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第二二六話    海軍の意地

 




「遂にベルゲン近郊まで押し込まれたか」

「歩兵共の遅滞防御は限界だろうが、装甲師団も限界だぜ? 装甲車輌の損耗が激しい。いや、補修部品が間に合ってねぇよ」

 トウカとザムエルは、反攻作戦の実施について意見を交わす。

 セラフィム公爵家の屋敷の一室での会話だが、二人の会話は完全に非公式なものである。

 当初はトウカがベルゲンに設置されている〈北方方面軍〉司令部へと赴こうとしていたが、アリアベルが通信で「市民の感情を考えて下さい!」と留意を求めた為、ザムエルを呼び付ける結果となった。

 アリアベル曰く、都市爆撃を行ったトウカを市内に招いて市民感情を煽る真似は避けたいとの事であった。全く持って事実であり正論とも言えた。リシアは 「侵略者の片棒を担いだ都市に配慮などする必要はないでしょう」と反論しだが、トウカとしては、利益にならない不興と遺恨を買う趣味はない。

「装甲師団は反攻作戦……まぁ、敵野戦軍との決戦では装虎兵と軍狼兵が迂回突破の主力になる予定だ。定数不足の二個装甲師団に関しては再編制に専念して欲しい」

「おいおい、いいのかよ? あ、いや、そうか、使い潰すの心算かよ? 軍神様は怖いねぇ」

 装甲部隊という打撃力の不在を危惧したザムエルだが、同時に装虎兵と軍狼兵を消耗させようという意図にも気付いた様子である。

「時間がない。装虎兵と軍狼兵には強行して貰う事になるだろう。まぁ、彼らの熱望でもある」

 トウカは、ザムエルが手にした御猪口に米酒を注ぐ。

 見上げた月夜に窺える黒煙が無粋ではあるが、再度の皇都擾乱を終えたばかりの現状では致し方ないものがある。挙句にこうした騒乱に於いて事態収拾を担う はずの陸軍は大多数の戦力を北方の帝国軍へと差し向けていた。警務隊と有志による消火活動や修理、清掃は行われているが、日常への回帰は相応の時間を要す ると見られていた。

 無論、外気と雑音を魔術的に配されている為、視覚以外で皇都の被害を感じ取れないが、トウカは書類で状況を確認しているので、臣民の私生活への影響は限定的であると見ていた。物流の停滞も徐々に解決する筈である。

「亡国の淵に在っても政治かよ」

「次の亡国の危機に備えて、だ」

 軍人が戦争中にも関わらず、詰まらぬ政治闘争を行う連中を唾棄するのは何時の時代でも変わらない。次の戦争でも主導権を握る為に、トウカも政争を繰り広 げているが、そうした印象が薄いのは、積極的に軍事力を用いて相手に意見を押し付けているからである。有事下に在って軍人の権力拡大を指向する姿勢は、政 争ではなく恫喝や脅迫と取られていた。幸いな事に、北部の臣民達の目には、中央に苛烈な姿勢で要求を通すトウカは酷く行動力のある者に映っている。

 返盃を受けるトウカ。

 ヒトは結局のところ、自身が明確に不利益を蒙らねば悲劇と相対する決意をしない。

 皇国が危機感を抱いたのは、容認し難い国是を持つ帝国が本土進攻してきた為であるが、それでも他地方の動きは虐殺が起きるまでは明確ではなかった。


 徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である。


 互いに国家として自らの暴力の正当性を唱えつつ、相手国へと殴り掛かるのだ。当然、正当性を唱えるという行為は一種の政治であり、己の行為の正当化とは異論の封殺に立脚する。

「ベルゲンでは、御前の評判は良くないぜ……まぁ、俺程じゃないがな!」

 ばしばしとトウカの肩を叩き、一息に御猪口の米酒を飲み干すザムエル。

 ザムエルによって引き起こされた事件を思い出し、トウカも吹き出す。

 有名新聞社の見出しを借りるところの「ヴァレンシュタイン将軍、無防備宣言」である。

 経緯としては、ベルゲン近郊に展開しているザムエル隷下の〈ドラッヘンフェルス軍集団〉と陸軍の増派部隊との連携確認の為、懇親会があったが、当然、それは宴席である。

 酷く泥酔したザムエルはベルゲン内の〈北方方面軍〉司令部で一泊する事となったのだが、魔導車輌で乗り付けた際、周囲を左派……というのは些か厳密ではないが、ベルゲンを戦場にする事を反対する集団と遭遇した。

 酔ったザムエルは然したる興味も抱かず通り過ぎようとしたが、運悪く見咎められ、護衛の鋭兵と揉み合う展開となる。

 そして、その時、事件が起こった。起こってしまった。起こした。

 反対派がザムエルの軍装の勲章を指差して侮辱したのだ。自国民を殺して得た勲章を云々という文言であったと、トウカは聞いている。懇親会も公式の場であるという事で、略綬(ローゼット)ではなく、勲章を付けていたのは不運としか言いようがない。

 トウカを超える程に、ザムエルは内戦から北部に於ける本土決戦までの間で歴戦の宿将と呼べるだけの転戦を繰り広げていた。政争や組織間の遣り取りの結果 としての形だけの勲章が大多数のトウカとは違う、武功に依って立つところの紛れもなき勲章を彼は数多く得ていた。そうであるからこそ、通常では全滅の判定 を受ける被害の中でも秩序を失わず後退を可能としている。名将と言う存在を、兵士は理屈を超えて信奉するのだ。

 普段のザムエルであれば、ここで大激怒の大乱闘……トウカとしてはそう思うが、実はザムエルもトウカと同様に勲章に然したる価値を見い出していない将であった。彼が勲章を受け取る理由は、共に渡される金銭が主目的であるに過ぎなかった。因みにその金銭は娼婦と酒精(アルコール)に消えている。

 ザムエルは、軍装の上着……勲章が幾つも付いたそれを脱いで反対派に投げ付けたのだ。

 勲章とは軍人の武功の象徴であり、そうした扱いをするとはその場の誰しもが考えていなかったが、沈黙した反対派を見てザムエルは「また足りねぇのか」と下の軍装も脱いで投げ付け始めたのだ。

 無論、それだけではなく、身に纏っていた全てを脱ぎ捨てて投げ付けた。

 全裸である。まごう事なき全裸である。

 温調障壁によって都市規模で温度調整が成されているとはいえ、肌寒い中でもそれを成したザムエル。酒精(アルコール)によって肌寒さを感じなかったのか。

 悲鳴の上がる中、ザムエルはそれすらも不満と受け取った。

 誰しもが言葉を忘れて慌てる中、ザムエルは自身とナニを全力で漲らせて反対派に接近する。逃げる反対派。彼らは気付いたのだ。自身の常識が通じない相手 だと。因みに北部の大衆酒場では泥酔した軍人の喧嘩と全裸は日常の一幕に過ぎない。その証拠に、護衛をしていた北部出身の鋭兵達は溜息を吐きつつも気が済 むまで放置しておこうと止めすらしなかった。

 挙句に「おっと服装が乱れているようだ」と襟元を正す仕草をして見せるザムエル。全裸に襟などありはしない。

 取材していた美人記者が全裸で言い寄られて泣く中、騒ぎを聞きつけ、〈北方方面軍〉司令部でザムエルの放置した書類整理に追われていた副官であるエーリカも顔を出し、全裸のザムエルを一撃で殴り倒して昏倒させる。

 斯くして事態は収拾される。

 しかし、翌日の紙面はエーリカがザムエルを殴り倒した写真が三面記事を飾る事になった。

 幸いな事に、皇都は再度の皇都擾乱で戒厳令が敷かれていた為、ザムエルの御乱行は報道されていない。

 そして、全裸の上官を暴行するという写真が流布した事に、エーリカが酷く落ち込み、ザムエルが療養除隊を勧めてもう一度、昏倒させられるという事件があったが、それを咎める者はやはり居なかった。

「俺の”ベルゲン擾乱”は軍事史に載るな」にやりと確信するザムエル。

 任命責任を感じる程にトウカは殊勝ではないが、副官のエーリカは事実上、放置されているとはいえ、ロンメル領邦軍司令官を兼務しているので気にせざるを得ない。

「軍事史で最も下品な将軍と書かれかねんな」

「誉め言葉かよ?」

 献杯に返杯を繰り返し、二人は程よく酔いの回る思考で言葉を重ねる。死した英霊に捧げる献杯は、残酷な事に幾ら杯を重ねても足りない。これまでも。これからも。

「賞賛した心算はないが……」

「無論だぜ戦友。絶賛してるんだろ?」

 二人して爆笑。

 階級差は有れども、二人は戦友であり、この場では軍人としてではなく私人として小さな宴席を囲んでいた。

 因みに其々の副官であるミユキとエーリカもまた別室で女子だけの宴席をしているらしく、そこにはリシアや何故かヨエルまで参加しているとの事であった。クレアは憲兵総監として重装憲兵聯隊と皇都憲兵隊の指揮を執り続けている為に不在である。

 ザムエルの盃が空になる。注ごうとするトウカだが、ザムエルは練炭上の鉄鍋で茹でられた二号徳利を熱いと眉を顰めながら抜き取る。御猪口の残りを一息に飲み干し、トウカは盃を受けた。

「また大勢が死ぬなぁ」感慨を滲ませたザムエルの一言。

 〈北方方面軍〉は大被害を受ける事が前提となっている。陸軍の再編されつつある〈中央軍集団〉程ではないにせよ主攻の一翼を担う以上、相応の被害は免れない。

「帝国主義者程は死なんだろう。汚い肥料だが、今季の北部は豊作だ」

 人馬の(むくろ)で北部の大地は肥え太り、鼓腹撃壌を謳歌する。それは、決して軍需産業による労働規模の拡大のみではない。労働規模の拡大は、消費人口の拡大であり、資金の流動性を向上させる。無論、トウカの皮肉の様に草生す屍が肥料となって穀物の収穫量が増大する可能性も捨て切れない。

「我国も帝国も、臣民が望んだ戦争だ」

 軍人の責任ではない。帝国主義者が餌を求めて南下し、皇国臣民の無理解がそれを助長した。故に交戦状態に陥った。皇国が軍備増強に手抜かりなくば、軍事 衝突自体が起生し得なかったかも知れない。適正な軍備と適正な外交は敵国の侵略の意図それ自体を、干戈を交えずして挫くのだ。

 しかし、戦後を見据え、皇州同盟の被害は低減させねばならない。

 幸い陸軍は後退戦で戦果を挙げ続ける〈北方方面軍〉や皇州同盟軍がトウカの派閥と見做されている為、対抗すべく自軍で戦果を挙げる事を熱望している。特 に装虎兵科と軍狼兵科が熱心であり、反攻作戦での主力となる事を熱望していた。陸軍総司令部と皇州同盟軍総司令部は、それを全面的に受け入れた。彼らは熾 烈な迂回突破を展開する事になっている。帝国〈南部鎮定軍〉の重装魔導騎兵師団との衝突は雪解けの泥濘の中での熾烈な運動戦となるだろう。

「最終的な兵力は予備を除けば三二万程度か……思ったよりも増えたな」

「志願兵など陣地防御以外では役には立たない。だが、皇州同盟軍は五個歩兵師団のみの投入で済ませられるのは有り難いな」

 軍狼兵や装虎兵などの兵科を主体とした部隊まで主戦場であるベルゲン近郊に展開する以上、総力戦であると帝国〈南部鎮定軍〉は判断するだろう。天使種主 体の三個装甲擲弾兵師団も投入される為、装甲戦力も存在する。規模の上では紛れもなく主力なのだ。ここに義勇兵と各領邦軍を糾合した集成部隊四個師団が予 備兵力として存在する。継ぎ接ぎだらけの編制の師団が主力と呼びを合わせて半数近いが、それらは金床として陣地防御に投入される予定であった。陸軍の見解 では装虎兵と軍狼兵、自動車化歩兵を主体とした七個師団による迂回突破が決定打なのだ。

 トウカは、帝国〈南部鎮定軍〉の重装魔導騎兵師団と重装師団、砲兵師団の足止めと側面攻撃に決定打となり難いと見ていたが。

「真の決定打は二つある」

 既にザムエルには伝えてあるが、複数の戦闘爆撃航空団と戦術爆撃航空団である。

 帝国南部鎮定軍の砲兵火力は、周辺諸国の一軍と比較しても絶大なものがある。火力戦で名を轟かす帝国軍内の部隊と比較しても火砲の数は圧倒していた。砲兵のみで師団を編制するという無茶を罷り通すのは、装虎兵や軍狼兵を突撃前に漸減するという目的がある。

 装虎兵と軍狼兵は、歩兵の陣地防御で阻止するには限界がある。それは内戦で弾性防禦すら部分的には突破されたトウカの実体験に基づく結論であるが、帝国 軍は干戈を交え続ける事で生じた固定観念染みた恐怖心に起因する。砲兵の直接照準を前提とした訓練など、明らかに至近に迫る装虎兵を目標としたものであっ た。迫る白虎の威容に恐れず、砲撃を続ける為であろう事は疑いない。常に曲射が叶わない事を前提に訓練を施している帝国陸軍砲兵部隊の狂気は、陸軍部隊の 大多数が速成教育課程のみを受けて実戦投入される点と対照的である。

 更には、帝国軍は機関砲を流用した自動砲大隊も師団編制に加えており、これは至近距離で中堅装虎兵の魔道障壁を正面から貫徹し得た。

 それらを粉砕せねばならない。

 帝国軍で最も高価な砲兵戦力の悉くを漸減するのだ。無理を押して投入した砲兵を破壊乃至鹵獲し、帝国軍の長所を漸減する事で今後の戦況を有利に導く。砲兵という技能職は一朝一夕に育成できるものではないので、人員の殺傷にも力を入れねばならない。

 航空戦力の投入による撃破も、帝国軍が航空騎を投入し始めた事で難易度を上げている。制空権確保の為、複数の戦闘航空団の投入による敵迎撃騎の排除を事前攻撃として行わねばならなかった。

 その熾烈な航空戦の間は、軍狼兵と装虎兵の迂回突破に戦闘の焦点が絞られる事になる。

「前に言っていたな。後方の遮断か。犬猫共が戦術規模で迂回突破するなら、御前は戦略規模で迂回突破をやらかす訳かよ」獣共が怒髪天だな、とザムエルが鼻で笑う。

「ヴェルテンベルク軍管区の〈ヴェルテンベルク軍〉はシュットガルト湖畔の島嶼に偽装展開している。陸軍の他地方から抽出した部隊も総兵力で九万程度……九個歩兵師団に相当する。御前の健在な二個装甲師団を加えると十六万名程度だ」

 帝国軍も〈フェルゼン守備隊〉やエルライン回廊の奪還の可能性に配慮して、エッセルハイム周辺に一〇個歩兵師団と戦車師団、複数の航空部隊を展開している。これを排除し、〈南部鎮定軍〉主力の後背を脅かすのだ。

 しかし、最大の問題は、南部地方と東部地方から抽出する陸軍九個歩兵師団の海上輸送である。初めての規模の輸送であり、重火器をフェルゼンで受け取り再武装化しての投入は予定よりも遅れる可能性があった。

 最悪、〈ヴェルテンベルク軍〉と二個装甲師団でザムエルには先鋒を担って貰わねばならない。

「フェルゼンは任せた、戦友」

「おう、任せろや」

 狭隘な地形のフェルゼン近郊では装甲師団の運用には制限が付く。守るは易いが、攻めるに難い地形で、装甲師団を最短距離でエッセルハイム近郊に進出させる事は難しいだろう。ザムエルが得意とする機動戦は難易度を増している。

 しかし、トウカはフェルゼンを攻撃発起地点としたフェルゼン戦線をザムエルに一任している。欲を掻いてベルゲン戦線と連動させようと無理をする心算はな かった。理想はベルゲン戦線で南部鎮定軍主力が総崩れする前に、フェルゼン戦線を押し上げて退路を断つ形であるが、不可能ならば、撤退する南部鎮定軍の側 面を突く形でも構わない。

「どちらが早いか……勝負だな」

 ザムエルが迅速に過ぎた場合、後方の遮断を恐れて〈南部鎮定軍〉主力が一時後退という選択をするという懸念が陸軍総司令部からは上がっていたが、トウカがそれを許さない。

 ベルゲン戦線ではトウカとアリアベルが指揮官として立ち、ティーゲル、ヴィトニルの両公爵家からは〈重装虎兵師団『インペリウス・ティーガー』〉と〈大 軍狼兵師団『カイザー・ヴォルフガング』〉が参戦する。七武家の将校も野戦指揮官として複数が加わり、皇国軍事勢力が一度に会した集団と言える規模にまで 膨張していた。

「奴らは引けない。国民の餌と貴族の恐怖、国家の名誉ゆえに」

 これらを撃破すれば、皇都までは平原地帯が続く事もあり遮るものはない。後方を遮断されても、皇都を陥落せしめれば戦況は流転する。帝国軍は国内の食糧事情と合わせて時間がなく、積極策を取らざるを得ない事もあり、安易な撤退は認められないだろう。


 我々には雅典(アテネ)の将軍トゥキュイディデスが紀元前四〇〇年頃に発見した「恐怖、名誉、欲」という三つの理由から、戦う事が遺伝子の中に組み込まれているのである。それが正規戦か非正規戦か、先端技術(ハイテク)基礎技術(ローテク)かに関わらず、この三つの要素が戦争というものを構成している。


 ザムエルは御猪口に熱燗を注いで手酌しながら呟く。

「なぁ、御前が帝都と南部に続く三都市を爆撃したのってよ、帝国の食糧危機を助長させる目的もあったんじゃねぇの?」

「まぁ、な。何百万という者が空襲という脅威に有効な手を打てずに炭化物(焼死体)となったが……そこは重要じゃない」

 本当は膨大な数の難民を生み出すという目的がより重要であった。帝都空襲は無数の副次効果が期待でき、それ故に強行したのだ。

 実際、トウカが考えた以上に焼死体が増え、相対的に難民は減少した。炎と煙に巻かれて死亡した者が多数に上り、生存者は想像より遥かに少ないが、トウカはそれを知らない。しかし、それでも尚、食糧の少ない冬場の為に貯蔵した食料も燃え尽きたのだ。

 専制君主制での食糧危機は革命に繋がる。

 運が悪い事に、現在の帝国には帝国主義の後釜を狙う共産主義者が跳梁跋扈している。それも、トウカが考える以上に優秀な無貌の指導者に統率された。

 共産主義を流布した当人であるトウカからすると、想定していた状況であるが、しかして潮流は想像以上に速い。燎原の火の如く混乱は広がっていく。

 ザムエルから注がれた熱燗を口に含む。仄かな酸が舌先を刺激する。

 呑み助であるだけあり、ザムエルが持ち寄った熱燗に合う米酒はトウカの好みに合った。トウカの好みを良く熟知している。

 そう言えば、とトウカは思い出す。

「海軍も全力出撃だ。戦艦一四に重巡二六隻……第一から第七までの主力艦隊を動員して海上輸送を気取らせない。まぁ、実は既に出港して皇海上にいるのだが」

「おいおい、そいつは盛大な陽動だな」

 帝国軍も皇国海軍の主要な軍港には間諜を張り付けている筈であり、早々に帝国海軍も要撃の為に艦隊を投入するのは間違いない。

 二人は鋼鉄の艨艟に思いを馳せる。

 皇国の命運を賭した決戦が始まろうとしていた。









「さあ、帝国海軍は出てくるか……」

 皇国海軍、連合艦隊司令長官フランツ・フォン・ヒッパーは、昼戦艦橋の窓から雨模様に荒海に佇む鋼鉄の艨艟達を一瞥する。

 艦隊決戦を求めて皇国連合艦隊は北上を開始している。

 万里の波濤を乗り越えて進む先は、帝国領ノヴォルジンスク。

 帝国海軍、大星洋艦隊基地を擁する沿岸大都市であり、要塞化された堅固なる防禦陣地でもある。帝国海軍が大星洋を睥睨すべく三五〇年以上も前に建設した一大根拠地で、建設以降は常に皇国に海洋戦力による牽制を加えていた。

 その一大根拠地を直撃するのだ。

 武魂烈々を標榜するヒッパ―としては、以前より上申していた計画が、この状況下で承認された理由を知っており、それが軍神によって協力に擁護された結果 であるとも理解していた。神州国海軍の動向を危険視する海軍府総司令部や連合艦隊司令部からは作戦を危険視する意見も出たが、トウカの言葉が伝えられた事 で沈黙を余儀なくされた。

 ――最悪、神州国海軍の艦砲によって、皇国西部の海軍基地全てが焼け落ちても構わない。

 彼は皇国海軍を磨り潰す事を躊躇していないのだ。

 本来であれば、国家戦略を立案、構築する将官として神州国海軍への備えや今後の海洋戦略、海域での軍事的影響力(プレゼンス)の喪失などを憂慮すべきであるが、彼らは同時に軍人であった。

 皇国存亡の危機に在っても尚、出撃が赦されない艦隊に意味はあるのか?

 無論、ある。現存艦隊主義による敵艦隊の拘束という使命は、近代の皇国海軍に於ける至上命題であった。陸軍将兵に等身大水上模型と揶揄されても尚、存在するだけで国家戦略上の価値があると断言できる。

 しかし、武名は廃る。同じ軍人でありながら祖国の為に夥しい血涙を流す陸軍軍人と比較される彼らは、戦海に恋焦がれていた。その理性と感情の板挟みは、内戦から帝国軍による皇国北部侵攻に至る現在まで、日増しに強くなるばかりであった。

 シュタイエルハウゼンが内戦時、エルシア沖海戦で巡戦一隻と戦艦二隻を戦列より失った後、皇州同盟軍に所属した事も、裏切よりも海戦の機会を得たという羨望があった。

 ゲルマニア沖海戦では帝国海軍南方辺境艦隊の一部を撃破したが、それは陸軍部隊の活躍や二つの公爵家より抽出された装虎兵部隊と軍狼兵部隊の活躍によって影が薄れた。

 結局、彼らは軍神の与えた理屈に頷いた。

 帝国への敗北した場合、神州国に対する備えなど意味はなくなるという事実に加え、どちらにせよ現在の皇国海軍の規模では神州国海軍に対する抑止力足り得ないという明言。そして、トウカの言うところの旧式の大型艦艇を保有し続ける必要はないという費用対効果を含めた発言。

 彼は、高速戦艦、重巡洋艦、艦隊駆逐艦を主体とした艦艇の共同開発を海軍に約束した。艦艇が失われるのであれば、更に強力な艦艇を更に多く建造し、更に 効率的な戦闘教義を立案すればいいと口にし、それに対する協力まで提示したのだ。拒否する理由などない。〈剣聖ヴァルトハイム〉型戦艦の設計思想が優れて いる事は、艦政本部も確認している。

 挙句に、彼は「人員の消耗を最小限にする必要はあるが」という注文のみを口にしただけで、作戦計画は海軍に一任した。

 帝国艦隊を拘束せよ。可能であれば撃滅せよ。作戦計画は一任する。

 端的な要請に、連合艦隊司令部は沸き立った。

 夢にまで見た艦隊決戦。作戦計画は自由。海軍軍人として奮励努力せざるを得ない条件である。

 翌日には、第一から第七……皇国海軍が主力とする七つの艦隊に皇海上への集結が下令された。三日後には、戦艦一四に重巡二六隻、装甲巡洋艦八隻、軽巡洋 艦一六隻、駆逐艦八四隻、各種支援艦九隻という空前絶後の大艦隊が皇海上に集結し、今まさに太星洋へと進出しようとしていた。

「閣下、大洋艦隊の〈モルゲンシュテルン〉より、長距離偵察騎を進発させたとの事です」

 航空参謀の報告に、ヒッパーは鷹揚に頷く。

 最近は航空戦力の再評価の機運も高まっている為か、戦意を特に漲らせている航空参謀は花咲くが如き笑みを湛えている。戦闘艦の環境には不釣り合いな光景であった。


 アルトシェーラ・フォン・デュナミス=レーゼンベルク中佐。


 天使種力天使族の女性佐官であるが、最近では特に軍務に精励している姿を見かける。以前では見かけぬ光景であったが、力天使とは元来、高潔を体現する存在である。実体化した奇蹟を以て、英雄に勇気を授受する存在と神話上では語られている。

「貴官から話を持ち掛けられた際には驚いたが、皇州同盟軍が認めるとはな」顎鬚を撫でるヒッパ―。

 最近の天使種は皇国の諸勢力内に在って存在感を増しつつあるが、それは海軍でも例外ではない。特に海軍航空歩兵出身の佐官や尉官が海軍航空隊の成立に合わせて指揮官候補として演習に講義、座学などに対して熱心な姿勢を見せている。

 ヒッパーは、海軍航空歩兵という斜陽の兵科が航空科に活路を見い出したと、派閥戦略上での判断と見ていたが、皇州同盟軍との交渉に成功するともなれば話は変わる。

 ――セラフィム公が軍神に全面的な肩入れを見せているというのは間違いではないのかも知れん。

 帝都空襲に皇都擾乱……軍神が酷く政治的意義を持つ出来事には常に関係している。政治的敵地に等しい皇都で軍神は狂った様に武力を用いる時点で、相応の背景があると見て間違いないが、目の当たりした訳ではないヒッパーは何処か懐疑的であった。

 航空参謀……アルトシェーラは、皇州同盟軍、大洋艦隊所属の〈第一航空艦隊『サクラギ機動部隊』〉の貸与を要請し、それを実現した。

 ヒッパ―は航空母艦という兵器を皇州同盟軍が非常に重視している事を理解していた。海軍の建艦計画への協力に航空母艦が対象に含まれていない事が、それを裏付けてもいる。

 手の内を知られるであろう航空艦隊の貸与に皇州同盟軍が頷く筈もなく、弾道弾の秘匿開発の規模を踏まえると人目に晒すとも思えない。ましてや航空母艦の 係留地としてフェルゼン軍港ではなく、シュットガルト湖上の海軍基地を利用して機密保護に努めている事からもそれは窺える。

 そして、〈第一航空艦隊『サクラギ機動部隊』〉は、帝都空襲の際、艦隊速度を上限一杯まで引き上げての強行軍であった為、長期間の点検補修(オーバーホール)の最中であったのだ。新造艦が大多数の為、船渠入りはしていないが、補修部品の発注規模で海軍船舶工作部と折衝があった事からも、点検補修(オーバーホール)が続いていると見られていた。

 本来、戦闘艦艇に限らず、海軍艦艇は基本的に同型を最低でも二隻は建造する。艦隊運用時に性能差から戦闘航海で不便が生じるという事や、量産性と運用に起因する補修部品、兵装の統一という部分もある。

 しかし、最大の理由は点検補修(オーバーホール)間 の代替艦艇を求めてである。余裕があるなら戦闘で喪失するであろう事を想定して二隻以上、建造する例も見られる。皇国海軍では、度重なる予算削減の影響か ら、新造艦艇であっても船体形状まで変更する事が他国と比して少ない。よって、船体構造はそのままで、上部構造物や兵装、機関などを変更した準同型艦が多 数建造されている。他国の軍艦愛好家から「面白みがない海軍」と揶揄される所以である。

 対する皇州同盟軍の〈モルゲンシュテルン〉型航空母艦は一隻しか存在しない。

 試験艦という側面が強いからであると想定されるが、彼らもまた限られた予算の中で軍備拡張を行っている。故に試験艦でありつつも、有事の際は戦闘にも寄与できる程度の性能を付与するというある種の矛盾を航空母艦に求めたのだろう。純粋な試験艦を建造する余裕がない故に。

 兎にも角にも、前作戦で無理をさせた〈第一航空艦隊『サクラギ機動部隊』〉が随伴している。

 因みに〈第一航空艦隊『サクラギ機動部隊』〉の駆逐艦とい軽巡洋艦は流石に後続距離から相当の無理を通した影響で随伴していない。結果、航空母艦一隻と、重巡洋艦四隻のみが、海軍艦隊に護られて陣形の最奥で航行している。

 経済的な巡航速度で航行している為、無理は乗じていない筈であるが、些かの不安が残る。

 御目麗しい力天使は、付近の空を飛び去る長距離偵察騎を一瞥する。

「彼らも無理をしています。その決意に報いねばなりません」

「であるな」

 ヒッパーとしても、彼らの信頼と決意に報いるのは吝かではない。そうであるからこそ、帝国海軍、大星洋艦隊の根拠地であるノヴォルジンスク沖への進出を、今一度、提案したのだ。そこまで踏み込めば出て来ざるを得ない。国威に関わる。

「造船所まで焼かれては再建に一〇年は要する。そうした意見があったが、それは帝国も同じだな」

「流石に、ノヴォルジンスク沖に進出するまでには迎撃があるものと思われます。造船所に関しては、皇国はヴェルテンベルク領の造船所があります。既に増強の計画が動いているという話もあると」

 初耳である情報に、ヒッパーは眉を顰める。

 北部……皇州同盟に関する情報だけが妙に深化している点を見ても、アルトシェーラに北部の情報が流入している事が分かる。皇州同盟軍が連合艦隊航空参謀 に接触しているのであれば、海軍情報部が警戒対象としてヒッパーに報告するはずである。大規模な作戦を控えた今であれば。

 ――そうなると天使種の紐帯か。種族内の連携確認には及び腰と見える。

 種族間闘争の絶えなかった建国当初の経緯から、情報部は種族内連携の諜報には及び腰であった。特定種族に対する敵対行動と見られれば、国是に抵触するからである。

「海軍では聞かぬ話だ」

「あ、いえ、海軍ではなく皇州同盟主体の計画です。帝国軍を本土より撃滅した後は、シュットガルト湖の湖岸全体を再開発地域に指定して、フェルゼン以外の湖岸都市の造成に取り掛かるそうです」

 内陸に引き込まれた内湾とも言えるシュットガルト湖は、大型艦の通行を可能とするだけの水深を持ち、地政学的に敵艦隊の侵入を寡兵で抑止できる。最悪、運河の最狭部は輸送船一五隻程度で閉塞可能で、地政学的に防禦側に酷く有利な地形となっていた。

 ――シュットガルト湖が、皇州同盟の経済と軍事に於ける心臓部となるか。

 時化も波浪も限定的で、商船建造や資源輸出に利用できる以上、それは当然の帰結と言える。

 しかし、実際、トウカは運河閉塞が可能であるという事実を重く見ていた。敵の閉塞作戦で艦隊がシュットガルト湖に逼塞せざるを得ない状況に持ち込まれる可能性もあるのだ。

 その為、運河の拡張と、資源輸出の停滞を重く見て、大星洋に面する運河周辺に複数の交易港を造成し、シュットガルト湖や工業地帯との間での鉄道網構築も また同時に予定されている。それは、マリアベルによる運河沿いの貴族領鎮定に於ける結果として、想定される複数貴族の貧困対策を含めた公共事業であった。

「その湖岸都市の目玉が造船所らしく、主体となるのは商船であるそうですが、それでも軽巡程度までの船体は建造可能です」

「有事となれば、民需を軍需に切り替えるか。アレならば考えるだろう」

 建造方式の変更まで提案する効率主義者が、造船所の汎用性を求めない筈がない。

 海軍にとり、彼が旧北部統合軍時代に提出した“海上権力史論”や“海洋戦略の諸原則”は衝撃を与えただけに留まらなかった。沿岸海軍から外洋海軍への転 換を目指す海軍派閥は、トウカに海軍府総司令部に於いて然るべき立場を与えるべきであると口にして憚らない。今作戦の提唱自体も、そうした動きを助長させ た。

 だが、ヒッパーとしては、彼の海軍に対する姿勢は論文ではなく、建造計画と政治経済が連動している点にこそ現れていると見ていた。

 積木(ブロック)工法により、以前までは造船所 とは無関係であった企業までが艦艇建造に関わる事が可能となる現状、重工業が密集するヴェルテンベルク領に海軍造船所を併設するのは建造速度の短縮と予算 削減にも繋がる。そして、北部で貧困に喘ぐ周辺の貴族領から大量の労働者を受け入れる事が叶う。

 海軍艦隊の増強と皇州同盟軍艦隊の増強は、北部の経済政策と連動している。海軍の建艦計画に関しては政府予算が当てられ、それは当然ながらシュットガルト湖の開発にも当てられるだろう。皇州同盟軍は、政府予算で領内に巨大な造船所を獲得しようとしている。

 ――サクラギ元帥は、強大な海軍成立を経済対策の一環として行おうとしている。

 だが、その海洋戦力はいかにして使用されるのか?

 彼が大艦隊を大星洋に展開して満足する程度の人物ではないのは、内戦と今次戦役を見れば明白である。その戦力増強はそれ自体が利益を生み出すのは勿論、行使も視野に入れている筈であった。

 その辺りだけはヒッパーにも測り兼ねた。神州国海軍を伍するには三〇年は要するに違いなく、利益を生み出す棍棒とするには些か時間を要する。そして、それだけの時間と資金を投じる余地があるとも思えない。

 彼の望む海軍の使い道を、ヒッパーは憂えていた。

 民衆は忘れがちだが、軍艦にも兵士が搭乗しているのだ。駆逐艦一隻に中隊規模の乗員が搭乗し、弾火薬庫への直撃ともなれば生存者すら居ない状況も珍しくない。

 トウカの言動を見るに、水兵の損耗に対する留意はしているが、帝国北方にまで押し込んでの艦隊決戦を希求する時点で、その辺りにも疑問が生じる。水温の 低い海域での艦隊戦での溺者救助の経験を持つヒッパーは、そうした場合の生存者が極めて少ない事を知っているのだ。海へと落ちれば忽ちに体温を奪われ、意 識を失う。軍装に編み込まれた保温術式はそれ自体が周辺温度に合わせて熱を帯びるが、海水の流入を阻止する訳ではない。

 ヒッパーは、艦首が波濤を突き崩して進む光景を見下ろす。第一砲塔が海水を被り、錨鎖が嘶く。

 どの道、ヒッパーは艦隊決戦に赴くしかない。

 彼は皇国海軍連合艦隊司令長官である。海軍実戦部隊の総指揮官として、夷荻の艦隊を水底へと沈めなければならない。

「新聞社が連合艦隊の勇姿を報道したらしいな。尚更、負けられぬ」

 海軍は喧伝の為に許可したが、大々的な艦隊出撃の公布は帝国海軍へ挑戦状を叩き付けるという行為に他ならない。

「これに勝利できたならば、来年度予算の増額も叶うでしょう」

 アルトシェーラの言葉に、ヒッパーは頷く。

 内心の言い知れぬ危機感と恐怖を押し込んで。

 

 

 

 

 

 

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「徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である」

     《仏蘭西革命政府》 政治家 マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール



我々には雅典(アテネ)の将軍トゥキュイディデスが紀元前四〇〇年頃に発見した「恐怖、名誉、欲」という三つの理由から、戦う事が遺伝子の中に組み込まれているのである。それが正規戦か非正規戦か、先端技術(ハイテク)基礎技術(ローテク)かに関わらず、この三つの要素が戦争というものを構成している。

      《大英帝国》 国際政治学者 コリン・S・グレイ