臨時の野戦病院とする命令を下した。他地方の病院へと後送する距離を踏まえれば妥当な提案であり、情報漏洩の可能性も低減できる。間諜の侵入も制限できた。

 何より、各地の病院に分散するよりも物資と人員の供給が容易である。市街地と違い負傷者を航空輸送で送り届ける事もできる。輸送艦や揚陸艦には鋼板で簡易的な飛行甲板が設置されていた。装備や収納が必要でない以上、昇降機(エレベーター)や整備員は不要であり、重量物と言える兵装も搭載しない。よって、飛行甲板自体も然したる全長は必要なかった。

 無論、フェルゼンの軍港に係留されている以上、陸上の飛行場も転用可能である。収容手段の多角化は負傷者の急激な増大を想定しているからに他ならない。

 無論、非常時には出航してシュットガルト湖中央へと後退する事も想定している。

「特に重篤な者は中央地域の病院に後送しているらしいが、此方に流れている負傷者数を踏まえれば向こうも大凡の数が想定できる……らしい」

 シュタイエルハウゼンは典型的な水上勤務者……艦艇乗員一筋である為に陸軍の判断基準や評定に疎いが、精肉所に運ばれる家畜の如く搬入される負傷者の光景は諸々の軍事理論よりも明確な現実を教えてくれる。

「しかし、負傷者の寝台が足りぬと食堂の机を引き剥がされたのは困りものですぞ」戦務参謀が肩を竦める。

 旗艦である〈プリンツ・ベルゲン〉も可能な限り負傷者を受け入れている。元は洋上の総司令部として建造され、マリアベルの座乗や政務機能移転も前提としていた。艦後部には巨大な箱型上部構造物が占めていおり、極めて有力な積載能力を持つ。

「さて、かく言う我らも追い出された訳だが……海の男が艦上でも肩身の狭い思いをせねばならんとはな」

 海の男も女の前では形無しである。無論、それは寄港地の娼館の門前で引っ叩かれる水兵を見れば否でも理解できる事実である。シュタイエルハウゼン自身にもそうした経験はあった。元より女性の扱いを得意としていた訳ではない。

 ――まぁ、ヴァレンシュタインの小僧は引っ叩かれる事も含めて楽しんでいる様だが。

 曰く、怒るという事はそれだけ物事に真剣になっているという事らしい。そこに勝機があるとみるのがヴェルテンベルク男児なのだ。微妙に内戦の経緯にも当て嵌まる言葉であり、シュタイエルハウゼンとしては妙な納得を覚えた記憶がある。

 彼らは艦後部を占有する箱型上部構造物……艦橋に放熱板や探照灯の背後から艦尾の射出機(カタパルト)付近まで続く巨大な構造物の根元の一室に居た。作戦室として使用されている部屋であり、他は負傷者の措置に使用されている。

「寝台が足りぬのは分かりますが、燃焼する木材を運び込むのは勘弁願いたい……」防備参謀が嘆く。

 艦艇の被害統制(ダメージコントロール)を司る男の言葉に、シュタイエルハウゼンは何とも言えない表情をするしかない。最終的な決定はシュタイエルハウゼンが下した。艦隊が攻撃を受ける可能性が低い事に加えて、軍港の船渠(ドック)で修理と改修が続いている〈剣聖ヴァルトハイム〉型戦艦二隻が最大の攻撃目標になるであろうという目算からである。決して看護長が怖かったからではない。トウカの最大限の協力を行えという命令の範疇であると解釈したからに過ぎない。

「だが、天狐共が積極的に参加するとは意外な事です」砲術参謀が頭を掻く。

 同意の声が艦隊司令部内に幾つも響く。内心ではシュタイエルハウゼンも同様であったが口には出さない。狐は耳が良いと知るからであった。

 元来、狐とは臆病な生物である。

 狐系種族も全般的に魔導資質に優れた種族であるが、その臆病故に軍では大部分が衛生科か魔導砲兵科、通信科に所属しておりその数自体も少ない。近類種とされる狼系種族が好戦的であり、戦闘兵種の一翼を担う点とは対照的である。

「あの仔狐が焚き付けたらしいな。戦場に出ないなら、せめて負傷者の看護には参加しろと叱ったそうだ」

 そうした経緯が流布しているのは事実であるが、シュタイエルハウゼンは些か作為的なものを感じた。マイカゼの暗躍とも取れるが、マリアベルの崩御に伴う混乱の際のミユキを知るシュタイエルハウゼンとしては、或いはとも思えた。

「それは……政治ですなぁ」水雷参謀が苦笑する。

 見る者が見ればそうなるが、実際のところトウカの差し金である可能性も否定できない。ミユキの箔付けを望むのは何もマイカゼだけではないのだ。

 紫煙交じりの溜息が艦隊司令部の各所で聞こえる。

 戦時下でも政治に巻き込まれる不幸を嘆いての事であるのは疑いない。無論、政治を行いつつも軍事で勝利し続けるトウカに対する不満は上がらない。寧ろ、 政治を押さえ付けて予算を獲得する総指揮官は歓迎すべき存在である。政治家からみれば軍人が指導者をする軍閥などは悪夢でしかないだろうが、軍人の不満と 政治家の怠惰ゆえに成立した組織が皇州同盟という軍閥なのだ。

 そこで、作戦室の扉が力強く開け放たれる。

「おじさん達、手伝ってください!」

 純白の衛生科第二種軍装を纏うミユキが作戦室に乱入してくる。

 血染めの軍装には妙な迫力があるが、怯える艦隊司令部要員を無視して、ミユキはのしのしと壁際に移動して窓を手当たり次第に開け始める。煙草の煙がお気に召さないらしく、毛が落ちぬ様に白布で巻かれた尻尾が揺れていた。

御嬢さん(フロイライン)、一体何を手伝えと言うのかな?」

 艦隊司令部まで医療看護に動員した場合、艦隊運用に支障が出る。艤装前の特殊建造物の如き扱いを受けるのは屈辱の極みである。例え、負傷者の増大に合わ せて次々と輸送船や揚陸艦が集結している状況では艦隊行動など容易ではない状況であっても。船舶間の人員と物資の輸送の為、かなりの数の内火艇が行き来し ている。艦隊行動など不可能な状況であった。

 挙句に〈プリンツ・ベルゲン〉などは艦首側に背負い式に搭載している筈の三連装二〇㎝砲が未搭載である。水雷兵装は元より艦の役割から搭載されていない。内戦時に搭載された高射砲が防弾用の土嚢と共に搭載されているが、急転舵を行えば振り落としかねない代物である。

 どの道、艦隊運動など望むべくもなく、戦闘艦艇は軒並みシュットガルト運河付近の哨戒に投入されている。最早、〈大洋艦隊〉にとっての本土決戦は終わったに等しいのだ。

「良かろう……忠勇無双の参謀諸君、行ってき(たま)え」

「え、おじさんも手伝うんですよ?」

 ミユキに手を引かれるシュタイエルハウゼン。

 参謀連中はシュタイエルハウゼンを助けない。参謀達は指揮官も道連れにする心算である。敵も味方も道連れという感性が実にヴェルテンベルク出身の軍人らしい。

 当然に様に参謀達だけを派遣して終わらせようと目論んだシュタイエルハウゼンだが無邪気な仔狐は根こそぎ動員を御所望であった。

 そこでシュタイエルハウゼンは気付く。


 天狐達を看護に動員したのは紛れもなくミユキの意思である、と。


 戦争は誰しもが変わらざるを得ないだけの衝撃を伴って、皇国を覆い尽そうとしていた。









「やってくれる……そうだな。それが正しい。恵まれた国だよ、皇国は」ユーリネンは乾いた笑声を零す。

 化学兵器の投射に対し、総攻撃が加えられると思えば皇国軍は姿すら見せなかった。化学兵器による混乱を最小限に留めつつ、砲兵隊の準備と浸透させた斥候による敵情把握は酷く時間を要した。

 砲兵は泥濘に足を取られて陣地転換に時間を要し、樹海に浸透した斥候兵は敵を発見できずに必要以上の浸透を強いられた。脚力に秀でた黒犬種の兵士による斥候は、驚くべき速度で浸透したが、敵を捕捉したのはフェルゼン南方である。

 斥候兵が紐を括り付けた通信筒を針葉樹の天頂部から偵察騎の翼に引っ掛けるという無理を押し通して伝達されたそれは今後の方針を左右するものであった。

 元より偵察騎が通信筒を投げ落として伝達する手段は周辺諸国でも珍しくないが、ユーリネンは逆に通信筒を飛行する偵察騎に手渡す手段を構築した。

 全高のある建造物や植生を二カ所利用し、その双方の天頂部より紐を空中に張る。その紐の端には通信筒を付け、偵察騎は低空飛行でその紐を翼で引っ掛ける事で回収。

当然、極めて難易度の高い方法である。有翼種が居ない帝国に於ける情報伝達手段として、ユーリネンが考案した苦肉の策であった。

 ――樹海で無理をした斥候の挺身に報いたいところである……

 樹海などという視認性の悪い地形で偵察騎に位置把握させる以上、信号弾を打ち上げたと想像できる。樹海とはいえ、敵の迫撃を受ける危険性は大いにあった はずである。偵察軍狼兵ともなれば樹海であれ追撃戦を行える可能性もあった。実際戦場で跳ねる以上、悪路の疾走程度など容易いというユーリネンの推測は正 しい。

 しかし、ユーリネンから受けた恩義を返すという名目で情報を過度に求めた斥候が、〈ヴェルテンベルク統合打撃軍〉の哨戒部隊と交戦している事までは予測できなかった。

 ザムエルはこの時、ユーリネンとその隷下の〈第二六四狙撃師団〉を極少数残して殲滅すべきであると明確に敵視し始めていた。同胞奪還の大義名分は必要で あるが、師団規模で皇国侵攻に参加したという事実は殺戮を以て押し潰すべきだと考えていたのだ。望まずに侵攻に参加した極少数を“保護”したという筋書き に留める心算であった。

 かくて事実は戦火に押し潰される。

 だが、二人の対決は暫し後となる。

「迫撃は間に合いませんね」リーリャが眉を顰める。

 通常の歩兵師団であっても皇国と帝国では移動速度に差がある。膂力に優れた種族や混血種が歩兵科に多いという点もあるが、機械化率の違いが最大の理由である。予算削減の都合上、少数戦力を効率的に運用せざるを得ない皇国軍は魔導車輌による兵員輸送に熱心であった。

 対する帝国軍の大部分は徒歩に他ならない。予算不足に加え、人海戦術を基本戦略とする以上、それら全てを機械化することは現実的ではない。大軍を維持す る為の予算は機械化の予算を食い潰して久しい。多方面に戦線を抱える都合上、元より多数の兵力を必要としたという事情もある。

「一部の歩兵はシュットガルト湖畔に沿って小型船で移動しているそうだ。話にならない」

 追い付けるはずもなかった。

 ユーリネンは皇国軍とはいえ機械化率が完全ではないと理解しており、それを補う為の小型船であろうと見ていた。

 大型艦で輸送しない事から港湾施設のない地点への上陸を意図しているとも推測できる。東部地域の港ではなく、比較的近い位置に揚陸して合流する事は疑い ない。その場合、目的は〈南部鎮定軍〉の退路を断つものと推測された。重装備の歩兵を設備のない位置から揚陸させる危険性を冒しての行動とという事は時間 制限のある軍事行動という事になる。それは現在行われている決戦以外にない。

「我々の任務は、敵軍がフェルゼンを攻撃発起地点として輜重線を脅かす事を阻止する事に他ならない。そして、設定された戦域はヴェルテンベルクとエルゼリアだ」

 フェルゼンから皇国南部中央の街道を直撃するという想定の下で〈南部鎮定軍〉司令部は、ユーリネン隷下の〈第二六四狙撃師団〉を始めとした各師団を後方に配置していた。主任務は輜重線の保全と維持に他ならず、敵野戦軍が進出した際のみ迎撃を行うと想定されていた。

 しかし、フェルゼンより進発した敵軍……皇州同盟軍〈ヴェルテンベルク軍〉と二個装甲師団、皇国陸軍の複数師団による集成軍団である〈ヴェルテンベルク統合打撃軍〉は、輜重線っではなく〈南部鎮定軍〉後背への進出を前提にした進路を取っている。

「……現在、湖畔に沿って移動しつつある敵軍は管轄外であると強弁できると?」

 現地で鹵獲した地図を睨むリーリャだが、彼女自身も追撃は無理であると理解しているのか保身を前提とした提案を口にする。ユーリネンはそれに気のない返事を返すしかない。

 最終的には二個装甲師団に一翼突破された挙句に砲兵陣地を蹂躙され、壊乱すると見ていたのだ。相応の出血は強いる自信があったものの、対戦車装備に乏しい辺境軍主体であり、元より正規軍であったのはアレクセイエフとアンドロポフが師団長を務める二個師団に過ぎない。

 ――いや、待て。司令部はなぜ決戦を前にして後方を有力部隊で固める?

 精鋭と呼んで差し支えない二個師団をリディアが後方に回した点にユーリネンは驚きを隠せなかった。決戦に赴く司令官の心情として前線に精鋭部隊を配置したい、或いは予備兵力として司令部直属として扱いたい筈である。

 ――撤退を前提にしているのか?

 撤退が始まれば最も突出した前線部隊が後衛戦闘を行いながら後退せねばならないが、前線での消耗に耐え切れずに撤退するのが通例である以上、撤退戦の後 衛……殿軍は全滅する可能性が高い。無論、全滅するのであれば救いはあるが、殿軍の壊滅は敵の迫撃の成功を意味する場合が多い。

 ――途中で我々が殿軍と交代するならば……

 全滅は避けられない。

 ユーリネンは険しい表情で野戦机の戦域図を見下ろす。

 〈南部鎮定軍〉が航空攻撃の前に大被害を蒙りつつあった。伝達誤差を踏まえると被害は更に拡大している筈である。

「リーリャ、付近の各師団に要請だ。街道周辺に陣地敷設を行う! 急げ! 目的は遅滞防御! それで分かる筈だ! 分からない連中は捨て置け!」

 何もせずに撤退ともなれば、進退に関わるだけでなく銃殺刑の恐れもある。敗戦時の戦犯は理屈と理論によって指定される訳ではないと、ユーリネンはよく理解していた。特に帝国では政治と貴族が関わるので一層と悲惨な事となる。

 ――せめて自動砲があれば遅滞防御も容易になるのだが……

 帝国陸軍に於ける対戦車、対装虎兵、対軍狼兵戦闘で主力を成すのは自動砲と呼ばれる大口径機関砲弾を運用する速射砲である。機関砲を可能な限り軽量化 し、長砲身化したものであった。軽量で陣地転換が容易な点と、視認性の低い点が戦線部隊には好まれている。三〇㎜砲弾は人間種でも比較的容易に扱える為、 再装填に時間を取られず速射性の低下も少ない。湾曲した弾倉を上面に配置している事で交換も容易である。

 しかし、生産が追い付いていない事から、陸軍の一部にしか未だ供給されていない。親衛軍であれば配備されているが、辺境軍ともなれば地元の魔導士による魔導砲撃に頼らざるを得ない。当然、速射性は魔導資質に依存する。

「陣地戦だ。丁度いい。樹海の木を伐り出せ! 歩兵も周辺警戒は一個中隊でいい! 街道沿いでの遅滞防御を前提に陣地構築だ! 急げ!」

 ユーリネンは後方地域の治安維持という任務に、部下が派手に死ぬ事もないと胸中で安堵していたが、リディアが相応に使える複数の師団を後方に配置した意 味を軽視していた。否、陸軍部隊がフェルゼンに上陸するという事態に、後方を脅かされる事を懸念していたと錯覚してっしまったのだ。

 必然か。或いは偶然か。

 後方であるにも関わらず、ユーリネンは軍神が掲げる死神の鎌を幻視した。


「気付いたか、小僧。……あの姫様、中々の戦巧者だぞ」


 天幕内に大股で現れたアンドロポフが、鉄帽を脱ぎながら唸るような声音で吐き捨てる。

 無秩序な口鬚を蓄えたアンドロポフは大熊の如き威容であるが、意外な事にその外観とは裏腹に防衛戦の名手として名高い。遅滞防御ともなれば無類の粘り強さを発揮する人物である。

「運が良ければ閣下の出番かと。紛れもなく。いえ、残念ながらと言うべきでしょうか?」

 ユーリネンとしては、少なくとも相応の戦果を用意するか、撤退に於ける活躍なくして失脚の回避は有り得ないと見ていた。

 凶暴なまでの戦意を湛えた瞳を振り翳すアンドロポフに丸投げしたいところであるが、帰還時にそのまま断頭台という流れを避けるには相応の活躍をせねばならなかった。帝国主義国家の悲哀である。

「まぁ、後退戦はそう簡単では有りませんが、エルゼリアに先鋒が近付く時期も早くて五日後辺りになるかと」

 後退には時間を要する。野砲などの重装備を放棄しても尚、相応の時間は必要である事に変わりはない。問題は追撃の主体となるであろう軍狼兵部隊と、迂回 機動を採っているザムエル隷下の〈ヴェルテンベルク統合打撃軍〉である。〈南部鎮定軍〉主力の後退を遮断しに掛かられた場合、阻止行動に出ねばならない。 それは酷く荷が重い。機動力で劣る以上、位置と時間の選択という主導権は常に相手が保持するのだ。無論、撤退である以上、相手の目標は迫撃であり、行動を 読む事は不可能ではない。

 壊乱した兵士というのは容易に移動できる地形を選択して移動しがちである。より遠くへ逃れようとするからこそ安定した経路で移動するのだ。無論、相手もそれを読み、迫撃を行う。よって街道周辺での後退戦となる事は疑いない。

 ――目端の利く連中は少数で人気のない地形を選んで後退するだろうが……

 嗅覚に優れる軍狼兵の追跡があった場合は逃れ得ないが、広域索敵ともなれば軍狼兵部隊も小隊や分隊規模にまで分散する。部分的な逆撃を以て退ける事は不可能ではない。敗北の中で隷下将兵の戦意を維持できているならば、であるが。

「ドラッヘンフェルス高地での後衛戦闘が最善かと」

「妥当だろう……既に他の師団には声を掛けている。砲兵は優先して持ち込む」

 最悪、〈南部鎮定軍〉主力は、ドラッヘンフェルス高地までは自助努力で後退を実現して貰わねばならない。

 ドラッヘンフェルス高地には皇国軍が放棄した野戦陣地が存在する。南方ではなく北方に対する備えとして構築されているが、改修次第で相応の抵抗陣地とする事は難しくない。少なくとも普通の高地でしかない状況からの野戦陣地構築よりは構築時間を短縮できる。

「知ってるか? 鉄道部の連中がエルゼリアの手前まで軽便鉄道を敷いているらしいぞ」

「……嫌な事を仰りますね」

 ユーリネンはアンドロポフの思惑を察して溜息を一つ。リーリャの揺れる尻尾を横目に、越権行為が英断として扱われるであろうか、と溜息を一つ。

 大熊の如き身形の割に目端の利く師団長という酷く違和感のあるアンドロポフであるが、ユーリネンとしては「ここは俺の独断で指示しておいた」という言葉を望んでいた。

 アンドロポフやアレクセイエフという名将と呼んでも差し支えない人物が指揮する師団も存在する中で、何故かユーリネンが曖昧な儘に主導権を獲得……押し付けられていた。

 北部占領地域の後方全体の治安維持には合計で一八個師団が展開している。保持する地域が広大である以上、中隊規模で分散しているが、終結させれば相応の 戦力となる。何より速成訓練による急造師団ではなく、全てが帝国陸軍に於ける平均的な歩兵師団であった。無論、それは急造師団であれば、分散配置した場 合、逃亡者が続出するとの判断からであった。督戦隊を運用して長い帝国陸軍はその点を良く弁えていた。消耗前提の部隊は集中運用せねば容易く壊乱する。数 という要素こそが雑兵を困難に在って踏み留まらせるのだ。

 ――負ければ主導権を持つ者が槍玉に挙げられる。困った事だ。

 その癖、指揮系統の上ではユーリネンは彼らと同じ師団長でしかなく、つまりは要請はできても命令はできない。彼らの上位にはないのだ。端的に言えば貧乏 籤である。一番年若い師団長であるユーリネンに後方地域の部隊運用の責任が収斂する様は傍目に見ても芸術的ですらあった。無論、当事者のユーリネンは、こ こぞとばかりに最悪の状況下となった場合に責任を押し付ける相手を見つけたとばかりに喜ぶ各師団長を罵倒したい心境であったが、曖昧でありながらも主導権 だけは確保できた。

 一八個師団の全師団長から曖昧な儘に祭り上げられるというのは不愉快であるが、少なくとも統一した計画の下で動ける点は大きい。壊乱して後退する友軍に巻き込まれて指揮統率が手の内から転がり落ちるという真似だけは避けねばならない。

 ――最悪の筋書きは皇国軍の一部がエルライン要塞を奪還する事だが……

 流石に迂回するにしても距離があり過ぎる為、現実的ではないが、もしも帰路が封鎖されたとなれば、補給を完全に絶たれて降伏するしかない。当然、〈南部鎮定軍〉司令部もそれを理解して、エルライン回廊には五個師団を駐留させており少数で奪還する事は不可能である。

「まぁ、勝っていれば問題はないのです」

「阿呆みたいな数の航空騎に猛爆撃を受ける中、後背に戦力を差し向けられても尚、勝利に手が届くと?」

 アンドロポフの言葉にユーリネンは答えない。

 潤沢な兵力があるとはいえ、相手もそれに劣らぬ航空兵力を保有している。この状況で航空部隊を全力投入するという点を見ても誘い込まれたのは明白であるが、それは〈南部鎮定軍〉司令部はおろか陸軍総司令部も承知している案件であった。

 しかし、これほどまでベルゲンに迫れば兵力差で押し込めると、当初のユーリネンは見ていた。今では皇国軍がそう思わせる事で誘引したのだと理解できる が、決戦が始まった今となっては、ベルゲンに迫って混戦に持ち込む以外に航空攻撃を中断させる以外にない。或いは、航空部隊の策源地である航空基地を叩く しかないが、これは元より一つであるとは限らないので確実性に乏しい。

「……最悪の状況に備えましょう。伝令用の騎体があります。戦況を偵察させます」

「おいおい、撃墜されるだけだぞ?」

「何も馬鹿正直に送り出す真似はしませんよ。皇国軍塗装を施して、彼らの編隊を真似させるんですよ。何せ、友軍に真面(まとも)な要撃騎もない状況では誤認されても撃墜される事もないので」

 帝国軍の航空部隊は三騎編隊を基本としているが、皇国軍は二騎編隊(ロッテ)四騎編隊(シュヴァルム)を基本としている。騎体塗装と編隊まで模倣すれば、航空攻撃を行っている航空騎数を踏まえても露呈するとは考え難い。

 無論、常に数千という数が蒼空を支配している訳ではないが、相応の数が戦域を支配している点には変わりはない。航空騎間で完全に意思疎通を図れているとも思えなかった。紛れる事は不可能ではない。

「主力の後退をいち早く察知する必要があります。部下を一人でも多く生かして帰る為にも」

「……御前、望んで貧乏籤を引くのか?」

 胡乱な瞳のアンドロポフ。濁った瞳の大熊というのは妙な愛嬌があるが、リーリャを一瞥した意味を察してユーリネンは苦笑するしかない。

 ユーリネンはリーリャを抱き寄せて朗々と応じる。

「その貧乏籤を生き甲斐としているものでして」

 外征によって成果を上げた者に対する厚遇は帝国内では有名である。だからこそ平民や食い詰め貧乏貴族は、確率的に戦果を上げやすい陸軍へ殺到する。ユーリネンに関しては辺境軍であり、陸軍からすると辺境警備の為の外局に等しい。

 陸軍士官学校を出て新任少尉として人海戦術の一翼を担って磨り潰されるより、各貴族領毎に編制される辺境軍で相応の部隊の指揮官となり、機会を窺う事がより安全であり効果的であるという、ユーリネンの判断は正しかった。

 帝国は崩壊しつつある。

 外征の連続に国家が耐え切れず、統治機構が悲鳴を上げているのだ。

 無論、その皺寄せは統治機構の一部たる陸軍にも押し寄せた。

 人海戦術という人件費と食糧費が掛かる戦闘教義を採用した帝国陸軍は、常態的に過大な兵力を抱えている。減少する予算の中、食い詰めた志願兵達の人件費 と食糧費が予算に占める割合は増大する事になった。兵員確保の為、人件費と食糧費を削る事ができない以上、相対的に他の予算が削減される事になる。戦場の 神として大陸随一の規模を誇っていた砲兵隊や新設兵科の機甲科が、その被害を正面から受ける事となった。

 行き着く先は帝国陸軍の弱体化である。

 二一年前のエルライン回廊攻防戦に於ける火力戦で、帝国陸軍砲兵隊が打ち負けた衝撃は多大なるものがあった。事前準備を十分に行った布陣での対砲迫射撃で帝国陸軍砲兵隊が敗北を喫するという事実への対応こそがユーリネンの辺境軍入隊を決意させた。

 備蓄砲弾増強の為、砲兵隊の装薬に黒色火薬や褐色火薬を混ぜ始めたのだ。

 運用時に大量の火薬滓と白煙が生じるそれらの運用は帝国陸軍の凋落を想起させた。初速や威力の低下にも直結する為である。

 ユーリネンは遠くない将来、帝国陸軍が外征能力を喪失すると見ていた。

 その時、辺境軍が活躍せざるを得ない状況に追い遣られると考えていた。その中で獣人系種族主体とした部隊を以て良く抗戦する事で、帝国内の獣人系種族の 地位向上を画策している。無論、それは長い目で見た話であり、短期的には自領に獣人系種族を帝国内から集める事を黙認させる事にあった。

「結構な事だ。成したい事がある者は常人には叶わぬ無理ができる」

 アンドロポフの染み入るかの様な言葉は、実体験の伴う事象を窺わせる。ユーリネンは訊ねる真似をしない。帝国という国家は己の意思が奈辺にあるか軽々に嘯く事が赦されない国家なのだ。

 傷らだけの大熊の賞賛はあれども、実情としては予想と違った形でユーリネンは活躍を強要されつつある。

 帝国は陸軍の弱体化を知りながらも皇国侵攻を強行した。否、知っても尚、弱体化を認められなかったのかも知れない。軍事的事実よりも感情的虚構が優越したのだ。そうユーリネンは考えていたが、実際は相応の事情がある。

 帝国上層部の食糧不足による革命沙汰への危機感を、ユーリネンは理解していなかった。

 辺境軍所属〈第二六四狙撃師団〉は、一般的に辺境軍の例に漏れず部隊編制と維持費用の半分を出す貴族領を策源地とする郷土軍である。各貴族の領邦軍に対 する指揮権への干渉を目的とした辺境軍成立であるが、国家が費用の半数を負担するという点から一貴族のみで編制するよりも規模を拡充できる為、採用してい る貴族は多い。特に軍事予算に圧迫される事を望まない地方貴族は顕著であり、門閥貴族の中にも叛意を見せず赤心を示すという意図で辺境軍を主体としている 例もある。

 つまり、辺境軍隷下の部隊の大部分は辺境を策源地としている。

 屯田兵に片足を突っ込む部隊もある辺境軍であるが、〈第二六四狙撃師団〉の策源地であるユーリネン子爵領ドヴィナは帝国東部の沿岸地帯に位置する。寒冷地帯ながらも海流の経路に近く、海洋資源に恵まれた領地として、魚介類を加工して帝国内に流通させていた。馴鹿(トナカイ)などの畜産にも力を入れており、食糧生産の多角化を進めている。よって帝国に在って珍しい高い食糧自給率を誇る領地であった。そこには歴代ユーリネン子爵の努力と苦労もあるが、狩猟や畜産に優れ、膂力でも人間種に優れる獣人系種族の協力に負うところも大きかった。

 ユーリネン自身、他の領地の食糧不足は理解していたが、慢性的なものとして思考を巡らせる事はなかった。他貴族の領地運営に口を挟む余裕がなかった事も あるが、ユーリネン子爵領は子爵としては過大な土地面積を持つが、人口や工業力は相応である。他貴族に影響力を発揮できる程ではない。噂を聞きつけて移住 してきた獣人系種族への対応に苦慮していた事も大きい。他貴族の領地運営を気に掛ける余裕などなかった。

「苦労ついでにどうだ? 正式に我々の上に立ってはみんか?」

 アンドロポフが苦笑交じりに折り畳まれた書類を野戦机の地図上に投げ置く。

 紙質と窺える書体から帝国陸軍の封緘書類であると察せるそれを手に取ったユーリネンは、口元を引き締めてアンドロポフへ視線を上げる。

 傷だらけの大熊が片端の口角を吊り上げた。蛮族である。

「〈南部鎮定軍〉司令部のブルガーエフ中将の命令だ。後方一八個師団を統率して〈グローズヌイ軍集団〉を編制。後方の安定と戦力保持を最優先として軍事行動を起こせ、との事だ」

「それは……」

 有り得るのか。その意図するところは何か?

 ユーリネンの思案を他所にアンドロポフが笑う。その仕草だけで〈南部鎮定軍〉司令部内での経緯を把握していないと察したユーリネンは顔を顰めた。

「まぁ、難しい話はアレクセイエフに任せる……おい」


「…………老人を寒空の下に放置するのはどうかと思うね」


 天幕に悠然と立ち入るアレクセイエフ。

 片眼鏡(モノクル)越しに垣間見える知性は相も変わらずであるが、大層と立派な皇帝(カイゼル)髭は寒さに震えている。一緒に天幕に訪れず、天幕前で待ち構えていたであろう光景に、ユーリネンは首を傾げた。

 気配に鋭敏なリーリャの驚き様を見るに、副官の魔導将校が魔術的な気配遮蔽を行うという隠蔽までする程のなにかが天幕内に在った訳ではない。

「そこの人語を解する熊が待てと言うのだ」

「御前が居ると詰まらん勘繰りをされるだろうが」

 アンドロポフとアレクセイエフの会話に、ユーリネンは首を傾げた。アレクセイエフが政略に富んだ謀を弄する人物であるという評判は寡聞にして聞かない。

「いや、御前みたいな()かした伊達男が居ると真っ当な奴なら疑うだろう?」

「風評被害だね。全く……」

 アンドロポフなりの配慮の結果として犠牲になったアレクセイエフに、ユーリネンは同情するしかないが、純粋に師団長として言葉を交わすならば、確かに一 対一である意義は大きい。相手が複数の師団長であった場合、配慮せざるを得ない場面や発言も生じる。ユーリネンが予備軍とも言える辺境軍で、アンドロポフ とアレクセイエフが正規軍と言える陸軍である点も大きい。

 強ち間違った配慮と言えなくもないが、アンドロポフの言い様を見るに偶然であった。

「しかし、陸軍の師団長を差し置いて辺境軍の師団長が軍集団指揮官……ですか? しかも、グローズヌイとは……政治ですよ?」

 それも高度に政治的な案件であると、ユーリネンは確信していた。

 グローズヌイとは帝姫の一人であるエカテリーナの出身である旧《エカテリンブルク王国》の王族の姓である。侵攻作戦に投じられている部隊に付ける名前としては政治を感じざるを得なかった。

「御二人が上申された訳ではなく?」ユーリネンは二人の言葉から低いと見た可能性を敢えて口にする。

「御伺いは立てたさ。敵軍の迂回突破に備えて、後方の指揮系統の一本化はしないのか、という程度のものだが」アレクセイエフが皮肉気に吐き捨てる。

 政治的意図が後から突如として現れた不愉快と不安を隠さない姿に、大学教授の如き外観通りの気質ではない事を窺わせた。思慮深く思える佇まいとは裏腹に上級司令部が鼻白む程の攻勢を得意とする人物らしいとも取れる。

「まぁ、他の師団長共も喜んでいたぞ。辺境軍の連中も中々どうして鼻が利く。ここが命の賭け処と見たらしい」

 撤退命令が出ないまま各所撃破される、或いは師団毎の遅滞防御の末に磨り潰される可能性も捨て切れないならば、集中運用を以て組織的な後衛戦闘に活路を見い出す。実に救いのない消去法であった。

 当然、その判断ができる程度に優秀な辺境軍師団が揃っている点を奇蹟と神々に感謝するか、皇国侵攻に当たって辺境軍から有力な戦力を引き抜くだけの戦術眼を帝国陸軍が未だ有している点に感動するべきか悩むところである。

 政治に巻き込まれる事の多い陸軍部隊の人事編制に対し、辺境軍部隊は出資した貴族の意向が人事に最大限反映される。よって士官学校を卒業した身内が領内を策源地とした部隊の指揮官となるのが通例であった。つまり陸軍以上に能力に基づいた人事ではないのだ。

「挙句に全ての師団長が揃いも揃って東部出身者だ。いやいや、作為を感じざるを得ない」

 アレクセイエフの言葉に、ユーリネンは彼とアンドロポフも東部に所縁のある人物であったのかと眉を跳ね上げる。無論、下級貴族や平民の将官が辺境軍では なく陸軍に進んだ場合、個人の政戦に対する視野のみを以て立身出生する必要性があり、郷土を頼るなどという真似をする例は少ない。よって、ユーリネンも二 人の出自を知らなかった。

 東部出身者が統率する一八個師団を以て軍集団を編制し、グローズヌイの名を冠するという茶番劇に、一体いかなる政治的意図があるのか……ユーリネンには想像も付かない。

 三人は改めて視線を交わす。

 選択肢はない。

「輜重線以外の土地は全て放棄。輜重部隊の輸送内容も糧秣を減らして武器と弾火薬の増やす様に依頼しましょう」

「いきなり越権行為だな。本来ならば許されんが……主力の兵力も相応に目減りしているだろう。表面化はしないか……」

「序でに輜重兵には申し訳ないが、荷馬も徴用すべきだろうね。陣地構築をするにしても、敵の背後を脅かすにしても」

 三人の間で基本方針が策定されるのは一時間後の事であった。

 〈グローズヌイ軍集団〉司令官としてユーリネン。次席指揮官としてアンドロポフが、予備戦力の指揮官としてアレクセイエフが決まり、急造ながらもその弱点を理解した上で彼らは熾烈な後衛戦闘に挑む準備を始めていた。

 英雄とは負け戦でこそ真価を発揮するのだ。

 

 

 

<<<前話  次話>>>