第二二〇話 共和国大統領 前篇
「この国は存亡の危機にあるが、帝国など脅威ではない。激しく争えば争う程に、彼の国の兵士は共和主義に毒されていくだろう。彼はら自滅の道を歩んでいる」
共和主義という思想は極めて感染力の強い思想と言える。隣国の皇国の様に経済と産業を高度に発展させ、長い歴史と確かな伝統に立脚した国家ともなれば、そこには報じるべき主義や矜持が芽生え、容易には揺るがないかも知れない。
しかし、帝国は違う。成立して五〇〇年程度の年若い国家に過ぎなかった。若さゆえの無礼とするには、些か度が過ぎる振る舞いの目立つ帝国だが、それでも尚、稚拙に過ぎる国営は十分に付け入る隙があった。
今となっては、帝国には二人の戦略家が存在し、周辺諸国に烈火の如き攻勢を仕掛けているが、不敗によって弱体化した国家の地力と非効率は隠しようもない。
《ローラン共和国》大統領オーギュスト・バルバストルは、南北挟撃の只中にあっても尚、帝国に対しての敗北はないと見ていた。
「最大の脅威は裁定者が現れた事だ」
白亜の大統領府の最上階、国家指導者の執務室として世界的に知られている一室で、バルバストルは硝子杯の糖酒を傾けながら思索に耽る。
共和国という国家は、一度、崩壊している。否、打ち捨てられたのだ。
彼は伝承を、所詮は過去の幻想と切り捨てる事が赦されない立場にある。事実であると知るが故に。
共和国は一人の英雄によって造られた。表向きは名前すら遺されてはいない深緑の軍装の英雄。異世界の将校であった彼は、政戦両略たる才覚を持って大陸中 央に一大勢力を築き上げた。そして、多種族合議制を前身とした共和制を掲げ、彼は忽ちに大陸中央部を席巻した。当時、航空偵察を可能とした竜騎兵に、打撃
力に優れた装虎兵、浸透突破に秀でた軍狼兵。そして、兵力面で主力となる人間種による諸種族連合編制の概念を持ち込んだ軍勢は、後世の軍編制の方向性を確 定した。組織化された浸透突破や、命令伝達の限界への挑戦に等しい大規模な散兵戦術は、現在のあらゆる軍事学の根幹を成している。
当人は違う政体を渇望していたが、諸種族連携を前提とした政体……共和制を前段階として選択した。
しかし、その試みは早晩に瓦解する。
共和制という政体は多種族、多民族を標榜する国家とは根本的に相容れなかった。種族的に多数派を占める事になる人間種の欲望は止めどなく、挙句に自らが 持ち得ない力を羨望し、妬み、怖れた。結果として起きるのは差別だが、相手は身体能力か魔導資質に優れた種族である場合が殆どであった。
結果として生じるのは、終わりなき流血沙汰による復讐と遺恨の輪廻。それも、止めどない大規模化を伴った結果、軍の主任務が暴徒鎮圧となるほどの狂騒である。
第一共和制は一〇年を経ずして完全な瓦解を見た。当時の共和国……《ヴェルリンギア第一共和国》は短命の内に命数を使い果たした。世界初の民主共和制は、この多種族、多民族が蔓延る世界に於ける議会政治と共和主義に対する至上命題を突き付ける形で。
しかし、彼には義務があった。全体の救済という義務ではない。差別と遺恨に塗れた者達を正すという義務ではなく、尚も自らに続く意思を見せた者達を断じて救済するという義務である。
その結果として“東征”が起こり、《ヴァリスヘイム皇国》が誕生した。
“皇権神授に依る極めて天帝の権限が強い立憲君主制”という主君を頂く形で共和制を否定した彼は正に現実主義者であった。失敗と成功を国家規模で繰り返す残酷なまでの現実主義者だ。
初代天帝に即位した彼は、貴族階級の制定によって力ある各種族を規範や忠誠で縛り、人間種を含めた力なき種族から政治への関心を喪わせ、政治権力行使に於て主体となる層の純化を図った。
感情抑制に劣る人間種を政治分野から徹底的に遠ざけ、形だけの衆議院制度を成立。敢えて不祥事や腐敗の取り締まりを抑え、人間種を幻滅させる事で政治へ の関与や意欲を喪わせた。不祥事と腐敗の続く衆議院と、明確な国益確保と統治機構の保全に尽くす貴族院。その比較によって生じる自らが政治を担うべきでは ないという観念は、後も何千年という歳月を以て植付け続けられたのだ。
高位種、中位種、低位種という言葉もその中で明確化し、法的な明文化を見た。
多種族、多民族国家を維持する上で、人間種を明確に下位に位置付けたのだ。権利と義務は与えども、国政に関する関与は限定的に留める。それも、形だけの平等と道化の為の衆議院としてである。
その時こそが、共和主義とは決定的な決別を見たと、バルバストルは見ている。
無論、当時の《ヴェルリンギア第一共和国》の民衆だった者達は気付かない。気付く余裕などなかった。その国土に遺された大多数の人間種は、俗に言われる “暗黒時代”に直面していたのだ。二〇〇〇年近い停滞と混乱は、群雄割拠の時代を招き、幾多の血が流れた。彼が遺した軍事技術が流血と悲劇を甚大なものと 成さしめた事は歴史の皮肉である。
結論として言えば、民主共和制を提唱した彼は、それを否定して現実的な立憲君主制国家を成立させた。
彼は異邦人ではなく、異邦人だったのだ。
故に《ヴァリスヘイム皇国》の言語では異邦人と呼ばれる所を、《ローラン共和国》の言語である異邦人と呼ばれているのだ。
個人としても、政戦の上でも、他面的な要素を持つが故に、彼を指し示す言葉は多岐に渡る。《アトラス協商国》の重商主義も源流を辿れば、彼の関所を廃し、規制緩和区画を整備したところから始まっている。
大陸の大多数の国家は、彼の試みから分岐したに過ぎず、強いて言うなれば壮大な社会実験の中で、この大陸の者達は生きているとも言える。
民主共和制の提唱者にして初代天帝、重商主義の先駆者。挙句に奴隷制を段階的に排したともされている。
故に、彼を理想主義者とするのが、この大陸での標準的な意見であるが、バルバストルはそう思わない。
「初代天帝は高位種すら本質的には信じては居るまい。彼は総てに失望していたに違いないのだ」一口、糖酒をバルバストルは独語する。
国家指導者となったバルバストルには分かる。人間種という愛しくも思い遣りに溢れた生き物の感情に支配された独善と短慮を。民主共和制を理想と謳うが故に、彼は現実と相対せねばならなかった。否、歴代の共和国大統領の全てがそうであったのだ。
民主共和制国家であるはずの共和国が、その政体の大前提を覆さんばかりに大統領を主体とした政府の中央集権を認めている点は、正にそれを象徴している。長きに渡る帝国との消耗戦が理由の一つであるが、それだけではない。
右翼が国家を裏切り、左翼が国民を裏切った。
その一言に尽きる。
知識人、理論家が左翼の方に惹き付けられる様に、自然、官僚と実際家は右翼に惹かれる。従って右翼は理論に弱く、理念を獲得し得ない事が常に苦の種なのである。左翼の特徴的な弱点は、その理論を実際に移すことができない事にある。
つまり、共に一方が欠けるが故に一定以上の支持を得難いという欠点を内包している。
「詰まるところ、右翼は名誉に固執し、左翼は理想に固執する」
そして、いずれかの主張をする者が国家の大多数を占めても、実際のところ左右どちらに成れども周辺諸国の情勢が合わせて変質する訳ではなく、取り得る選択肢の増減は微々たるものである。よって取り得る選択が大きく変化する事は稀であった。
至る所の歴史が示している様に、左翼の政党乃至政治家は、政権を掌握する事によって現実と接触するようになると、彼らの空論家的理想郷主義を捨てて、右傾する。
理想は常に現実に押し潰される運命にあった。
結論として、理想に挑むという行為は著しく国力と国益を浪費する。論法と方法が違えども、適正に彼らを掣肘し、利用できる指導者が居なければ、主義主張の種類は関係なく消耗が続く。
その事実は、共和国大統領となったものであれば、誰しもが理解する事実である。そして、それを戦時下……非常時で成す為には、民主共和制を逸脱する程の中央集権を必要とせざるを得ない。
挙句に、多種族他民族国家は、それを維持する為、常に非常の時として、非情の決断を求められる。常に非常時なのだ。
民族的差異の混乱ですら国家を分断する中、種族的差異は極最小単位の人間関係すら容易に破壊し得る。自然と神経質と成らざるを得ず、異様なまでの長期的視野と、果断に依って立つ短期的視野を必要とする。
現在の体制が、長命な高位種の大多数にすら定着する程の期間……二〇〇〇年程度の期間は、皇国の政権運営は常に戦時下に等しい緊張を強いられたに違いない。
それを彼は理解していた。人間種はおろか高位種にも……自身にすら次期天帝の選定を任せなかった。
「彼は天帝の選定すら神々へと奉じた……いや、押し付けた」
現実主義、極まれりである。
奴隷制の廃止理由も、経済的に労働のみでしか使用できず、消費と資金の流動に寄与しないというもので、理想に基づくものでは決してなかった。それは、解 放された奴隷を低賃金で辺境開発に投じた事からも分かる。奴隷は低所得者層に転じただけに過ぎないのだ。既存の低所得者層を宥め賺す為、更なる低所得者層
を創出し、その上で元奴隷という新たな低所得者層には、ある程度の自由と権利を与えて支持を取り付ける。反対する少数派を弾圧し、社会的には多数派である 二つの低所得者層を味方に付けるのは、正に選挙を意識する典型的な民主共和制の指導者であった。そこに現実的国益はあれども理想的正義はない。
魔術によって選挙制度が確立されたが故に、多数派は無視し得なくなったのだ。そして、差別が選挙結果に影響を及ぼし、崩壊を見た事もまた皮肉と言えよう。
酒精交じりの声音で、バルバストルは古の偉人の失望と絶望を憂えた。
人間性を感じさせない程の現実主義の末路として、ヒトの政治に対する関与を可能な限り低減させるというならば、ヒトという生き物は、自身の行く末を自らに任せるに値しない生き物であるという事実を証明することになる。
否、皇国の存在自体が、四〇〇〇年を超え、それを世界に証明し続けているのだ。
そこにこそ、バルバストルの終わりなき深憂がある。
複雑な国家関係という次元を超えている。
主義主張を超えて国難に立ち向かうべきであるはずの状況で、共和国と皇国が軍事同盟締結を選択肢に入れていないのは、そうした複雑な関係に根差した理由 がある。気の遠くなる程の世代交代を経て大部分を忘却の淵へと追い遣った共和国の民衆に対し、皇国貴族の高位種は数度の世代交代を経たに過ぎず、未だ過去 を継承しているのだ。
共和国の外交戦略により、皇国衆議院への浸透は盛んに行われているが、皇国衆議院自体が国民の低位種による政治の限界を証明する為の道化なのだ。同盟締結の議論が朝野を満たす要素と成り得る筈もなかった。
共和国外務省は、その辺りを理解していない。表面上の融和に終わっている。無論、もう一つの戦線を抱える真似を避けるべく、融和の演出では無駄ではない為、バルバストルはその努力を否定しない。
しかし、その辺りの判断を彼は誤った。
政治的に信の置けないと皇国臣民が断じた皇国衆議院との融和を図る姿勢を見せる共和国外務省に対する不信感。それは、紛れもなく共和国への静かなる不信 感を招いた。不信感とまでは言わずとも、共和国政治と皇国衆議院を同列に見る一要素となった事は疑いない。その上、共和国の政治腐敗や利権争いも決して少 ない訳ではない。長きに渡る戦争は、道徳心を酷く消耗させ、過度な愛国心の苗床となった。
サクラギ・トウカは、その辺り……低位種の政治に関与するべきではないという感情を正確に感じ取ったと言える。だからこそ、彼は人間種を含めた低位種 に、自身が高位種に優越するという夢を見せた。高位種が優位であるという大前提を覆そうとしたのだ。それは、新たな立場と支持に繋がる。
政治家の重要な仕事の一つは、国民に夢を見させてやる事だ。
だが、その夢は幻想に過ぎない。長命と身体能力から生じる決断力と持久力は、政治面では凄まじい優位性となる。軍事面は言うに及ばずだ。
トウカは、初見の軍事技術と戦闘教義の連続で短期決戦を演出した。それは、長期戦に北部が対応できないという事実が理由の全てではなく、国家の政戦を担う程の高位種が背後に窺える征伐軍に対して意表を突き続けるという奇襲的要素を求めたからであると、バルバストルは睨んでいた。
無数の軍事技術と戦闘教義による奇襲効果を多くの戦闘に加算し続ける為、彼は対応する期間を与える事を厭うたのだ。実際、各地での小競り合いですら、有りもしない兵器や戦術に怯えた征伐軍は後退や壊乱を繰り返していた。
強力な対地攻撃に怯えた将兵は、偵察騎の騎影にすら怯えて塹壕に籠った。
突出部の結成に熱心な敵方の戦況に、存在しない装甲部隊の存在を幻視した。
局地的な装甲部隊の突破を、大規模な背面攻撃と見て後退を繰り返した。
実際、北部統合軍は内戦が終結し、皇州同盟軍となった現時点に在っても、装甲部隊と航空部隊が全軍に占める割合を増大させ続けている状況は、彼らが戦備に対して不足を感じていることの証明である。
内戦時、征伐軍が思う程に装甲部隊も航空部隊も規模は大きくなかったのだ。そして、それを扱う技術もまた洗礼されてはいなかった。装甲部隊の集中運用が ベルゲン強襲に於ける長躯進撃と、シュットガルト湖畔攻防戦に於ける迂回突破以外でなされなかった事がそれを証明している。
彼の戦闘に対する奇襲効果加算の演出は見事の一言に尽きる。
勝利を確実にする為、過度な戦力集中を成して意表を突いた。その上で、それがあくまで全軍が可能であるかの様に喧伝した。結果として、征伐軍将兵は北部 統合軍がそうした能力を有しているという前提の下で戦闘を行った。サクラギ・トウカ不在の局地戦に至るまで奇襲効果加算は行われ、北部統合軍の全戦闘に寄 与したのだ。
ベルゲン強襲後、トウカ隷下の艦隊指揮によるエルシア沖海戦で、奇襲効果加算は海上であっても例外ではない点を示した意義も大きい。史上空前の規模の統 制雷撃は、大方の予想を裏切る程度の命中率だが、それでも運河という限定空間が回避を困難と成さしめ、同時に命中率を補ったと現在では見られている。トウ カは、海洋作戦では不可能と見ていたのに違いない。精々が泊地攻撃が限界であろう。
結果として、海上でも奇襲効果加算は促された事で、皇国西部への奇襲上陸や神州国海軍との連携を阻止するべく、皇国海軍はシュットガルト運河を閉塞し、北部統合軍の現存艦隊主義に付き合わざるを得なくなった。
確かに、それら全てがトウカの才覚で上回ったかの様な錯覚を受けるが、実際は初見の騙し討ちの連続に近いものがある。そして、それはいずれ限界を迎える だろう。無論、彼はその辺りを理解した上で行動しているのは、皇州同盟成立から対帝国戦争の大規模化を意図している事から窺い知れる。皇国が軍事的脅威に 晒されれば晒される程に、彼は必要とされるのだ。
「ふっ、まるで生き写しではないか」可笑しさに肩を震わせるバルバストル。
正にトウカは彼の再来と言える。
ヒトという生き物の可能性を信じず、値踏みし、鉄火で押し潰そうとする生き様の何と現実主義的な事かとすら思える有様は可笑しさすら内包している。狂お しいまでの現実主義は人間性すら欠くが、彼は神々に統治者の選定すら投げ付けた。対するトウカは、神々にすら不審の目を向けている事が、天霊神殿に対する 姿勢に読み取れる。
トウカは誰よりも力の信奉者である。或いは、“日記”に存在が記された終末兵器の運用すら躊躇わないだろう。
バルバストルは執務机の端の小さな引き出しを開けると、年代を感じさせる風合いの古書を取り出す。
「この古ぼけた一冊に共和国の起源が詰まっている……喜劇だな」日記の表紙を撫でるバルバストル。
それは、《ヴェルリンギア第一共和国》を建国した彼の日記である。
極個人的な私物として、共和国の歴史や見解には関与しないそれは、歴代大統領が受け継ぐ残酷な現実の証明である。
彼は、決して民主主義に夢見てなどいないし、期待などしていなかった。
不特定多数の人間の意見が暴走しない様に常に注意を払い、本心では自らの行動によって問題を是正しようという意志を見せない民衆を常に軽蔑していた。
バルバストル自身、民主共和制を理想的な政体であると確信しつつも、それを扱う人間達の完全性を保証する要素がある訳ではないと弁えている。民主共和制国家の大統領となったからこそ、彼は現実に直面し、理想に対しての妥協に迫られた。
「彼の言う通りだ。確かに、共和主義国家など率いるべきではない」
日記に記された遅すぎる忠告が間に合った者など居るはずもないと、バルバストルは苦笑を零して残り少なくなった糖酒を一息に飲み干す。
大衆に仕えるものは、憐れむべき人である。彼は散々苦労した挙句、誰からも感謝されない。
当然であるが、彼は感謝など求めてはいなかった。無論、彼の健気と挺身に依る所ではなく、所詮は政体などというものが統治に於ける方便に過ぎないと割り切っていたに過ぎないからである。
彼は民主共和制を民衆の人気取りの目玉として扱った。
どれほど困難が控えていようとも、表面的に得になりそうなら民衆を説得するのは難しくない。反対に有益な政策でも、表面的に損になりそうな場合は民衆の賛同を得るのは大変困難である。
民衆に権利を与えるという演出を以て利益を錯覚させ、求心力の一要素としたに過ぎない。
「だが、それでも無邪気な民衆は夢見ているのだ。民主共和制の下で繁栄を掴めると」
混乱と王政、独裁制による弾圧から生まれたが故に、彼らは民主主義という主張を曲げはしない。バルバストルも、政治に対する透明性という点に於いて、他の如何なる主義に対しても優位であるという点だけは確信していた。
しかし、それも戦争の激化で確保できなくなりつつある。
そして、専制君主制との何百年にも渡る消耗戦を収束させ得ない共和国は、民衆を弾圧せずとも帝国主義との対決という名目を掲げて搾取を続けている。同じ 搾取が生じるにもかかわらず、悪意や強欲によるものではないからとして看過するのは問題から視線を逸らしているに過ぎない。無能と怠惰によって搾取が生
じ、その搾取の規模が同様であるならば、専制君主制に対して民主共和主義が優位を誇る要素は皆無に等しくなる。
結局のところ、国営とは携わるヒトの質に依存する。近代に提唱された政体の多くは、理念通りに運営できるならば国力は増大し、民衆の生活水準を向上させ得るだけの可能性を秘めている。
だからこそ、近代に於いても尚、ヒトは争うのだ。
世界の国々が一つの政体を選択しないのは、現状の全ての主義が理想に届いてはいない事を示している。少なくとも、人類が神代の戦役を経て尚、その問いに決着を付けられない以上、主義は主義たるを示す為、他の主義を抑圧し、打倒する事を止めはしないだろう。
その状況で、トウカという英雄が現れた。
主義主張ではなく、長期的視野に基づいた利益を以て政体すら変えるであろうトウカは台風の目に成り得るだろう。
「貴方が日記に記された裁定を司る者であるとしても、だ。民主共和制の灯を消す真似をさせはしない」
彼が選択の先にあるナニカこそが基準となるのであれば、共和国は総ての国家に対して優位となるナニカを見せつけねばならない。
「ふむ、もうひと押し、あって然るべきか」
執務机に置いた硝子杯に糖酒を注ぎ、バルバストルは今一度、トウカとの遣り取りを回想した。
トウカとエカテリーナによる航空戦が行われる三晩前の出来事である。
「ミユキ、促成教育課程はどうだ? 付いていけるか?」
トウカは、ミユキが士官学校の衛生魔導士速成教育課程に時折、顔を出している事を知っていた。
衛生魔導士という魔導技術職は軍内でも特に人員の不足が顕著な職種である。衛生兵という医療知識に加え、魔術的な精密作業に耐え得る者でなければならな い。その上、戦時下での負傷者治療という終わりなき戦いに挑まねばならない以上、魔導資質に優れた者である事が好ましいともなれなば適応者は限られる。あ
る程度の条件緩和が成されても尚、医療知識と魔導資質を兼ね備えた衛生魔導士の充足率は低い。これは諸外国の軍でも同様である。寧ろ、皇国軍が一番、充足 率の面で高い水準にあった。
トウカとしては、ミユキに医療知識という時点で気が気ではない。無論、後方勤務枠の多い職種であるのは好ましいが。
魔導資質に優れた者を必要とする兵科は多く、魔導砲兵や空挺魔導士、魔導歩兵などを選択されるよりは余程に上等な選択と言える。医療の失態での死者は、 軍事的に見れば僅少と言える。魔導砲兵中隊の誤射で友軍歩兵中隊が壊乱状態に陥ったという報告を喫緊で受け取ったトウカは気が気ではない。
練度不足の将兵が軍事行動を蝕むのは戦争の常である。そして、軍事分野に於ける失態はと、大抵の場合は派手な数の死者を出す。揉み消せる規模を超える上に、心傷を負う規模と、軍内での信頼を喪う危険も小さくはない。
軍事拠点としても整備されたフェルゼンとは対照的に、シュットガルト湖の島嶼の一つであるロンメル子爵領の領都の置かれた島。その中央を流れる浅く緩やかな小川の畔で二人は夜の帳に身を委ねていた。
満月の夜であるが故に小川の近くに無作為に咲き誇る神州桜華はより繊細な形で垣間見える。フェルゼンの様に整備された壮麗さではない、野生として無遠慮 に咲き誇る様は力強さがあった。忽ちに散り往くとしても尚、力強く在らんとする姿は、成程、ヒトを惹き付けて已まないと思える。
小川の畔の小さな公園で、半ば朽ちつつある長椅子に腰掛けた二人。
背凭れ下部には、丁寧に獣系種族が尻尾 を巻き込んで座らない様に隙間が用意されている。それがなくば、獣人系種族は尻尾を前の膝に抱えて座らねばならない。トウカとしては、寧ろ、尻尾を自身の 膝の上に乗せてはどうかという提案の機会を失われて遺憾の意を行政の整備計画に呈したいところであった。
代わりにミユキの膝上を占領しているのは、笹葉に巻かれ、稲茎で縛られた食糧である。
祖国では時代劇で握り飯と沢庵を持ち運びする際にしか見ない類の“容器”だが、皇国原産の笹葉は抗酸化作用に優れているらしく、労働者達の弁当容器として高い人気を誇っている。
「御月見ですね。御団子いりますか?」櫛に刺さった単色の団子をミユキが差し出す。
受け取ろうとするが、ミユキが櫛を手放す気配はなく、トウカは黙って齧り付く。中に餡子が入っているらしく、濃厚な甘みが口内を満たした。
御月見という習慣が異世界にも存在した事が驚きであるが、時期を踏まえるとミユキは毎月、御月見をしている可能性がある。
「芒を添える習慣はないのか?」トウカが問う。
「??? 芒って何ですか?」ミユキは小首を傾げた。
残念ながら芒という植物は存在しないらしいが、類似する植物は存在する。寒村の中に茅葺屋根の建築物があった事を、トウカは思い出した。芒は代表的な茅に分類される。
火災の際は酷く派手に燃え上がる事を保証された建築物が、近代に突入しても少なからず存続している現状。魔導資質に優れた国民主体の国家の場合、防災能力も向上しているからこそか、或るいは材質的な強化で優位性を持つかという部分に、トウカは興味を持った。
しかし、ミユキが袖を引っ張り思考を中断させる。
恋人との逢瀬で余計な事を考えるのは失礼であろうと、トウカは話題を変える。
「そう言えば、さっきの食堂は良かったな。健康的なものが多い。俺は特に焼霜造りが良かったと思う」
トウカとしては、単純な調理法はこれ程に旨味を引き出すものかと驚いたものであるが、火加減を見るに容易に真似できるものではない点だけは理解できた。
焼霜造りは、刺身の一種だが、単純な様に見えるが、火加減の扱いが難しい。
皮目をさっと炙って焼き目を付けて、冷水で引き締めるだけに過ぎないが、加熱の加減は容易ならざるものがある。強すぎれば焼魚であるし、弱過ぎれば皮目の硬さは取れない。
上手く造ると、余分な脂肪や生臭さが取れ、硬い皮も香ばしく変わる。それでいて生身である点は変わりない。皮目に旨味成分のある魚類には覿面の調理法であった。寄生虫対策の為か、念入りに加熱するミユキとは対照的である。
「吸血種が最近の人間種は食生活の乱れで血が不味くなっているから、一念発起して健康改善の為に開いた大衆食堂らしいですよ? 健康なヒトならお代が血液でもいいみたいで、貧乏なヒトに大人気だって」
菓子類と炭酸飲料を求めて献血に並ぶ苦学生の受け皿は、意外な事に異世界にも存在した。戦時下の輸血用血液の備蓄が心配になる話題であるが、軍神は輸血用血液が不足したという噂は寡聞にして聞かない。
「ヒトも自家栽培する時代ということか……」
親切と傍迷惑の境界線を綱渡りしているかの様な一念発起に対して、トウカは多種族国家であればこその出来事だろうと溜息を一つ。
何が理由で不興と不満が生じるか分からない相手というのは、平時には非常に神経を使う。何時の時代も揚げ足を取る連中は存在する。政治家の全てが、芋揚げ(ポテトチップス)や爆蜀黍も野菜だと断言してくれるであろう程に純粋なミユキの如き少女ばかりを相手にする幸運に恵まれるはずもなかった。
当たり障りのない……というには些か異世界の特異な風習や物品に戸惑いつつも、ミユキが今迄に旅先で邂逅した出来事に耳を傾ける。
祖国の風習と類似したものがあると思えば、気が狂れたかの様な風習もある。
喧嘩神輿の延長線上なのか、ヴェルテンベルク領でも夏には神輿の上で竹竿を手にして集団で戦う騎馬戦が行われているとのことで、トウカとしては「血の気が多過ぎる。勢い余って内戦に突入する訳だ」と思える類のものも少なくない。
競馬や競艇などの賭博の代わりに竜騎兵による飛行順位を競う飛龍戦なるものが行われているとの事で、何処の世界も賭博に熱意を向ける者は一定数存在する事を示していた。航空騎の徴用が容易である事は皇国軍にとり僥倖である。
ミユキは楽しそうに旅先の出来事を語るが、そこには幾つもの苦労の影が窺える。当人は当たり障りない内容にしている心算であるが、口調と仕草から滲み出る事は避けられない。
トウカは黙ってミユキを抱き寄せる。
着の身着のまま天狐族の隠れ里から出奔したミユキの精神的苦労は計り知れないものがある。
ベルセリカの屋敷の庭先で行き倒れていた理由は不明であるが、行き倒れても尚、犯罪に手を染めようとは考えていないのは、食糧確保に自信があるからに他 ならなかった。二人旅での交渉で上手く立ち回っていたのは、森で収穫した貴重な小動物や薬草を売却することで経験した結果との事である。
「最近はどうだ? 楽しいか? 狩りができないのは不満か?」
「えっと、楽しいですよ。だって、海があるから飽きる事なんてないもん」
ミユキはロンメル子爵領が自身の箱庭であると認識していない。最近は、トウカの副官として随伴していた理由も大きいが、トウカとしてはロンメル子爵領には箱庭という要素を期待していた。
「それに――」
ミユキが不意に言葉を区切り、尻尾を揺らしてトウカの背を叩く。
意味を察したトウカは、羽織る軍用長外套の下の脇下拳銃嚢からP98自動拳銃を抜き出すと、遊底を引く。鈍い金属音が薬室に初弾が装填された事を伝えた。
「……数は?」
「一人です。真っ直ぐ進んできてます」
ミユキがトウカの左腕にしがみ付いて、威嚇の唸り声を上げる。尻尾が逆立ち、狐耳が天を衝く。
ゆらりゆらり。
正面から、姿を隠す事もなく覚束ない足取りで近づく女性。服装を見るに民間人の様に思えるが、揺れる身体は宿酔とも思い難い。可もなく不可もない顔立ちに、肩だ付も平均的なそれであり、外観は人間種に近い。
しかし、瞳は虚ろで焦点を結んではいない。寧ろ、両の瞳は互いに違う方角を向いており、二人に向かって歩きながらも目的としている様に見えなかった。
「止まれ。何用だ」
トウカは、P98自動拳銃を両手で構える。引き金の前に弾倉が配置されている為、人間種が片手で保持するには些か厳しいものがあるのだ。
トウカの静止を受けて尚、何歩か進むが、女性は十歩ほど先で足を止める。
よもや噂に聞く死霊使いの類かと警戒するトウカだが、それにしては腐臭を感じない。
ミユキが警戒心を露わに、狐耳を逆立てると口元から蒼炎……狐火を漏らす。ミユキの最大限の警戒に、トウカも容易ならざる相手であるとの認識を深めた。何より、周囲には情報部の人員が展開しているが、動きを見せる気配がない。排除したか遠ざけたか、或いは殺害したか。
女が口を……開かずに言葉を発する。
「失礼した。驚かせてしまったようだ。謝罪しよう」
重厚な巌の如き佇まいの声音は女性のものとは思えないと、トウカは眉を顰める。一発撃ち込んでから思案すべきかという脳裡に過ぎる思考を彼は打ち消した。銃を使い慣れると|引き金(トリガ―)が軽くなるという噂は、紛れもなき真実であるという実体験。
虚ろな女性の輪郭が曖昧になり、ミユキの警戒心がこれ以上ない程に跳ね上がる。
相当な高位魔術の行使がされているのだろうと見当を付けたトウカだが、同時にミユキが先手を打たない為、攻性魔術の類ではないと判断できる。ミユキは危 機に際しての判断は早い。攻撃という選択肢を取らないのであれば、それは脅威ではない。或いは、交戦に於いて自身とトウカの安全を確保できないと見たか。 結論として、交戦は最善とは言い難い。
「夜分の逢瀬への邪魔だ。相応の理由があるのだろう。聞かせると良い」
存外に詰まらぬ要件であれば赦さぬという、意味を含ませたトウカの問い掛け。無論、決裂時は擾乱後に撤退である。戦力不明の敵を相手に積極的に交戦する程、トウカは楽観主義者ではない。
応じるのは、形を成し始めた巨躯を背広で包み込んだ偉丈夫。
撫で付けた金髪に、力強い顔立ちの壮年男性は、明らかに軍役に就いていた人物であると理解できるだけの眼光で、トウカを見下ろした。
「世界大戦後の世界について話す為に来たのだ」
トウカは皮肉を湛えた口元から感情を消し、P98自動拳銃を脇下拳銃嚢へと仕舞う。
「ミユキ、敵ではない。味方でもないが」
トウカは、軍用長外套の裾を翻して長椅子へと腰掛ける。ミユキも僅かな逡巡の後に続く。
世界大戦。
その言葉を吐く者が現段階で現れると、トウカは考えていなかった。無論、行方不明を除く五公爵には伝えてはいたが、人目を憚る方法を見るに、明らかに別口である。
暫し視線を交わす軍神と偉丈夫。
「皇州同盟軍総司令官、サクラギ・トウカ元帥」
隣に座るミユキの尻尾を膝上に乗せて撫でるトウカは、所属と名前、階級を口にする。
対する偉丈夫は、右手を厚い胸板に当て一礼すると、外観に反した優しげな声音で告げる。
「我が名はオーギュスト・バルバストル。《ローラン共和国》大統領」
隣国の指導者の到来。
それが魔術による遠方からの分身投射による幻影であるとしても尚、予想し得ない一手である事には代わりはない。
トウカは、喉奥から零れる笑声を以て応じた。
「では、話を聞こう」
右翼が国家を裏切り、左翼が国民を裏切った。
《仏蘭西共和国》第一八代大統領 シャルル・アンドレ・ジョゼフ・ピエール=マリ・ド・ゴール
政治家の重要な仕事の一つは、国民に夢を見させてやる事だ。
《独逸第三帝国》総統 アドルフ・ヒトラー
知識人、理論家が左翼の方に惹き付けられる様に、自然、官僚と実際家は右翼に惹かれる。従って右翼は理論に弱く、理念を獲得し得ない事が常に苦の種なのである。左翼の特徴的な弱点は、その理論を実際に移すことができない事にある。
至る所の歴史が示している様に、左翼の政党ないし政治家は、政権を掌握する事によって現実と接触するようになると、彼らの空論家的理想郷主義を捨てて、右傾する。
《大英帝国》政治学者、外交官 エドワード・ハレット・カー
大衆に仕えるものは、憐れむべき人である。彼は散々苦労した挙句、誰からも感謝されない
《独逸連邦》詩人 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
どれほど困難が控えていようとも、表面的に得になりそうなら民衆を説得するのは難しくない。反対に有益な政策でも、表面的に損になりそうな場合は民衆の賛同を得るのは大変困難である
《花都共和国》外交官 ニコロ・マキァヴェッリ
ヴェルテンベルク領邦軍艦隊の魚雷保有数は異常ですな。日本海軍の酸素魚雷は一本で立派な一軒家が建つくらいでしたので。まぁ、偉大な魔導技術が生産コ スト削減に寄与したという事で。燃焼開始時の過剰な反応なんて容易に押さえ得るでしょう。空間遮断が容易な魔導障壁の技術の延長線上ですね。