第二二四話 戦争経済と部分動員
「前線では一部が機動戦で対抗していますが、全体としては押されています」
リシアが読み上げた報告書に、トウカは言葉を返さない。
彼の当初の予想よりも帝国〈南部鎮定軍〉の攻勢は苛烈であった。皇国軍の遅滞行動にも限界があり、避難民の一部が帝国軍に捕捉される事態も数多く起きている。
既に四月を迎え、雪解けは終えつつある。近年では珍しい程に雪解けが遅れた中、機動戦は酷く複雑性を増した。軍狼兵や装虎兵……皇国陸軍の主力戦車まで もが、泥濘に足を取られて機動力を封じられた。北部での軍事行動を基本とした皇州同盟軍の装軌式車輛は履帯幅を広く設計されている為、泥濘の中でもある程
度の移動は可能であったが、それでも限界はある。一部の部隊の様に、森林地帯を切り開きながら敵の後背を突くという真似は多用できるものではない。
トウカは陸軍府総司令部の窓際で、幾条もの黒煙が立ち上る皇都を無表情に見据えていた。
本来は、歓談に使われる陸軍府総司令部の片隅……休憩室の一つで、紅茶を飲みながら彼らは会話をしていた。
皇州同盟軍総司令官、サクラギ・トウカ元帥。
皇国陸軍府長官、バルタザール・フォン・ファーレンハイト元帥。
皇国海軍府長官、アロイジウス・エッフェンベルク元帥。
皇国衆議員、ヨエル・リエ・フォン・ネハシム=セラフィム公爵。
錚々たる顔触れに、リシアは多大な緊張を強いられていた。加えて、トウカへの批難が相次いでいる事に憂えている。
避難の間に合わぬ国民、そして避難を拒絶した国民が戦火に巻き込まれ虐殺される事案は既に数えるのも馬鹿らしい程に生じている。それらを好機と見て取った左派系政治家が左派系新聞社に情報漏洩を行ったのだ。
ここに来て、トウカの権勢は揺らいでいる。
無論、トウカも座してはいない。否、トウカ自身は何一つしていないが、トウカの下で皇都擾乱を戦った右派勢力が黙っていなかった。
左派系新聞社が焼き討ちを受けて多くの焼死者を出し、左派系議員も闇討ちによって既に三名が死亡している。彼らはトウカの権勢を守る。反対意見を徹底的 に弾圧してでも。それが、自らの主張が間違いではなかったと証明すると理解しているからだ。急進的主張は、急進的行動によってのみ埋め合わされる。
皇都が再び擾乱している。
しかし、戒厳令は敷かれておらず、警務府のみが対応に当たっていた。既に、皇国軍に予備戦力の余裕などないのだ。国家憲兵隊すら輜重線の防備に充てられ ている。故に荒れ狂う右派勢力が、トウカに否定的な意見を暴力で封殺する事を全面的に認めるしかない状況であった。皇国議会も無期限閉会されている。
シュトレーゼマン首相は、国事行為の職分を五公爵に委ねた。既に議会も機能を喪っている。衆議院は民衆の暴力と混乱に纏まりを喪い、貴族院は職を辞して従軍を選択する者が相次いでいる。
皇国は分水嶺を迎えた。
虐殺の画像が新聞に掲載された事で、国民は理解したのだ。帝国主義者は皇国臣民を根絶やしにする心算なのだと。無論、妥協の余地がない故に、最終的には軍主導で挙国一致体制となるだろう。
軍内部では、それらに対する動揺はなく、寧ろ、トウカが大規模避難を提唱せねば、これ以上の悲劇が起きたという評価がある。彼らは犠牲を覚悟していた。全てを喪わずに済む事なお有り得ないと職業柄ゆえに理解している。否、せざるを得なかった。
しかし、要撃以外で航空部隊の投入を行わない姿勢に対する疑問は生じた。
反転攻勢の為、Ⅵ号中戦車を主体とする装甲部隊や戦闘爆撃航空団などは増強と温存が成されていた。総ては一撃で〈南部鎮定軍〉を壊乱させる為に。
「サクラギ元帥、どうなさるのでしょう?」
右上翅で口元を隠したヨエルの一言。声音に批難の色はない。
トウカが首を傾げて微笑む。
「セラフィム公、皇都の混乱は捨て置いて構わないかと。後背であるものの、輜重線上にはなく、軍需物資の策源地ではない」
「同意します。荒れるに任せると宜しいでしょう。それとも帝国軍を引き入れますか?」
皇都に、と続ける熾天使に、リシアは言葉を失う。
陸海軍府の両長官の表情は青を超えて土気色であった。ヨエルという熾天使の権勢は無形だが、確かに存在する。帝都空襲に随伴し、航空歩兵の拡充と皇州同盟……トウカへの支持を明確に打ち出している唯一の公爵であり、彼女は好意と熱意を隠さない。
「皇都をスターリングラードにしたいと? ふむ、そこまで引き入れるなら中央貴族も瓦解するか。戦後を踏まえると悪くはないが……」トウカは思案の表情である。
正気ではない。一国の首都を進んで戦場にしようというのか。
二人は時折、余人には理解できぬ言葉を扱う。二人の間には巨大にして膨大な共通認識があるのだ。よって、その思考は読み取り難い。
「八カ月の大都市の攻防戦で、両軍が二〇〇万名近くを喪った。六〇万の市民は一万を切るまでに消耗したと聞く。それは皇国にとって許容できる消耗か?」
「許容はできません。しかし、戦後、有象無象の貴族と左派が喚くと予想されるのなら、現実を彼らに教える事も支配者の責務と言えるでしょう」
長く挙国一致を継続する為の対価として過大であるかとの問いに、ヨエルは已む無しという姿勢である事を明白にさせた。彼女は政治に関わる人物でありながら、常にその判断と決断が明確である。正邪の境界線を渡り歩くという真似をせず、常に断ずる。
「私は支配者ではない。指導者だ」トウカは呆れ顔。
リシアは、ヨエルに対して抑圧と煽動の違いではないのかという疑問を飲み込み、報告書を読み上げる。
「前線では、砲兵が砲身が焼けぬよう、水を浸した襤褸布を砲身内に付き込み、砲撃不能になるのを防ぎながらの砲撃を行っているとの事です。砲身に霙雪を掛ける真似をしている部隊もあると」
魔術による冷却は、魔力消耗で兵士が披露する為に避けられている。
無論、それでも尚、腔発は増大していた。砲身命数を無視した砲撃を続ければ、そうした結末を迎えるのは砲兵も理解しているが、それでも前線の塹壕で必死に砲兵支援を叫ぶ友軍の為、彼らはいつ暴発するかも分からぬ砲に身を寄せて砲撃を続けている。
戦力に劣る状況を押し留めているのは、一重に砲兵隊の挺身によるものに他ならない。無論、塹壕戦を繰り広げる歩兵も重要だが、彼らもまた砲撃支援によって生かされている状況である。
「タンネンベルク重工の噴進弾発射機も活躍していますが、生産量が足りません。許可生産が各地で始まっていますが、生産工程の構築中で、各企業は増員を求めております」
リシアの報告には救いなど一つもない。
故に陸海軍府、皇州同盟軍の参謀間での会議で一つの提案がなされた。それを彼らに提案する役目をリシアは押し付けられたのだ。若輩者が組織で面倒を押し 付けられるのは、軍隊であっても変わりはない。銃火の伴う面倒でないだけ救いがあるとすら考えられなくもなかった。軍事に於ける面倒とは常に命懸けだ。
リシアは、三人の将帥と一人の公爵を見回す。
「戦争経済への移行と部分動員を進めるべきかと」
声が震えていただろうかと場違いな方向に逸れそうになる思考を叱咤し、リシアは四人を窺う。
ヨエルは、楽し気な視線を以て口元を右上翅で隠したままである。寧ろ、トウカへの視線に妙な熱が籠っている。平素と変わらない。色惚け天使である。
トウカは、机上に置かれた焼菓子を紙に包んでいる。ミユキへの土産の心算かも知れないが、一軍の総司令官としては些か貧乏性が過ぎるのではないか。
ファーレンハイトは、空になった紅茶の茶碗に開き直って携帯酒筒のウィシュケを注いで嗜んでいる。御自慢のカイゼル髭が酒精の前に萎びていた。
エッフェンベルクは、紅茶に果醤を大量混入しており、糖質の補充に躍起になっていた。粘度が増した紅茶は口元で糸を引いている。正視し難いものがあった。
其々の反応に、リシアは言葉を発せず、四人の言葉を待つ。
「しかし、効果が出る前に決戦だ。必要ないのでは?」ファーレンハイトが酒精交じりの吐息で問う。
確かに、戦争経済や戦時動員への移行というのは、各府や行政、企業との調整が必要で、そこから効果を発揮するにも相応の時間を要する。国家という巨大な歯車が姿勢を変えるには、多大な労力を必要とするのだ。
「でも、〈南部鎮定軍〉を撃破して終わりになるとも思えないけど」エッフェンベルクが端的な懸念を口にする。
以前までのエルライン回廊攻防戦ではなく、本土決戦となった以上、民意が容易に矛を収める真似を赦さないだろう。向こう見ずな左派が夢想家として弾圧される未来は避け得ない。喪った者達が叫ぶ正論は余りにも大き過ぎ、右派はそれに寄り添う形で報復を叫ぶだろう。
何より、トウカも満足しない。
彼の権勢は戦時下に在ってこそ維持される。平時に戻るには未だ彼の権勢は盤石ではない。何より、今回の民間への被害報道によって、幾分か損なわれたの だ。主犯格ではなく、大多数を救おうとした者を批難する売国奴は何時の時代にも存在し、それに踊らされる知性に乏しい者もまた同様である。
「天使系種族の長たるネハシム=セラフィム公は、戦争経済と部分動員の必要性を認めましょう」
三対の翅を揺らし、頭上に光輪を出現させた熾天使。天使系種族の公式見解たらんとする姿勢に、陸海軍府の長達が唸る。
彼女は徹頭徹尾、愛国者である。皇国保全の為、多くを犠牲にする事など躊躇する事ではないのかも知れない。彼女にとって、皇国とは国民や財産、資源に根差したモノではなく、天帝の御稜威の下で示される国家という枠組みに他ならないのだから。
「では、その辺り、セラフィム公から七武五公に提案していただきたい。政府への説明は両府の長官が行うのが宜しいかと。流石に小官では問題でしょう」トウカは肩を竦める。
トウカが皮肉を乗せて提案した場合、通る提案も通らなくなる恐れがある。無論、彼とて場を弁えはするであろうが、相手に拒否させ、利敵行為であると声高 に叫ぶ事で相手の政治的失墜を狙いかねない。衆議院の左派政党を沈黙と消極的協力に追い遣ったとはいえ、軍人であるトウカは弱体化した敵を撃滅する事に何 ら躊躇しないのだ。それが軍人が政治を行う際の悲劇と言える。
それを行えば、議会政治は事実上の終焉を迎えるだろう。国内の意思統一と言えば聞こえは良いが、政敵の過度な排除は警戒と恐怖を生む。無論、既に手遅れの感も否めないが。
「しかし、近年稀に見る国家としての統一感では?」トウカが苦笑を零す。
一瞬、リシアはその意味を計りかねたが、その場の面子の肩書を思い出して納得する。五公爵の一柱と陸海軍府の長官。北部軍閥の最高指揮官。国内に於いて競合する職責にある者までもが集い、国難に対しての議論をしているという状況。以前では実現できなかったものである。
「何処かの誰かが、無用の内戦を行ったが故の戦力払底。致し方あるまい」ファーレンハイトがぼやく。
リシアは、挑発してくれるなと思いつつも、トウカに視線を向ける。案の定、トウカは瞳に怒りを滲ませていた。
「ほぅ、無用の内戦? 斯様な暴挙は捨て置けない。誰ですか? そんな内戦を行った者は。処理するべきかと。皇州同盟軍は御手伝いしますよ」
心底嘆かわしいと言わんばかりのトウカは、北部の蹶起は必要であったので“無用の内戦”の定義には当たらないという言い回しを以て応じている。リシアは心の奥底で同意しつつも、良く回る口先に感嘆していた。
北部の貴軍官民の感情として、蹶起は生じて当然のものであった。
皇国政府という統治機構の健全性が低下し、民意は倫理的にも道徳的にも低下していた。その中で、最も被害を受けた、或いは被害を受けるであろう皇国北部 は状況打開の為、様々な計略を打った。最終的には蹶起となったが、それ以前は、領邦軍体制の解体と、方面軍創設という提案すらあった。無論、それは蹶起
後、トウカによって実現した。陸海軍の影響力を大きく減じた形で。ある種、それこそが皇国北部の陸海軍に対する不信感の表れを象徴している。兵器売却や軍 事演習などを行っても、決して指揮権と人事権を一任する真似だけはしない。
ヨエルは肩を竦める。その点から見ても、彼女が一般市井に流布する類の愛国者ではないと察する事ができる。
彼女にとり、内戦に於ける人的被害を含む各種被害は、挙国一致体制に移行する必要経費として扱われているのかも知れない。恐らくは、その中にマリアベルも含まれているのだろう。
「なら、君にとって北部内戦の定義は奈辺にあるのかな?」聞かせて貰えるかい、とエッフェンベルク。
敵意も隔意も窺えない純粋な興味を覗かせたエッフェンベルクの問い掛け。参謀将校出身者らしい姿勢と言える。
「国防ですよ」トウカは今更であると言わんばかりに吐き捨てる。
北部内戦に於ける蹶起軍や北部統合軍の軍事行動を国防の一環と断言するトウカ。それに陸海軍府の長官が眉を顰める。北部が一つの国家であるという姿勢に対してのものであろう。
「北部は一つの国家だった。無論、統一された指揮系統を持つ軍に、独自の税制と法律と立法を有するなどという建前の依らしむるところではない」
統治機構が政戦を指導者の意思で選択できた時、国家は初めて国家たるを自覚する。いかなる国家体制であっても、国家の成立とは斯くある事を捨てられない。その大前提を満たす要素を、トウカは絶対的必要性を伴うものではないと言い切ったのだ。
ヨエルを一瞥したトウカ。
「一つの人間集団は、その所有物の全体を共同して防衛するように結合されている時にのみ、国家と称することができる……と言ったところでしょうか」ヨエルが嫋やかな笑みで答える。
何処かの誰かの下に集い、一つの存在を、集団を組織して守ろうとするならば、それは最早、国家以外の何ものでもない。
成程、とリシアは得心した。無論、その言葉の是非に対してではなく、彼自身の政戦に於ける姿勢を示す言葉としてである。
彼が常々、宗教勢力や経済集団に対しての苛烈な姿勢は、彼らが根本的に国家足り得る要素を内包しているからなのだ。
宗教勢力は、教義や信仰という存在の為に宗教主義者が集い、指導者の下で統率される。
経済集団は、利益や権利という存在の為に拝金主義者が集い、指導者の下で統率される。
ヨエルが口にした国家の定義を満たしていると言える。
トウカにとり彼らは潜在的な反政府勢力なのだ。政権に取って代わろうとする実力集団。だからこそ、自身の上位に立つ真似を許さないとばかりに漸減し、立場を理解させる。必要以上の拡大を抑止し、過度な浸透を阻止せねばならない。
「意志ありて、それは国家足り得る」
トウカにとり、権力に結び付いた、或いは結び付こうとする集団は、その全てが潜在的脅威なのだろう。指導者が見解を異にする国内集団の意見に左右され、 国益以外を配慮せねばならない状況を、彼は酷く”嫌悪“している。正邪ではなく、嫌悪である。彼の姿勢には、国益を浪費する事に対する本能的なまでの拒否
感や忌避感がある。彼自身の過去に根差した理由であろう事は容易に想像できるが、リシアは未だその点に対して踏み込めないでいた。
「是非云々ではなく、政府は北部での不満と不安が地方全体での共通見解となる余地を見逃した。そして、それらの感情が一つの意思の下に集う危険性を見逃した」
政府官僚が居れば、蒼白となっていたであろう指摘である。近代の幾代かの天帝の路線を踏襲したという錦の御旗を持つ左派勢力への配慮ゆえに、叛乱が起きるまで不満を放置せざるを得なかったとは言え、統治機構として誤判断である点に変わりはない。
「正直なところ、不満と不安は、まぁ、良いだろう。許容した時点で知能に疑いがあるのは確かだが、状況が状況だ」
権威主義的な要素のある国家で、権威の象徴が掲げた錦の御旗の威力をトウカは理解している。その点からも、彼の祖国には権威があったのだと判断できる。
彼の言葉の端々に滲む異郷の理論と常識を繋ぎ合わせるべく、思考の海へと埋没しかけたリシアだが、トウカの次の発言で思考の海は蒸発した。
「小官は、その一点を以てして皇国政府が北部の独立を許容したと判断している」
驚くべき判断である。流石のヨエルも口元が引き攣っている。
「拡大解釈も甚だしいぞ!」「それは、流石に……」陸海軍府の両長官の異論。
しかし、トウカは動じない。
「この拡大解釈がさも当然の様に通る程に北部に根差した遺恨は深い。その事実がある点を忘れない事です。努々、戦後に北部に余裕ができぬようになる工作は止めるようお願いしますよ」
驚くべき程に大胆な恫喝である。端的に言うなれば、『戦後の北部に不利になる真似をしたり、不利になる意見に同調したりしたら、次は独立戦争だ』という宣告である。
勝算はない。既に北部はこの対帝国戦争で多くを失いつつあるのだ。一度、占領された故郷は荒廃している事は疑いなく、収益を望める筈もなく、有りもしない物資を放出せねばならない状況である。再戦の余地などない。
「北部は今次戦役で荒廃著しいであろう。再戦など不可能だ。彼我の戦力差は歴然であろう」ファーレンハイトの指摘。
リシアも、業腹であるが、その指摘には同意できる。
再度の内戦ともなれば、〈北方方面軍〉は分割され、陸軍と皇州同盟軍に再び分割、糾合され干戈を交える事になるであろうが、北部統合軍に彼らを受け入れ る食料と物資を有してはいない。陸軍に国土防衛を投げ出す事で、軍事費を抑えつつ、特定の軍事分野に資源集中を行うというのが、総司令部と参謀本部の決断
なのだ。それ程までに困窮は著しいと言える。指揮権を譲渡しない儘に、〈北方方面軍〉編制の人員と予算を拠出させたトウカを評価する者は貴軍官民にも多 い。
それらを捨てて再戦を選択するのか。リシアには、大多数がその選択を支持するとは思えなかったが、トウカには別の見解があるのだ。
「郷土が荒廃し、雨露を凌ぐ家屋は打ち壊され、明日の食糧にも事欠く有り様。そして、埋葬すら終えていない隣人の遺体が転がる。それが戦後の北部の実情に他ならない」
トウカ心底と辟易としている。そんな事も理解できないのか、と言わんばかりの姿勢である。
「喪ったと自覚した彼らは、その原因を政府や陸海軍に見るだろう。俺がそう仕向けるし、既にその土壌は成立している。或いは、何もせずともそうした意見が主流となるだろうな」
激しくあればある程に、憎悪とは誘導し易い。現在は、国内よりも根本的な原因である帝国へと誘導されているが、その方向性が内戦後、再び国内に向かない という保証はない。トウカが帝国領内への侵攻を声高に叫ぶのは、北部臣民の憎悪を帝国に向け続け、軍事力と経済力を帝国との戦争に裂き続けて、国内への憎 悪の余地と余裕を物理的に残さないようにという理由もあるのだ。
しかし、それは英雄となった彼の一言で転ずる事が叶う矛先とも言える。
「だから囁くのです」トウカは嗤う。
英雄の笑みではない。猛き軍神の嘲笑である。彼はその自覚があるがゆえに、英雄と呼ばれることを忌避する。少なくとも、英雄は率先して内輪揉めを行わない。
「足りないならば、ある場所から収奪するしかない、と」
誰しもが言葉を失う。収奪が主目的の戦争。それも、独立戦争に名を騙った酷く原始的な争い。凡そ文明圏国家としての在り方ではない。
トウカの嘲笑のみが低く響く。
「俺は必要とあれば、やる。そう誓った。誓ってしまったのだ」
そして、その代償を支払った、とトウカは憎悪を瞳に滾らせた。敬語が崩れる。
彼は戦争を躊躇しない。一切合切悉くを暖炉に焼べる薪の如く戦争という災禍に投じるだろう。
「皇州同盟軍成立に当たり、北部臣民に安定した仕事と食糧……日常を約束した。いや、違うな。それは」言い訳だ、とトウカは自嘲する。
「俺は、マリィの亡骸に誓ったのだ。ヴェルテンベルク領を、北部を護る、と」
リシアは息を飲む。
断じて護る。それが叶わないならば、他の総ても巻き込んでの壮烈な滅亡を躊躇わないという決意。歴史の一頁となるを進んで成すという意志。
「セラフィム公……貴公はそれで佳いのでしょうか? 流石に皇国が、その口にするのも畏れ多いですが――」エッフェンベルクの言葉。
「滅亡すると?」軽やかな笑声のヨエル。
誰しもが憚り口にしない一言を易々と口にしたヨエル。トウカは愉快だと言わんばかりに、ヨエルを一瞥した。
「国難であればある程に、次代天帝陛下の威光を遍く知らしめる事が叶うでしょう。滅亡を伴う程の国難? 喜ばしい事ではありませんか」次代天帝陛下が到来するに相応しい舞台でしょう、と頬を上気させた熾天使。
彼女にとり、《ヴァリスヘイム皇国》とは舞台に過ぎないのだ。
ヨエルは何故か皇国の繁栄を疑ってはいないが、一度滅亡しても尚、再興が成せると言わんばかりの姿勢ともなれば、彼女には何かしらの確信……勝算や打算があるという事になる。
トウカは、紛れもなく本心とも言える一言を放った気恥ずかしさに咳払いを一つ。
「まぁ、今の共和国大統領は、中々に話の分かる人物だ。神州国も付け入る隙はある」
両国の支援が望めるのであれば、滅亡しても総てを失うという結果になるとは限らない。国内政治が複雑怪奇な神州国と、今まさに挟撃を受けている共和国に、皇国の体制を保全する程の支援を望めるのであれば、という前提となるが。
「あら? いけませんよ。大統領の知識は貴方が望む程のものではありません。一度、会っただけの人物を信頼するのはいけませね」
「……俺の私生活を覗き見している天使が何を白々しい。だから貴公は信頼を置けなかったのだ。そもそも、先程の言葉は何だ。そこで言うべきは、ヘーゲルなどではない」眉を顰めたトウカの一言。
しかし、トウカの口元には笑みがある。軽口であろう。陸海軍府の両長官は目を瞠る。皮肉ではない軽口は酷く珍しい。軍神と熾天使の関係が計り難いもので
あるのは政府官僚や貴族の間でも有名となりつつある。連携しつつ、好意を隠さないヨエルに対して、トウカが常に一歩引いた姿勢を堅持している。種族間の力関係に纏わる問題を避けていると一般的に見られているが、リシアは違うと見ていた。
「あら、なれば貴方は何と嘯くのでしょう?」
天使への憧憬と幻想種への好奇心、過度な共通認識に戸惑いを見せているのだ。リシアに言い寄られた出来事は有耶無耶にしたが、ヨエルの場合は政戦を踏まえて、苦しい距離感を迫られているのだろう。
「自己をあらゆる武器で守ろうとしない制度は、事実上自己を放棄している」
酷く軍人らしい一言と言える。
「その論理が許されるのであれば、確かに軍事的には夜警国家である事すら叶わなかった皇国は武力併合を受けても已む無しという理屈となりますね」
リシアは夜警国家という言葉に首を傾げる。既存の政治哲学にはない言葉である。
夜警国家とは、トウカの世界の国家論で、自由主義の下、国家体制を安全保障と治安維持に必要な最小限のみとする自由主義国家を目指すべきとする考え方 で、本来は自由主義国家論と呼ばれる。故に自由主義ではなく、天帝の下での体制を前提とした皇国には当て嵌まらない。それ故にヨエルは“軍事的には”とい う前置きを付けた。
リシアは、その辺りよりも、共和国大統領と接点があるかのようなトウカの物言いに、自身が与り知らぬ計略が進んでいるのではないかと疑う。
「自己を放棄した国家の領土であれば、領有しても問題はない……ですか? 夜警国家たるの基準を読み違っただけと、歴代天帝陛下と政治家達は抗弁するでしょう」
追及すると歴代天帝の非難に繋がりかねない会話だが、ヨエルは然したる感慨を見せる事すらない。陸海軍府の両長官は従卒を呼び付けて周囲の人払いを命じていた。その従卒も顔色は土気色に近い。
「公爵、公爵閣下、貴公の愛国心は奈辺に御座いますか?」エッフェンベルクが縋る様に問う。
彼は激変する軍事情勢と政治情勢に、頻繁に方針修正を迫られている海軍という組織の長である。予算配分が陸戦主体の現状で不利となり、彼は海軍内の不満を抑えるべく厳しい立ち回りを迫られていた。国内に於いて皇州同盟への依存が最も強い組織であるという風評もある。
その中で、公爵がこうも鮮烈に皇州同盟の支持を明確にするというのは、新たなる火種となりかねない。否、既にヨエルは飛行種と紐帯を図ろうとしている。
先日、飛行種による会合が持たれたという噂が、飛行種の中でも低位種が主体の妖精系種族や鳥系種族の中で囁かれている。彼らの期待感故に話を内々に収め られよう筈もない。しかも、同日には天使系種族が師団長を務める三個の装甲擲弾兵師団が、迂回突破と天使系種族主体の近接航空支援も運用する事で成功して
いる。敵軍の撃滅ではなく物資集積所や輜重線の破壊が主要目標であった為、容認された限定攻勢だが、実情としては装甲部隊の機動打撃を真似たものに近い。
ヨエルとトウカの連携は周囲の想像以上に強固なものである事を窺わせる。
トウカはヨエルの攻勢に対し、然したる意見を口にする事もなかった。これの意味するところを、天使系種族の既存権力基盤への浸透を認めたと見る官僚は少なくない。天使系種族が各府で派閥形成を試みている点も、その予想を助長させた。リシアもそう見ている。
ヨエルがエッフェンベルクの問いに思案の表情を浮かべる。
熾天使が何かしらを口にしようとした時、軍神が右手でそれを制して口を開く。
「過剰なる野心こそが愛国心の本質であり、非業なる死の可能性こそが全ての夢想浪漫の核心である。故に軍国主義者や愛国主義者、職業軍人とは皆、夢想家であり、戦争が単なる社会的現象である事をどうしても認められない」
トウカが「まぁ、その辺りだろう」と口にする意味は明白である。
ヨエルの愛国心が野心に根差したものであると明言し、そもそも陸海軍府の両長官は戦争や愛国心を特別視しているに過ぎないと苦言を呈しているのだ。愛国心や将兵ですら消耗と補充という扱いとするトウカの価値観に依る発言は、陸海軍府の両長官を押し黙らせた。
トウカの声音は平坦で感情を窺わせない。
しかし、そこには威があった。燦然たる実績と他者を陥れる事を厭わない梟雄としての威である。
リシアは気圧されるが、ヨエルは変わりない嫋やかな笑みの儘であった。寧ろ、熾天使は喜悦に震えている。
「無論、小官は貴官らが夢想家である事を咎めないが」
意外な事に、軍神は戦争や愛国心という事象や資源に対する特別視に、苦言を呈している訳ではなかった。
気恥ずかしげなトウカが鼻柱を掻く。
「俺も死んだ女の意志なんてものを継承して戦争をしている。残念ながら我々は遅きに失した。最早、戦争を特別視しながら、臣民が死した英雄となる様に戦地へと送り続けるしかない」
皇国の驕敵の一切合財悉くを討ち滅ぼすその日その時その瞬間まで、と付け加えるトウカ。
彼は戦争を特別扱いする事を……死した女の意志を継承するという事実の吐露を、彼は酷く愧じている。その決断と決意に対してではない点が彼らしい。
リシアは、含羞の色を浮かべたトウカの宣言にぎこちない笑みを湛えた。
――どいつもこいつも、生暖かい目をしやがって。
トウカは机に視線を落として鼻を鳴らす。
彼としては、陸海軍府の両長官を励ますなどという高尚な事を考えての発言であった訳ではなく、愛国心と事ある毎に叫ばねば話が進まないでは困るという皮肉を含ませての言葉であったが、トウカも口にし終えたところで気付いたものの後の祭りである。
若しかして、自分は酷く恥ずかしい事を口にしたのではないのだろうか?
そう訊ねる真似はしない。ヨエルの視線が一転して鋭利となったからである。
――しかし、ヨエルめ。余りにも知り過ぎている。共和国の大統領の比ではない。
トウカの元居た世界に於ける歴史や知識を知っているというだけには留まらない。それではバルバストルと同様である。最大の違いは、それらを政戦に反映する程でるという事である。
陸軍の三個装甲擲弾兵師団が天使系種族の巣窟となっていた事に驚きはしたが、実際のところ各種族は資金援助という名目で陸軍への献金と引き換えに陸軍隷 下で自種族を主体とした部隊編制を行っている為、決して天使系種族だけのものではない。寧ろ、虎系種族や狼系種族などは遙かに盛んに行っている。相違点
は、前者が少数の師団規模編制を重視した事に対し、後者は、各師団に編制される連隊規模、大隊規模の部隊を多数編制した点にある。特定の部隊に絶大な影響 力を求めるか、大多数の部隊に影響力の切っ掛けを用意するかという方向性の違いはあれども、指揮権への影響力の可能性を踏まえれば、陸軍の予算不足に苦し む姿が垣間見える。
装甲車輛の導入に積極性を見せるのは、或いは虎系種族や狼系種族の影響力低減を意図しての事かも知れない。青天井とならざるを得ない戦時下の予算編成を領して組織内での影響力を排しようとしているならば、ファーレンハイトも中々な狸と言える。種族としては狐だが。
――報告書が正しければ、三個装甲擲弾兵師団はヨエルの指揮下にあると言えるが……
龍種による航空攻撃を天使系種族で、中戦車による先鋒突撃を改修した歩兵戦車で代用しているという点は違うが、内戦時より擁していたとしか思えない兵数 と練度を備えている。明らかに内戦以前より用意していたと取れる。運用方法が定まらぬ内に師団編制を行う筈がなく、ヨエルは装甲部隊の運用に自信があると
取れなくもない。その場合、それを可能とする人員を育成しているはずある。その施設や予算、土地の所在に、トウカは大いに興味を持った。
トウカは寒気を感じ、懐から携帯酒筒を取り出してウィシュケを煽る。
「まぁ、皇国は総力を挙げて挙国一致の名の下に、帝国に一切合財悉くの罪を擦り付けて戦争に挑むしかない。皇国を割りたくないのであれば、な」
酒精混じりの宣告。
そうせざるを得ない状況に追い込んだ当人の言葉だが、トウカが居なければ内戦後の北部は無秩序となった公算が大きい。ベルセリカも到来しなかった。現時点で、辛うじて北部の不満の矛先を逸らしているのは、紛れもなくトウカの手腕と武勇に依る処である。
「あら、意外と北部独立も皇国にとり、利益のある事でしょう? 貴方はそれを望まないのかしら?」ヨエルが小首を傾げる。
しかし、熾天使の瞳は多大な興味を抱えて隠さない。
彼女なら間違いなく知っている物品であるが、現状でその名が出てくるというのは、確かに予想外であるはずなのだ。不足している戦力と兵器、経済基盤、公
共施設を充足させる事を優先させると考える筈である。その辺りの時間的余裕は未だ存在する。寧ろ、通常戦力の増強を疎かにする危険性を彼が許容するなどとは思えない筈である。
「造りたいものがある。皇国が課税を控えると言うのであれば、皇国に属した方が利益を享受できる。進んで離れる必要はない」
逆に言うならば、造りたいものを造れば、離れる事を躊躇わないという事であるが、トウカが未だに皇国に対して所属する価値を見ていると宣言する事には意味がある。対帝国戦役の最中に蠢動されるという懸念だけは払拭できるのだから。
「そう、神の火を欲するのね」思い当たったヨエルは満面の笑み。
核兵器。その異名の一つが神の火である。
神の使徒ともされる熾天使が神の火を欲する人間を好む様というのは、中々に諧謔の効いた状況と言える。無論、この世界の実情として、天使系種族とは旧文 明時代よりも遙か以前の悠久の大戦の最中に作られた神々の近衛兵や近習という側面が色濃い彼女達だが、主君たる神々の無能と怠惰に愛想を尽かせて久しい。 神々の意図など最早、気にも留めない。
陸海軍府の両長官は、皇州同盟の軍事研究の全貌を知らない為か、訝しげな表情を隠さない。ヨエルは、恐らくは掴んでいるだろう。妙に新造大型航空母艦の建造に関わろうとする商会が天使系種族が要職の過半を占めているという報告も受けている。
「皇州同盟は学者と技術者は高待遇で迎えている。研究資金も豊富に与え、利益に繋がらない無駄な研究はさせない」
核兵器開発には多大な資金と高度な技術を要する。開発期間は二〇年を見ていた。
実際のところ、ウラン鉱床の発見と原子炉建造は目処は在れども、乗り越えるべき課題は多い。最大の課題は、トウカがその分野に対して多くの知識を持ち合わせていないという事であるが。何より、現状は数式を学者に投げ付けて様子を見るという段階である。
「私、空間遮断が得意なんですよ? 身体には放射線も無効ですの」
ここぞとばかりに自身の有用性を提示してくるヨエル。聞けば、神々の争いで岩窟種が多用した核兵器による影響下でも稼働できる様にする為にそうなったとの事である。神の御使いでなくとも崇められるに値する能力に、トウカは「考えておく」とのみ返すに留める。
皇国は総てを戦争に投じる道を選択せねばならなくなりつつあった。
「一つの人間集団は、その所有物の全体を共同して防衛するように結合されている時にのみ、国家と称することができる」
《独逸連邦》思想家 ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
「自己をあらゆる武器で守ろうとしない制度は、事実上自己を放棄している」
「私は支配者ではない。指導者だ」
《独逸第三帝国》総統 アドルフ・ヒトラー
「過剰なる野心こそが愛国心の本質であり、非業なる死の可能性こそが全ての夢想浪漫の核心である。故に軍国主義者や愛国主義者、職業軍人とは皆、夢想家であり、戦争が単なる社会的現象である事をどうしても認められない」
《亜米利加合衆国》哲学者 ウィリアム・ジェームズ