第二二二話 共和国大統領 後篇
「では、私は失礼しようか」
オーギュストは、内心で荒れ狂う緊張と絶望を、議会政治に生きる男の表情を仮面として隠して一礼する。
少なくとも最低限の目的は果たした。
トウカはオーギュストが自身の元いた世界を知る人物として認知した。その理解の及ぶ範囲が不明であるという優位性は 計り知れないものがある。実際、政治に関してはある程度が記されている”日記”だが、軍事に関しての情報は多くない。断片的に過ぎた。しかし、それは彼に
は分らない。情報の根源を認識していない以上、彼は共和国の潜在的能力に対して常に警戒せざるを得ない。それもまた一種の抑止力である。
「待て。興味深い話題を提供してくれたのだ。土産もなく返しては鼎の軽重を問われる。少し独り言を漏らす」トウカの言葉には隠し切れない愉悦の情が乗せられている。
こうした場合、碌な事を言わないという程度にはトウカが皮肉屋であると理解していたオーギュストだが、彼はこうした場面で誤解を誘う真似はするが嘘は付かない。
トウカは、再び雲居の間隙より姿を見せた満月を見上げる。
「国家には義務がある。国体と国益が過度に損なわれぬ限りに於いて国民を保護するという義務だ。その前提で語るならば、他国の難民は銃口を突き付けて強制送還すべき対象だが、自国民であるならば、状況が赦すならば断固として保護するべきだ」
中原諸国からの難民に間諜が混じっている可能性を指摘したであろう言葉に、オーギュストは眉を顰める。可能性としては有り得るが、祖国を滅ぼした帝国に 協力する難民が多いとも思えない。仮に帝国が間諜を混ざっていたとしても、彼ら彼女らは大多数が最前線に送られる事になる。
トウカの言葉の意味するところを測り兼ねたオーギュスト。
「まぁ、難しく考えなくとも結構。ただ、自国民の保護が最優先であると理解すればいい。それに、だ。それにだぞ? その大前提で語るならば、だ」
妙に幾度も念を押すトウカ。それ程に憚られる独り言なのか。
トウカは団子を齧るミユキを一瞥する。
「女子供に美味いものを腹一杯喰わせてやれん国家なんて滅んでいいだろう」
虚を突かれた。
彼の軍神が感情論に根差したとしか思えない形で国家の興亡を語ると瞬間が来るなどとは考えてもみなかった。しかし、彼が意味もなく感情論染みた言葉を口にするとは思えない。無論、仔狐が可愛い過ぎて餌付けの重要性を説いているだけということも有り得ないはずである。
窺うような視線を見せるオーギュスト。早く先を言えと促すが、トウカは察しろと言わんばかりに口元を固く引き結んでいる。しかし、議会政治名物でもある得意の瞳うるうるを行使すると、トウカは心底と汚らわしいものを見る様な表情で吐き捨てる。
「共産主義という亡霊は貧者にこそ巣食う。そして貧者が貧者たるを認識するのは空腹を癒やせない時だ」
全ての生き物は空腹に隷属する。飽食の国に居たであろうトウカとは思えない発言だが、共産主義の隆盛を警戒しているという意図だけは理解できた。
――さて、どう取るべきか。いやいや、怖いね。必要なのは共産主義への警戒だけじゃないね、これは。
オーギュストは共産主義という、良くも悪くも洗礼された理想主義者や貧困層への感染力が高い思想が突然に発生した等という偶然を信じてなどいない。エス タンジアの国家社会主義という異世界より漂着した思想であったとしても、帝国にとり最も都合の悪い状況で、最も都合の悪いであろう思想が漂着するなどいう 偶然はなかった。
民主主義と主君主義ですら幾星霜の試行錯誤を経て現在の形となった。突然に生じた思想というものは存在しない。試行錯誤による結果として洗礼されて支持を得る。行き成り多数の支持を得る程の完成度があると言うのであれば、提唱者には隔絶した革命の才覚がある。
トウカが持ち込んだと見るのが妥当である。日記の内容は共産主義に言及した文言はないが、或いは世界大戦中の国家があったのかも知れない、とオーギュス トは見ていた。著者が敢えて書く程ではない見たのか、或いはこの世界に名すら遺したくはないとまで考えたのかまでは不明であるが。
自身の懸念を伝え、共産主義の流布に対して無関係と言わんばかりの言葉。明らかにオーギュストの持ち得る情報の範疇を仕草と言動で測ろうとしている。挙句に自身は共産主義の拡大を懸念する立場で、流布させたなどと思わせない物言いであった。
トウカの面の皮の厚さに、オーギュストは呆れるしかない。彼も中々どうして共和主義国の議会で活躍できるであろうことは疑いなかった。
「反共協定でも締結するかい? 活動家の捕縛に対する協力なら惜しまないが?」
「……まぁ、それは後日改めて」肩を竦めるトウカ。
心にもない提案である。共産主義者との闘争が本格化するのは、帝国軍を退けて以降となる。敵国が侵攻してくる最中に政権の打倒を叫び民衆に売国奴扱いさ れる程度の者であれば、元より然したる脅威度とは成り得ない。問題は戦時下ゆえの行政の混乱に付け込んで政府や軍隊の内側に侵食しようと目論む手合いであ る。戦時下の場合、憲兵隊や諜報機関の監視体制は飽和する場合が多々あるのだ。
「ふむ、そろそろ時間だね」オーギュストは自身の右手を月光に翳す。
崩れ始め、白い灰となって夜風に運ばれる身体の一部。
トウカが眉を顰める様に満足しつつ、オーギュストは自国の魔術も捨てたものではないと感心する。
共和国では禁忌に指定されている人体模倣と呼ばれる軍用術式である。陸軍情報部所属の大統領府特務隊によってのみ運用される為、禁術指定すらされていな い。非公式魔術として扱う事で公文書に記載される事を避ける程の効果を持つ人体模倣は、端的に言うなれば遠隔操作可能な複製人体の投射である。
高位魔術師一人を材料にし、自身の身体の模倣体を遠隔地に展開するのだ。投影魔術の様な虚像ではない実体の為、その精製には高位魔導士の魔力と身体を構
成する物質が用いられ、魔術の適用者の身体形状が模倣される。人道上で大いに問題のある魔術であるが、高位魔導士の生命を消費するという費用対効果の悪さから運用例は余りにも少ない。オーギュストも使用は今回が初めてであった。当の本人は大統領府の大統領執務室で術式維持の補佐をしている複数の高位魔導士に囲まれている。
擬似的に再現された身体の感覚が失われる。手が零れ落ち、髪が砕け舞う。
魔導の本質を見て取った仔狐が、その非人道性に尻尾を立てるが、トウカは興味深げな顔をしているだけであった。
トウカは灰を掴もうと手を伸ばすが、夜風に舞い踊る灰は容易に掴ませない。
諦めたトウカはオーギュストの脇腹を掴む。砕ける脇腹にトウカが唸る。痛覚が遮断されているか否かという点を確認したのだろう。
「面白いな、実に面白い! これも魔術なのか? 良いな! 実に良い! 成程、不可能ではなかったか……」
年相応の破顔に、オーギュストは呆気に取られるが、トウカが彼の疑念など気にも留めずに言葉を続ける。
「礼だ。貴官にもう一つ、金言を授けよう」
心底と愉快だと言わんばかりのトウカ。ミユキは呆れている。
「經世濟民……世を治め、民の苦しみを救うと宜しいでしょう」
共和主義の首魁ともなれば本懐かと、と続けるトウカ。
彼が羽織る黒衣の軍用長外套が、彼の嘲笑を具現化させた様に風を孕ませて大きく揺れる。
オーギュストは、急速に朽ち往く仮初の身体を揺らして感謝を示した。
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オーギュストは微睡の中で無邪気に微笑む軍神の影が薄れる事を自覚した。
浮かび上がる意識。
虚構の現実から、残酷な現実へと大統領は回帰する。
周囲の高位魔導士達の心配する視線を煩わしく感じつつ、オーギュストは「大事ない、下がれ」と退室させる。彼らの心配は、大統領に異常があった場合の責 任問題を懸念してのものに過ぎない。無論、個人的な交友が権力者の周囲にあるという弱点をオーギュストは許容できないので、友人としての心配など望むべく もない。
部屋の中央……移動させた執務椅子を中心に魔術陣が刻まれた光景は、酷く現実感の乏しい光景と言える。その中央に座るオーギュストは宛ら悪の首領という有様であった。
「いや、充実した一時だったよ、本当に」
オーギュストは駆けてきた小さな影を椅子上で受け止めて呟く。
所謂、妖精である。種族ではなく、言葉も交わせない小さな幻想に過ぎない彼らは謎が多い生物である。特に皇国に多い謎の生態の生き物だが、皇国では人里 離れた山奥や秘境、遺跡に数多く生息しているのに対し、共和国では何故か都市部でも時折目撃される。地方によって性格や気質が違うらしく、服装なども気候
や地形に合わせている。霊的な存在である為に害する事は難しいが、基本的には害のない生き物である。見た目がゆるい三頭身である為、一部に愛好家が存在す るが、都合が悪くなれば霊体化し、菓子を使えば簡単に誘き寄せられるという部分以外は謎に包まれていた。愛玩とするには些か自由奔放に過ぎ、拘束は困難を 極める。
「御前だけだな。俺を心配してくれるのは」
三頭身にして緩い顔立ちの人形にすら見える妖精の餅の様な頬を人差し指で撫でるとオーギュストは彼?を抱えて立ち上がる。
妖精にも個性がある。その中でも、彼の前に姿を現す妖精は、菓子よりも酒を好むという変わった妖精である。特に甘味際立つ糖酒を好んでいている。糖質に目がないという点では在野の妖精と変わりなかった。
肩へと攀じ登り、肩に座った妖精を尻目に、オーギュストは酒瓶が収められた棚を漁る。妖精は棚を漁る腕上を駆け抜けて酒棚に降り立つと、酒瓶の一つに抱き着く。
一番甘く、一番高価な糖酒であった。
原産地が遠い小島の入手が難しいものを一点で狙ってくる彼だが、一番甘いという点しか見ていないのは間違いない。
呆れた声音を漏らし、オーギュストは彼が抱き着いた糖酒と硝子碗を二つ手に取ると、応接椅子に足を向ける。
座ると意外な事に足から力が抜ける感覚に襲われ、意外と疲弊していたのだと実感する。成程、糖質が不足している、と。オーギュストは妖精の判断が正しかったと、酒瓶の木栓を抜き取る。酸化防止の為の窒素置換術式を担う木栓上面が仄かな輝きを帯びた。
妖精の為に用意した硝子杯に糖酒を注ぐと、妖精は硝子杯へと抱き着いた硝。硝子杯と然して変わらない身体だが、彼は器用に硝子杯を傾けるとユルい顔を硝子杯へと押し込む。
オーギュズトももう一つの硝子杯に糖酒を注ぎ、口を付ける。
口内を満たす酒精の刺激に続く、濃厚な甘み。鼻を抜ける砂糖黍の風味の残滓。頭脳を酷使し、暴力を信奉する軍神と相対したオーギュストは、その甘味に癒された。脳は糖質を欲していたのだ。
「いや、これだよ。これ」
深い深い、深淵を思わせる溜息を吐くオーギュスト。
サクラギ・トウカは想像以上の生き物だった。否、生き物と言うには、些か歴史的に過ぎた。幾星霜の試行錯誤を俯瞰する事でなに一つ信を置けなくなった彼は、受け入れ難い正しさを外套として身に纏う黒衣の軍神となった。
彼は気付いていないだろう。自身が既に歴史になりつつある事に。
「あんな化け物を向こうに回したくはないね」
知性すら逸脱した真理という残酷さが宿る瞳は、オーギュストの理想と妥協すら見透かしていた。その上でトウカは共和制の構造的欠陥を端的に嘲笑した。否、嘲笑したのは民衆という無責任な有象無象か。
「できれば寿命が尽きるその時まで帝国と争い続けて欲しいけど」
当然、そんな事は在り得ない。口振りを見るに帝国崩壊を既定路線として考えている事は間違いない。それも、そう遠くない未来として。
トウカとの邂逅予定は主要閣僚に伝えている。邂逅の為に運用した禁術の性質上、個人での使用が困難であった為、政府としての協力が必要だったのだ。
当然、彼らは明日にでも新進気鋭の軍神の為人を訊ねて来るだろう。
彼を恐れているのは帝国だけではない。彼我の戦力差が隔絶した中で勝利を掴み続けるトウカに、数倍の兵力を国境に展開したとしても意味があると誰もが考 えない。彼は常に勝利する。対地攻撃に於ける航空騎の集中運用、重雷装艦による飽和雷撃戦、巨龍達による戦略爆撃、装甲部隊による電撃戦……既存の軍事的
防護を飛び越えた軍事行動に既存の防衛戦略は意味を成さない。戦力的優位による安心感を得られないのだ。詰まるところ、彼に対して安全と対等を確保する上 での軍事力が形骸化しつつあるのだ。少なくとも皇州同盟に対しては、抑止力足り得なくなった軍事力に意味などない。
オーギュストとしては、中々に返答の難しい問いなのだ。
「さてさて、どう答えたものか」
年齢や容姿、階級や役職ではなく能力で態度を変える人物に見えるトウカだが、確かに一般社会でも一部からは可愛がられる素質を持っている。特に目新しい モノを好む老人達は、ああした生意気盛りの若造は可愛くて仕方ないだろう。一般企業の社員で言うところの部下にはしたくないが、隣の係にいたら面白そうと いう人種である。
当然であるが、それは酷く控えめな表現である。所属企業の基盤に穴をあける類の社員である点は疑いようもない。
適当な屁理屈を思案するオーギュスト。
硝子杯に顔を突っ込んで抜けなくなった妖精を引っこ抜きつつ、オーギュストは屁理屈という名の理論武装を組み立てた。
「そう言えば、トウカ君。最後に様子が変わったな。さて、魔術には疎いという話だが、禁術に何を見たのか」
禄でもない事であるのは疑いないが、要らぬ利益を与えてしまった気がしないでもないオーギュスト。皇国国境を突破し、トウカの喉元にまで防諜網を掻い 潜って接近できるという示威行動の心算であった。トウカの生命だけでなく、近しい人物にも迫れるという一種の恫喝の意味を持つそれを政戦両略の彼が理解で
きぬ筈がない。軍事力で安全を担保できず、挙句に優越すらできない中での一手としては、最も費用対効果に優れた一手であった。それ故にトウカも、自信との会話に応じたという自負がオーギュストにはある。
しかし、図らずも彼に利益を与えてしまった様子である。ただ愉快であったなどという様子ではない。
想像も付かない利益であるが、その点については閣僚にも言えない。トウカの利益が一体どの様な形で顕現するか不明確であり、それが共和国に不利益を齎すのであれば尚更である。魔術的な利益である以上、技術的な問題であるとは睨んでいたが。
オーギュストは、トウカが科学的な要素に傾倒する形で皇州同盟を拡大させようとしている理由を理解している。彼の元いた世界をある程度、知るならば当然であった。彼は魔導技術に疎い。故に魔術を技術体系の一つとして扱っている。
そして、彼の良く知る科学技術は運用の上で平準化を重視している。技術的複雑化を増せば増す程に運用者が限られるのは双方変わりがないが、先天的要素を 以て使用者が制限される魔導技術は、“増産”の面で不利と言える。彼はその点を看過できない。軍事行動に必要な量を確保しようとするならば当然である。魔 術への依存を嫌うはずである。
「さてさて、困ったものだ」
妖精が空になった硝子杯を叩いて二杯目を要求している姿に、オーギュストは再び木栓を開けた。
取り敢えず、彼は思考を放棄して小さな遊び人との宴席を愉しむという建設的な選択肢を取った。
「あの魔術、素晴らしいな。ミユキ、概要は分かるか?」
トウカは灰となったオーギュストから背を向け、座るミユキの手を取り引っ張り立たせると抱き寄せた。
トウカは問題解決に十年弱は擁すると考えていた問題が別の切り口で解決できるかも知れないという期待に心を弾ませた。
軍事面でトウカを最も悩ませた問題。それは紛れもなく通信技術である。広域戦線の形成に於いて意思疎通の誤差というのは致命的な状況を齎す事があった。印度洋作戦にミッドウェー海戦……大和民族にとって通信の不備は心的外傷に等しい。
「流石にあの男が皇国に潜伏しているとは考え難い。つまり共和国本土から何かしら方法で魔術的に自身の動きを伝えていた事になる。長距離通信の性能に劣る魔導通信とは根本的に異なる技法だ」
去りとて複数の通信設備や魔導士を経由して実現したとも思い難い。北部の防諜は皇国国内に於いて最も厳重である。オーギュストに侵入されたとはいえ、複 数の侵入まで許している可能性は低い。何より、帝国〈南部鎮定軍〉と皇州同盟軍、皇国陸軍が激しい戦闘を繰り広げている。強力な魔導通信の飛び交う地域を 超えてシュパンダウに通信が届くとは考え難かった。
意思を伝える手段として魔導通信とは違う概念があるという事実。
「ミユキ、御前は俺を愛しているか?」
「愛……愛してるに決まってるじゃないですか!」
一瞬、呆気に取られたミユキだが、慌てて応じる。
トウカとミユキは契約を経た間柄である。そして、ミユキはベルゲン強襲を巡る一連の作戦……ゲフェングニス作戦に於いてトウカが交戦開始した時期で ミユキは、トウカの燃える意思を感じ取ったという。何より、トウカも天狐族の隠れ里でミユキの危機を察している。魔導通信とは違う遠方の確認手段。感情に
左右されていると思しきものであるが、原理を追及して通信技術に組み込めば長距離通信や戦場での通信に極めて有効なものとなるだろう。
――気付くのが遅かった。早速、ヴェルクマイスター社に投げ込むか。
電子技術や通信技術の研究開発の為に立ち上げた企業への提言を、トウカは決定する。
当然、容易ではないだろうが、可能性の一つとして追及する事は悪手ではない。無理でも現状で研究開発が続けられている有線通信と無線通信が先に実戦配備されるだけである。
「さて、ミユキ。帰ろうか? 夜風は身体に良くない」
二人で布団に入って温まろうと提案するトウカに、ミユキは身体を寄せて頷く。
歩き出す二人。
内戦時の空襲によって子爵邸が焼け落ちた為、臨時で人里離れた空き家を徴用した屋敷が現在は子爵邸として利用されている。一般家屋も同然であるが、トウカは参謀本部が近い事もあって不満はない。
既に元帥号を得て皇州同盟軍総司令官の任に就いているトウカだが、総司令部は陸軍〈北方方面軍〉総司令官に就任したベルセリカが引き連れていった為、参 謀本部は皇州同盟軍総司令官であるトウカの直卒組織となった。実情としては米軍の統合参謀本部に近い。皇州同盟軍と〈北方方面軍〉の指揮権統合により総司
令部や参謀本部の職分は曖昧化しつつあるが、トウカとベルセリカは問題視していなかった。どちらかと言えば、実戦投入されている部隊の大多数はザムエルの 隷下にある。二人は組織運営と育成、兵器生産などに注力していた。
その中で、ミユキはトウカの副官であり続けている。
しかし、今はただの恋人に過ぎない。甘える事に苦言を呈する真似はしない。
「閣下、御無事でしたか」
「エイゼンタールか。やはり掴めなかったか」
ミユキやトウカの護衛として情報部の小隊を統率しているエイゼンタールが闇夜の木陰より姿を見せる。黒衣の軍装もあって視覚的には亡霊染みたものがあった。
「大統領閣下が訪ねて来られた。愉快な会話であったな」
エイゼンタールが気付かなかったにも関わらず、声を掛けてきたという事は、オーギュストはトウカとミユキを魔術的に隔離した上で会話に望んだのだろう。隔離された事には気付いても、内部までは窺い知れなかったと見るべきか。
「隔離していた魔導士が別でいますよ、主様」
「捨て置いて構わない。彼らの好奇心に敬意を評そうじゃないか」
トウカとの邂逅を望む以上、行動を注視しているという事に他ならない。牽制ではあれども敵対ではなかった以上、トウカとしては共和国の苦しい台所事情が見え、寧ろ多大な収穫であった。
「まぁ、次は許さん。心得ろ」
「はっ、了解です」敬礼したエイゼンタールが闇夜に消える。
トウカは軍用長外套を脱ぐと、ミユキの肩へと掛ける。恋人の体調を気にしたという事もあるが、オーギュストの会話で熱を帯びたトウカには必要ないものとなったという理由もある。
「楽しくなる。思ったよりも世界大戦は近付いているという事か」熱を帯びた吐息で、トウカは囁く。
十年は先であると考えていた動乱は意外と目先に迫っているのかも知れないと修正する。
世界最大の大陸での混乱が世界に飛び火するという形か、或いは他大陸での混乱に大陸内での問題を避ける形で解決できるという好機を見る形での当時多発的 な開戦か。アトランティス大陸を舞台とした代理戦争も有り得るが、周辺諸国を見るに他大陸国家の尖兵となる程に従順な国家は存在しない。寧ろ、海洋戦力の 総合数としては他大陸よりも優位なのだ。派遣軍など航路遮断で容易に壊滅する。
「世界大戦、ですか?」首を傾げるミユキ。
実感を持っている者などそうはいない筈である。無数の国家が入り乱れての乱痴気騒ぎなど、誰しもが一笑に付す話題である。第一次世界大戦があそうであった様に。
暗殺や動員の連鎖と恐怖心からの先制攻撃……理由は幾つも有れども、起きる時は一瞬である。対応すべく国力を増進する必要があるが、一先ずは帝国〈南部鎮定軍〉を壊滅させる必要があった。国土に敵軍が侵攻している状況で政略に現を抜かす真似はできない。
「残酷な事だが、多くの命が喪われるだろう。だが、皇国人だけは断じて護る。皇国は御前の世界だ」それがトウカの戦争へ身を投じる最たる理由である。
悲劇は常に在野を揺蕩う。
たが、それを積極的に遠くの他人に押し付ける努力をトウカは惜しまない。彼は悲劇を他者に転化する術を知っている。そして、それこそが戦乱の時代の指導者に求められる役目なのだ。
「ミユキ、俺は田植えの季節までに帝国を北部から叩き出す」
それは宣言である。
北部鎮護の為の宣言でも同様の発言をしているが、ミユキにとってはそれ以外の意味を持たせたいと、トウカは願った。
「その時、祝言を上げよう」
紛れもない求婚。
シラヌイの抵抗や帝国の軍事行動で有耶無耶になっていたが、今となっては帝国の脅威以外にミユキとの関係を阻む者は存在しない。七武五公との関係が改善されつつある以上、最早、確たる脅威は帝国以外に存在しない。
「いいの? これから出世するなら独り身のほうが……」ミユキが逡巡を見せる。
言いたいことを察したトウカは、ミユキの勘違いを察して狐耳の間の頭を撫でる。
権威主義的な勢力争いに於いては婚姻という手段は、強力な武器と成り得る。特に有力貴族との連帯に於いての象徴として婚姻は古来より多用されていた。七武五公の分断を意図して婚姻という手段が取るのは悪手ではない。
しかし、状況は変わった。
アーダルベルトは協力的となり、ヨエルが明確にトウカの後ろ盾となった。陸海軍との連携は深まりつつある。婚姻という手段をとる必要など、この期に及んでは皆無である。必要ならば北部有力貴族の嫡子を差し出せばいい。
「莫迦を言え。俺の立身出世は政戦両略に依るところだが、それは御前の為だ。御前あっての立身出世だ」無意味な懸念をトウカは両断する。
自身を切り売りしての勢力拡大など、将来的に足元を見られる要素となりかねない。何より、他勢力との迎合と見られかねない相手と婚姻した場合の危険性をミユキは考えていない。トウカの北部での支持は苛烈であるからこその支持でもあるのだ。
面倒臭い女だと、トウカはミユキに背を向ける。
見下ろす月影が雲居に翳る。
大戦の旋律と仔狐の花嫁。望んでいた二つが明確な形を帯びて姿を見せ始めたのだ。時期として、これ程の好機はない。トウカとしても蠢動する身辺を煩わしいと感じていた。明確とすべきなのだ。
「御前は黙って白無垢を纏うと良い」トウカは雲居に顔色を隠して告げる。
己の無様な表情を雲居の影に隠し、軍神は仔狐を求めた。
「御前に愛を。絶えることなき安寧を」
背後のミユキの身動ぎが月夜に妙に大きく響く。酷く驚いた気配。
何時ものように打てば響く様な言葉を期待していたトウカが、望んだ向日葵の様に咲き誇る声音は背後から響かない。
気恥ずかしさと不安に、己の口元を右手で隠して軍装を翻したトウカが目にしたのは、口元を押さえ、目を見開いた仔狐。目尻に涙を湛えた仔狐。
トウカはミユキのを取って引き寄せる。
「ああ、すまん。この世界でも婚約の証を以て傅くべきだったか?」
祖国で垣間見た出来の悪い恋愛演劇の一場面を思い起こしたトウカ。勿論、ミユキが望むのであれば、トウカは相応のものを用意する心算である。
「覚悟を忽ちに決めたものでな、生憎と持ち合わせがない」
「違うんです。違うの。だって、私ばかりが好きって言って、主様は言ってくれなかったから……」
或いは、政争に利用されるだけで、最後は距離を置かれるのではないかという不安があったのかも知れない。恋人以上の具体的な立場を、時期を含めて明確な形で突き付けたのは、今回が初めてである。
トウカは俺は愛という言葉を軽々しく口にする心算はなかった。愛国心を含め愛と名の付く言葉は、口にすればする程に価値の下がる言葉であるとトウカは確 信している。愛とは実行するものであって、嘯くものに非ずというある種の観念が彼にはあった。だからこそ、その言葉を口にする際は不退転でなければならな い。
ミユキへの愛を証明するには武勇など意味を成さない。
「ならもう一度。御前に愛を。鼓腹撃壌の世を君に捧げよう。俺は御前と生きる」
トウカはミユキに面白愉快な日常を婚約の証として証明する。
トウカは右手を胸に当て、傅いてミユキに愛を問う。
ミユキは目尻に湛えた雫を払い、しゃがみ込んでトウカを抱き寄せた。
「幾久しく貴方様の御傍に……」
抱き締め合った事で互いに表情は見えないが、トウカは涙声のミユキの表情を再び顔を見せ始めた満月に観た気がした。
「何気に春までには追い出すとの言葉を、田植えの季節……初夏までに伸ばしている。全く、元帥閣下も政治の機微を覚えられた様で幸いだ」
エイゼンタールは、神州桜華の戦列の影より、皇国を鳴動させるであろう二人の姿を垣間見た。
軍神と仔狐。
トウカは鼓腹撃壌の世をミユキに差し出そうとしているが、それが叶う世界情勢でもない。昨日、遂に《ローラシア憲章同盟》と《エルゼンギア正統教国》が 係争地であるエキドナ諸島を巡って大規模な海戦を行っているという報告が舞い込んでいる。戦艦、巡洋戦艦が双方合わせて八〇隻を超える規模で、艦艇総数は
三〇〇隻を超えるという史上空前の規模の海戦である。規模ゆえに未だ決着が付かず、海戦は継続しているという。
大陸統一を成し遂げた二国が本格的な交戦状態に陥ったのだ。国力は《ローラシア憲章同盟》が優位であるが、民主共和制ゆえの国力の浪費や選挙による政戦 の停滞からも逃れ得ない。《エルゼンギア正統教国》は宗教国家故の中央集権からくる政戦に対する効率性があるが、宗教国家ゆえの戒律による制限で縛られた 部分も存在する。差し引きすると一方が決定的な優位を得るとは考え難い。
不倶戴天の関係であった両国が遂に大規模な軍事衝突へと至った。それは、アトランティス大陸への介入の余地が低下したと言える。他大陸からの介入の可能 性が無くなったとなれば、アトランティス大陸の国家群の関係は変質を見るだろう。帝国は正統教国の干渉を考慮する必要が無くなり、協商国や共和国などは憲 章同盟の政治思想面での介入より自由となる。
これを好機と見て、喫緊の脅威を排除すべく軍事行動に打って出ると言うのは合理性の伴う選択とすら言える。
その中で皇国のみが鼓腹撃壌を謳歌できる筈もない。必ずや動乱に巻き込まれるだろう。それでも尚、それを避ける手段があると言うのであれば、この世界の誰しもにとり端倪すべからざる方法である事は疑いない。
エイゼンタールはトウカの過去を知りはしないが、彼の政戦に於ける手法や新規技術や発展の方向性について違えない点を鑑みるに、彼一人から生じた知識ではない点だけは理解できた。
彼は一つの世界をその身に宿している。その中の知識を自由に取り扱う事で物事を優位に進めているように、エイゼンタールには思えた。抽象的な表現である が、少なくとも分野が掛け離れた多くに正解を持ち、尚且つ、それを理解した上で扱うだけの知性を持つ人物である事は確かと言える。
軍需工場の新設時に工程生産方式を提案したトウカだが、土木や輸送などの基本的な公共施設に加え、工作機械や労働者の運用にまで口を挟んだ点を見るに、軍事以外の分野に対しての知見もある。幼少の砌より酷く偏った教育を受けていたのは間違いない。
亡きマリアベルがトウカの正体を知った上で抱き込んだのであれば、彼女もまた時代の傑物であったと言える。
しかし、トウカにとって戦時下ではないというのは、極めて不利な事態を及ぼす。
彼が常識や法律、権威を押し退けて自らの主張と行動を押し通せるのは、有事下であるという超法規的な免罪符があるからである。
戦争になると、法律は沈黙する。
その点を彼は最大限に利用した。彼は民衆を唾棄しながらも、彼らが法律や正論で動くのではなく、利益や情緒で動くという部分を最大限に利用して自らの意見を認めさせた。故に彼は立脚点に於いて非合法の部分が多い。
エイゼンタールは、トウカが諸外国を押さえ付けるべく、共産主義を利用すると考えていた。
共産主義は、大多数を貧しくさせるが、それは所得だけではなく、知識や知性の面でも同様である。
共産主義は均一人間の集合体を作る事を第一目標に置く。この場合、無知な人間を直ちに知性人水準に引き上げるのは不可能であるから、知性人の水準を引下げる他ない。即ち平等を達成する為に全ての水準を最低に引き下げる結果となる。
帝国でも共産主義者は農奴や農民の支持を重視し、知識階級への攻撃を主目標としている節がある。平等という遮光幕で悲劇と矛盾を隠し、彼らは他理論と他思想を排斥しようとしているのだ。民衆が感情の儘に取捨選択をした挙句の結末など容易に想像できる。類を見ない程の無秩序と混乱が国力と人的資源を蕩尽させるだろう。
共産主義の流布による混乱を彼は望んでいる。
国力を浪費させる事で、皇国を立て直す時間を捻出し、相対的な平和を皇国に齎そうとしているのではないかという予想。他国の混乱と悲劇を踏み台にした繁栄と平和を彼は願っているのかも知れない。
実は、情報部ではそうした推測が成されていた。無論、特殊な一部科学者を招聘しつつある事から“超兵器による敵国の打倒”を目論んでいるという意見もあるが、それは極一部の主張に留まっている。
共産主義の活用。トウカが共産主義を流布させた以上、その可能性は高い。無論、帝国内で成立した共産党の急速な拡大と指導者層の割り出しが進まない点を持って、制御しきれるとは思えないと懸念を示す者いる。
だが、大多数は情報部が諜報と工作で活躍する時代が来ると歓迎している。エイゼンタールは情報部将校としては賛成であるが、一人の人間としては反対である。
共産主義に残虐性が潜む事は予想されていた事であるが、エイゼンタールは帝国内の共産党に対して違和感を感じていた。何処かで予想を超えた悍ましさを見せるであろう彼らに、彼女は恐怖しているのだ。
それでも尚、共和国大統領に共産主義への警鐘を鳴らしたということは、現時点で共和国の混乱を必要とはしないということになる。二国から挟撃を受けたま ま崩壊する事を懸念したと取るのが通常であろうが、或いは同時多発的な共産主義国成立の土壌が生じる事を怖れたのかも知れない。
帝国と共和国の方面で同時に共産主義国が成立するという状況を懸念したのかも知れない。扱い切れない共産主義を懸念したのだろう。無論、共産主義国成立 は何年、或いは十年以上も先の話となるかも知れないが、同時に成立した場合、皇国の対処能力は飽和する。最悪、両国は共産主義の、世界革命の御旗の下に同 盟を締結する怖れさえあるのだ。
「帝国を最終的に滅亡に追い遣るのは、皇国の軍事力ではなく、帝都に迫る共産主義者の群れ、か」
皇国を鼓腹撃壌の世とするならば、軍事行動は控えねばならない。軍事行動には多大な被害を伴う。
トウカは共産主義を積極的に利用して他国の国力の減衰を意図した行動を打ち出すだろう。
それは大きな方針転換と言える。
軍事から謀略へ。
否、共産主義の感染力を見て軍事と謀略の天秤を後者に傾けたのだろう。
エイゼンタールの予想は翌日に正しかったと明らかになる。
情報部の規模拡大と対外諜報部門に対する帝国内の共産主義者に対する各種支援が下令された。
しかし、戦争は彼を手放しはしない。
「戦争になると、法律は沈黙する」
共和制羅馬 政治家 マルクス・トゥッリウス・キケロ
共産主義は均一人間の集合体を作る事を第一目標に置く。この場合、無知な人間を直ちに知性人水準に引き上げるのは不可能であるから、知性人の水準を引下げる他ない。即ち平等を達成する為に全ての水準を最低に引き下げる結果となる
《独逸第三帝国》総統 アドルフ・ヒトラー