第二四一話 英雄という偽善者
「しかし、閣下。戦には勢いが御座います。それに敵は我々がドラッヘンフェルス高地に造成した陣地を流用しておりますので時間をかけるのは好ましくないかと」
アルバーエルの言葉に、トウカは堅固な陣地への攻撃を懸念も敵への時間を与えぬ意見を支持しているのだと気付く。トウカとしては北方への備えを前提に造成した野戦陣地に南方から攻撃を加える以上、南方からの侵攻に迎撃に適した配置ではないと考えていた。寧ろ、丘陵がによって遮られる地形も多い。限定的なものに過ぎなかった。
「野戦陣地に使用した資材を流用されるだけでも、造成の速度はかなりのものとなりましょう……工兵参謀はどうか?」
「同意します。一部の補修資材が処理できずに放置されていた点も捨て置けません。時間を置けばより強固な陣地となりましょう」
首席参謀と工兵参謀の言葉には合理性があった為、トウカとしても否定し難いものがあった。皇州同盟軍の面々のみであれば政治を理由に退ける言葉も躊躇しないが、〈北方方面軍〉将兵の抱き込み工作は進められているものの本質的には陸軍である。
「閣下、戦略爆撃騎を使えないでしょうか? 堅固な陣地ですが、弾火薬庫も流用している可能性が高いですので地上貫通爆弾ならば……」
弾火薬庫を破壊すれば、その影響は多大なものとなる。備蓄砲弾の多くを喪い、その爆発自体が周辺地形を大きく変えるだろう。三〇m地下で十mの練石に防護された海底弾薬庫を吹き飛ばされたセヴァストポリ要塞の様に。
「備蓄がない。いや、戦艦の主砲弾に備蓄があったな。しかも陣地は動かんか」
〈剣聖ヴァルトハイム〉型戦艦や機動列車砲の売却が決まり、付随する各種設備も陸海軍の兵器廠に輸送される手筈となっている。しかし、それは戦後であり、現状では未だ予備部品や砲弾の製造は継続されていた。
――徹甲弾の信管を取り換えて安定翼を溶接すれば可能か?
制空権もあり、対空砲も殆ど装備していない帝国陸軍が相手であれば低高度からの侵入は容易である。進路妨害があるのであれば、戦闘爆撃騎と戦術爆撃騎による近接航空支援による排除を試みる事もできた。
「工兵参謀……戦艦の徹甲弾の信管を取り換え、尾翼を溶接して陣地攻撃に使用できるか? 相手が我々の放棄した陣地を使用しているならば好都合だ。弾火薬庫の天蓋を貫通させたい」
トウカの世界では実現された。急造兵器としては、僅か二発の実戦投入に過ぎなかったが、三〇mの粘土層を貫通するだけの性能を備えていた。
皇州同盟軍、工兵参謀であるダランベール大佐が変わらない草臥れた軍帽の上から頭を掻く。
「高速での落下や貫通時の衝撃に抗する為に厚めの弾殻とする必要がありますが……確かにその辺りは解決しています。しかし、弾体として戦艦の徹甲弾は不適格でしょう」
「……質量が足りないか?」
トウカは、工兵参謀が懸念するであろう技術的問題を察した。
地上貫通爆弾という兵器の特性上、弾体を細長くして質量を保ちながら貫通時の抵抗を減らし、貫通能力を増加させているものが多い。戦艦の徹甲弾の形状とは程遠く、質量も不足している。まさか成層圏から投下して威力を稼ぐ訳にもいかない、命中するはずがなかった。
戦艦の主砲弾が貫徹力を発揮するのは、何百㎏という装薬で撃ち出すからである。低空からの自由落下のみとなれば、その貫徹力は限定的とならざるを得ない。
「では、やはり重砲の砲身を転用して製造するしかないか……しかし、予備など……」
「! 砲兵参謀としては反対です!」砲兵参謀であるクルツバッハ少将の悲鳴交じりの反対。
トウカとしても実情を考えれば現実的ではないと理解していた。フェルゼンの防空能力が削がれる事を覚悟で高射砲塔の高射砲を転用してすらいる戦況である。当然、各種野戦砲は消耗も激しく、退役した野戦砲も倉庫より引っ張り出して運用している総力戦の最中であった。
余剰の砲身などありはしないのだ。もし、断行するのであれば現在も生産が続く野戦砲の製造工程より拠出させるしかないが、それは生産計画に影響を及ぼす事は疑いない。クルツバッハ少将の反対はその点に負うところが多いのは明白であった。
余剰があれば野戦砲として戦野に投入されている。
「……閣下、それならば重巡の砲身を転用できませんか? シュットガルト湖には艤装中の重巡が多数係留されていたと記憶していますが……」
正確な隻数は記憶していないと続けるリシアの言葉に、トウカは鷹揚に頷く。
砲身さえ用意できれば、地上貫通爆弾の急造は容易である。
米帝では、開発期間を短縮する為、弾体には退役した八吋榴弾砲の砲身を用い、砲身にトリトナール爆薬を流し込み、それに尾翼と誘導センサー・信管を取り付ける事によって迅速に製造された。開発開始から実戦使用までは一ヶ月弱程度の時間しか要していない。
艦載砲を転用するという発想はトウカにもなかった。海上戦力の武装を別と考えていたというものではなく、海軍に有償譲渡した故に皇州同盟軍の戦列から喪われたと考えていたからである。
ヴェルテンベルク軍港に停泊、或いはシュットガルト湖に保存処理を受けて係留されている重巡洋艦は八隻に上る。海軍が乗員を確保できない為、南大星洋海戦に参加できなかった艦艇は少なくない。
元を辿れば、マリアベルは有事に備えて重巡洋艦や機動巡洋艦、軽巡洋艦、駆逐艦などの艦艇を重点的に建造していたが、皇国政府からの軍備制限を回避すべく、艦体や武装を製造した後、別保管する事で“兵器”という定義を満たさなかったのだ。特に艦体などは法律上の特殊建造物という区分であった。
有事となれば、船渠で速やかに兵装などの各種装備を搭載して就役。短期間で艦隊戦力を増大させるという方針が採用されていたのだ。こうした手法は陸上戦力でも珍しい事ではなかったが、海上戦力の場合は想定していた開戦時期よりも大きく前倒しされた影響から乗員を確保できなかった為、実際の運用が成されない状況が続いた。開戦後の装甲戦力拡充の方針転換から海上戦力整備の優先順位が低下した影響も大きい。
戦後、海軍への譲渡が決まったが、それは就役させてからという条件となっていた。
しかし、それは帝国軍の北部侵攻によって更なる遅延を強いられた。
準備されていた兵装の搭載は行われたが、保存処理の解除……機関などの駆動部点検や内装準備などが間に合わないとして再び中断していた。
だが、艦載砲は搭載している。
「その提案を採用する。フェルゼンの工兵司令部に準備させろ。期限は二週間。重巡の主砲砲身を外して全て地上貫通爆弾に転用する……いや、軽巡の主砲もだ」
八隻の重巡洋艦を合計すると九二門の主砲となるが、トウカはそれでも不足していると見た。帝都の帝城と違い地下に存在する弾火薬庫への照準は難易度を増す。その上、奇襲は望めず、帝国軍は対空砲が足りぬ状況下での対空戦闘の知見を得始めていた。低空飛行による地上襲撃を行う戦闘爆撃騎が対空戦闘用に時限信管を調定した迫撃砲や、その弾幕を回避した空域に潜む魔導士部隊による威力よりも速射性に重きを置いた魔導砲撃。
極少数に留まるとはいえ、撃墜された騎も存在する。
絶対的な航空優勢という“魔法”は解け始めていた。
斯くなる上は戦訓を持ち帰らせない。帝国軍全体に反映されぬ様に徹底的に将兵を殺戮するしかない。それでも戦訓から効率的な対空戦闘の術を成立させる事を遅らせる程度であろうが。
トウカは伝令に走る通信士官を尻目に、アーダルベルトに視線を向ける。
龍は戦果を欲している。
しかし、皇州同盟軍の戦略爆撃騎と共に自国の空を飛行するというのは、政治的意義が滲む。中央貴族や政府との関係を踏まえれば、座視する可能性も十分にあった。アーダルベルトやヨエルの立場は政治的に見て不安定になりつつある。無論、航空分野の独占によって長期的に見れば政治勢力としての雄飛を約束されているが、短期的に見れば孤立は免れない。
トウカとのこれ以上の連携は、既存の政治基盤からの決別を意味する。現状の連携ですら、必要とは判断されつつも、心情的理解を得られていないのだ。
アーダルベルトはトウカの視線に肩を竦める。
「私も参加しよう。望むなら戦艦の砲身でも構わないが?」
片眼を閉じて茶目っ気のある仕草と言葉で、爆撃任務への参加を断言する。
――航空分野の独占による新たな政治勢力の成立に舵を切ったか。
龍種だけで人口比に占める割合が少ない為、天使種やそれ以外の有翼種との連携を行いつつ、最終的には航空分野や航空行政の独占を図る政治勢力を成立させる。無論、航空騎を運用した軍事行動以外……経済活動や救難、災害出動などの分野の知見を持つトウカも、無駄のない提言を以て存在感を示せるだろう。
「悪くはない……宜しい事だ」
政戦共々意義深い。
トウカは笑みを零す。リシアはアーダルベルトに胡乱な視線を向けていた。
アーダルベルトはリシアを酷く可愛がっている。その様はアリアベルに接するよりも娘に接する光景と思えるもので、皇州同盟軍や陸軍の将官が日常的なものであると考える程に良く見られた。リシア当人は嫌悪感を隠さないが、アーダルベルトは気にした様子もなく接する姿勢を崩さない。実娘に対しても、それ程の積極性を見せていたならば内戦は起き得なかったのではないかという言葉が、ベルセリカより零れる程の光景である。
「なに、巷で言われる軍神との関係に溺れる覚悟をしただけだ」
龍種の隆盛に気を良くしているのか、アーダルベルトは普段の厳格な姿からは想像できない軽口を見せる。
そして、リシアへと視線を向けた。
「おや、ハルティカイネン大佐と好敵手になってしまうな?」
吹き出す参謀達。
マリアベルに憧憬を抱く女が恋の好敵手の出現?に狼狽するはずもない。陰で拗ねても周囲にはそうした姿を隠すのがマリアベルである。寧ろ、迎え撃ってくれようと応じるであろう事は疑いなかった。
リシアは囁く。
「死ねばいいのに……」
司令部の笑声は一際と大きくなった。
「一度の反攻で敵の野戦軍を撃破できる時代ではなくなったという事でしょう」
クレアは包囲戦に移行した戦況が記された報告書を流し読みした感想を口にする。
皇都は雪解けを経て活発な活動を見せていた。
経済活動は勿論であるが、例年には見られなかった在郷軍人会による従軍を促す言葉が飛び交う光景が皇国が戦時下に在る事を忘れさせない。
クレアは皇都擾乱の際、攻撃を受けた皇都憲兵隊本部の薄汚れた屋上からその光景を見下ろした。報告書を青空の下で読んだところで、滲むトウカの殺意が軽減される訳ではないという事実のみがクレアの教訓となった。
〈南部鎮定軍〉を退けるという断言をトウカは実現しつつあるが、それによって現実を帯び始めた帝国侵攻への意見が皇都の各所で聞かれた。
現状では、経済的問題や北部復興を掲げる中央貴族による反対意見が優勢であるが、在郷軍人会によるエルライン要塞が難攻不落足り得なくなった以上、縦深を確保する必要があるという主張からなる賛成意見も一定の支持を受けていた。
トウカの耳に中央貴族から北部復興という意見が出たと入ればひと悶着起こる事は疑いない。内戦は認識の齟齬を是正する為に開始されたが、北部臣民の意識としては中央貴族の帝国に対する危機意識の欠如が招いたものであるという意見が大勢を占めている。そうした中で北部復興を出汁にしてトウカの出兵計画に吝嗇を付けるという客観的事実を、北部臣民が受け入れるはずがない。寧ろ、北部だけで出兵論が過熱しかねなかった。
――或いは、それを狙ったのか。
皇州同盟軍のみでの出兵など絵空事である。
予算も人材も圧倒的に不足している中で、沸騰した北部臣民が出兵を叫べばトウカも無視できない。
出兵すれば敗北する。圧倒的兵力差で押し潰されるだろう。未だ帝国には相応の兵力が残されている。
「どう思いますか?」
「さて、小官には何とも……しかし、サクラギ元帥閣下なれば国内でも陰惨な事になりましょう」
暗に身内に刃が向きかねないという主張をする副官に、クレアは一理あると考えた。龍系種族と天使系種族と連携しつつある中であれば、中央貴族の意見を退け得る事も可能かもしれないが、北部臣民の期待に背かない事を背景とした中央貴族に対する軍事力の行使は有り得た。
「まぁ、そちらはないでしょう。帝国侵攻では次点を狙うと思います」
帝国侵攻では帝国南東部を防禦縦深とするべく確保する作戦目的が含まれており、これが最重要とされている。
しかし、防御縦深の成立のみを重視した場合、必ずしも占領を継続する必要はないのではないかと、クレアは考えていた。
「エルライン回廊から航空騎の航続距離内にある帝国の都市や市町村、工場、農地、道路……全てを焼き払う焦土作戦を航空部隊で行うでしょう」
帝国軍が無人の広大な土地を超えて進軍せざるを得ない状況を作り出す事を防御縦深の確保とするのであれば占領する必要などない。ただ焦土と化せばいいのだ。焦土作戦を行う過程で小規模な陸上部隊を派兵して戦果を強調して世論を宥める事は不可能ではない。更なる戦果を求めたとしても、復興と両立する困難を強調すれば撤兵時期を操作する事も難しくなかった。
「それは……かなりの死者が想定されますね。中央貴族との軋轢が今以上に生じるのでは?」
「サクラギ元帥は、中央貴族への配慮を以て小規模な出兵を行い、大規模な効果を実現したとでも断言するでしょう」
露骨な挑発を以てトウカは中央貴族に応じるだろう。中央貴族が大規模な出兵ではなく、焦土作戦への転換を強いたとすら言い出すに違いなかった。見方を変えれば間違いとも言えない点を、実績を背景にした論陣を以て事実と周知させる事が、帝国軍を退けて以降のトウカにはできる。
「彼は国益重視の姿勢を隠しませんから。未承認国家の民衆の生命など考慮しないでしょう」
クレアは遙か北方の青空を見上げる。
国益と口にするは容易いが、国益とは実に複合的な存在である。長中短期によって利益率が変わる項目や、時勢によって損益を変える要素が複雑に絡み合い国益は万華鏡の様に姿を変える。一時の利益の結果が、後世の不利益という結果となる事は歴史が証明していた。
トウカの求める国益が実際に後々の国益に繋がるかは後世の歴史家の判断を待たねばならないが、少なくとも現状で帝国軍を退け得る軍事的才覚を有している点は確定している。
帝国を退け得るだけでも、現状の皇国にはこれ以上ない程の国益なのだ。
「昨今の国粋主義者が言う処の国家覇権主義というものですか」
アヤヒが口にした新参の主義に、クレアは眉を顰めた。
国家の国益を阻む国内外の要素を排除する為に覇権を確立する。
此れを国家覇権主義という。
元は皇州同盟軍参謀本部、装甲兵参謀であるエルメンガルト・フォン・ハウサー大佐の発言が元となった主義である。尤も、当人も姿勢に流布している事実には戸惑いを隠せないでいるらしい事だけは憲兵隊にも伝わっていた。
エルメンガルト・フォン・ハウサーは新進気鋭の装甲部隊指揮官として名を馳せていたが、ザムエルという公私共に破天荒な装甲部隊指揮官によって存在感を多分に毀損されていた。装甲部隊指揮官としては、クラナッハ戦線突破戦に於いて、マリアベル直卒による旧式戦車部隊を実質的に纏め上げたなどの実績がある。ザムエルと比較して理論重視のエルメンガルトは、装甲兵総監を拝命している。ザムエルが名目上とはいえ陸軍に転属した事から、エルメンガルトは皇州同盟軍装甲部隊の教育計画や配備計画、開発計画などを采配していた。
古くからの軍人家系の女性将校として冷厳な気配を漂わせる黄金色の長髪を持つ耳長族系混血種のエルメンガルトは、トウカの熱心な支持者である。しかし、同時に支持は軍事面に留まると断言しており、政治面では賛同できないと口にする人物でもあった。
当人は急進的な全体主義であるエスタンジアの国家社会主義と、トウカの大陸覇権を窺う姿勢を露わにした発言を掛け合わせた皮肉としての一言として口にしたが、右派団体はそれを真摯に受け止めた。真に受けたとも言う。
結果として、国家覇権主義という中身も定まらない主義は名前だけが先行し続けている。
「結局、閣下の発言と行動こそを後付けでの理論で補助する主義となるでしょう」
「それは、また……」
政治思想とは言い難い利便性を持つ主義主張の成立はトウカを助けるであろうが、それは同時にトウカの全てを肯定するという事に繋がる。危険視する者が今以上に増していくのは間違いなかった。
それは、帝国侵攻時の政略によって露わとなるだろう。
「閣下はどうなさいますか? 皇都の治安は安定しております。フェルゼンに帰還するのも宜しいかと」
覇権を確立するまでの屍山血河を振り払うかの様に、アヤヒはクレアへと問い掛ける。クレア自身が考えた流血の御世を察したのだ。
「……私は信を喪いました」
端的に言うなれば、自身が率先して行動する事の全てが無意味である。寧ろ、自身が動きを見せた場合、警戒を招きかねない。
今、フェルゼンにはミユキが居る。
トウカはミユキを利用した過去を持つクレアの二度目を許しはしない。トウカのミユキに対する執着を知る者達が、ミユキが爵位を得たにも関わらず政治を求めなかったのは、一重にその点を恐れたからと言える。その可能性を思わせる行動を取る事はできなかった。クレアが未だに憲兵総監という要職を許されているのは、一重にヨエルとの連携に当たっての配慮の産物に過ぎなかった。クレアは読み違えたのだ。
「アナタ、まだそんな事を……馬鹿ね」
懐から出した煙草を銜えるアヤヒの呆れを滲ませた声音に、クレアは眉を顰める。
「私は少将ですが」
「もう、定時よ」
正規軍の陸海近衛軍と違い終身官でもない地方軍閥の士官であればこその割り切りである。領邦軍なども郷土軍である都合上から公私の使い分けが成されている。親類縁者も少なくない中で階級を私生活に持ち込む真似などできる筈もなかった。
紫煙を吐いたアヤヒがクレアの横へと並び立つ。定時後なので無礼講であるという建前の宣言であろうことは疑いない。
「職務に精励していればいいと思うわよ。政治に関わるから面倒に巻き込まれるのよ」
「閣下をお助けする為です。閣下の周囲……閣下も含めて軍人の理論で政治を動かそうとなさいますから」
内部統制のみであれば軍閥である以上、軍事の理論が通用するが、他地方や他国との折衝となると先立って行われるのは政治である。無論、そこに適用されるのは政治の理論であって軍事の理論ではない。
トウカは、乱世なればこそ軍事を以て余さず糺されると口にして憚らないが、クレアは乱世の政治的な振る舞いこそが長き信を齎すと考えていた。思想的、或いは理論的な正しさだけが理解を齎す訳でもなかった。
「熾天使様を紹介するだけでよかったでしょう?」
「それは……内戦後でしたから」
直接干戈を交えた訳ではないものの、ヨエルも征伐軍成立を積極的に黙認した立場にある。戦後間もなく交渉の場を設けるという行動は、クレアの内通を疑われかねない行為であった。
無論、内戦後、忽ちに連携姿勢を露わにしたアーダルベルトなどを踏まえると、些か苦しい理由でもあった。内戦後であれ、帝国という明確な脅威が迫る中であれば、連携がより重視される。反論は容易であった。
「閣下には近くで政治面で支える者が必要なのです。首席政務官とは遺恨がありますし、当代ヴェルテンベルク伯は権力基盤の盤石化に手間取っています」
他地方との連携が限定的な状態に留まるのはトウカの急進的な姿勢に依る所であるが、それだけではなく政治面で支える人物が居なかったからであるとクレアは確信している。
急進的な姿勢とて、北部を纏める方便と説得する事は不可能ではなく、工業製品や特許、技術情報、資金を以て硬軟織り交ぜた外交を展開しても良い。
トウカは後世に後ろ指を指されない程度の理論と理屈があれば構わないという姿勢を見せているが、それでは孤立する状況から脱する事はできない。軍事のみで統一を維持する事もできないのだ。
戦略は相対的な戦力を増大させる策略であり、戦術とは敵戦力を漸減する策略である。
当然、戦力比は敵戦力の漸減だけではなく、友軍の増強も含まれる。戦時下であれば同盟国を増やす為の政治活動も戦略の一つと言える。
しかし、トウカにはそれがない。
なまじ軍事的才覚が端倪すべからざるものであるが故に、戦力比の増大を自陣営のみで済まさせてしまうのだ。同盟関係がなくとも戦局を切り盛りできる才覚が裏目に出ている。
帝国侵攻に合わせて陸海軍と連携しているが、それは一時的なものに過ぎない。陸海軍の予算を握る政府を恫喝し、皇都擾乱の一翼を担った事実がトウカの他勢力……他者に対する姿勢として滲んでいる。
彼の不信感が政治に反映されてしまっているのだ。
だからこそ皇州同盟は政務に対して受動的であり、行われる政治はトウカの軍事行動に基づいた戦果拡大を政治に波及させるものでしかなかった。言わば、敵や潜在的脅威に打撃を加える為の政治なのだ。
そこを補うべく、クレアはトウカの信を得ようとしたが、トウカはヨエルとの関係に加え、憲兵が政治と結合する事を認めなかった。その上、ミユキを政治利用した事が致命的な失点となった。クレアとしては、ミユキに爵位を与えた以上、トウカもミユキに政治的な箔付けを求めていると考えていたが、トウカはただ陣営での立場を明確化する程度と考えていたのだ。
――まさか御姫様にしてやるという約束を実現する為に爵位を与えるとは……
マイカゼが次代ヴェルテンベルク伯であるとは、ミユキに子爵位が与えられた時点では不明であった。マリアベルはマイカゼの連携を見越して娘のミユキに自領へ依存せざるを得ない領地と爵位を授けたと当時は推測できた。
トウカとマリアベルの利害が一致した中でミユキに爵位が授けられたが故に、クレアはそれが天狐族の陣営招聘という政治的意義を求めてのものだと考えていた。
だが、トウカにとって、ミユキを御姫様にするという比重が最も高かったのだ。
客観的に見れば、天狐族を招聘したところで戦況が回天する訳でもなく、寧ろ敗戦した場合、天狐族の立場が悪化するものでしかなかった。マイカゼが進んで不利益を負う可能性が大きいにも関わらず、当時の北部に組みした理由は不明である。トウカの才覚を恃んでと言うには些か無理がある。当時は今ほどの権勢と軍事力を有してはいなかった。
――もしかすると、マイカゼ様は次代ヴェルテンベルク伯拝命に不明確な態度……否定的だったのかも知れませんね。
そこでミユキに爵位を授けて引き入れるという露骨な工作を図った。
有り得ることである。爵位を持つ者が居なかった天狐族に対し、ミユキに爵位を与える事で種族内の位打ちを狙った可能性もある。マリアベルは位打ちを好んで政争に用いた過去を持つ。
思惑が偶然の一致を見た。そう考えるべきか、トウカがマリアベルに天狐族の有用性を説いたのか。クレアには想像も付かない事である。
「閣下は孤立を躊躇わない。だからこそ、孤立を回避できる政略を持った人物を置くべきなのです」
「それは熾天使様がやればいいと思うのだけど」
阿呆な子を見るかのような視線をものともせずに反論する事は容易であるが、ヨエルという公爵位を持つ熾天使の存在の前では、取り繕った正論など容易に霧散する。正論の類は権威や権力には抗せない。正論とは、自らを害さないという確証の下でしか振るわれない理想論に過ぎないのだ。
「閣下がセラフィム公を受け入れると思いますか?」
「……以前までならないと断言できたでしょうけど、あれは戦争屋よ。戦場を共にした“戦友”を無礙に扱うとも思えないわ」
帝都空襲は思想的奇襲によるもので、クレアからすると政治的出来事である。それを踏まえると、ヨエルがトウカと共に戦野に立ったのは、現在行われているミナス平原を巡る戦闘が初めてのものと言えなくもない。
トウカは戦友という肩書に弱い。当人が意識しているのではなく、軍人とはそうしたものであるという固定観念がある。無論、付け入る真似を許しはしないが、戦友という要素を平均的な将官よりも重要視していた。
そこに憧憬や羨望が滲む事をクレアは理解していた。
戦友という要素に何を見ているのかまでは不明瞭であるが、少なくともクレアは自身が戦友に当て嵌らない事を察していた。
「私は戦友にはなれないのですね」
「……当たり前でしょ? 私達は憲兵よ? 軍人が好んで己の領域に踏み込ませたいと思う? 思わないでしょ?」
アヤヒの言葉に、クレアは言葉に詰まる。
憲兵は、それ以外の兵科に忌避感を抱かれる兵科である事は万国共通と言えた。調査して不正や犯罪を追及すると言えば聞こえは良いが、相手は大抵が友軍である。当然、友軍将兵から距離を置かれる立場とならざるを得ない。潔白であっても懐を探られる真似に好意的である者などいるはずもなかった。
軍という実力装置に必要不可欠な要素である事は疑いないが、それが組織を構成する者達に受け入れられるかは別問題である。
「明白に言うのですね」
「……正直に言えば、あの男は諦めなさい、と言いたいわね」
正直に言い過ぎではないだろうかと思える程の直截な物言いに、クレアは思わず苦笑を零す。本来であれば、気落ちや反論の場面であるはずだが、アヤヒの持つ母性的要素が零れるはずの反発を受け止める。
「女を幸せにできない男よ、あれは。女と争乱なら絶対に争乱を取るわ」まぁ、男なんて元々そんな者なのよね、とアヤヒは天を仰ぐ。
紫煙が煙突の様に流れる様を一瞥し、クレアは原初の時代より闘争が男の本分であった事を思い出す。旧文明時代を経てヒトは、人権や倫理などではなく、人的資源の有効活用と増大を意図して多種多様な種族を製造し、播種を意図して多次元世界という大海へと躍り出た。その結果として、神々との衝突があったが、それでも戦場は男が支配するものであり続けた。
多くの生物の因子を宿した種族が戦野に赴いたが、割合は女性しかいない一部種族を除いて常に男が多数を占めていた。これは神々の陣営に於いて投入された種族にあっても例外ではない。
男という生き物は、争う為に生まれてきた。
強弱はあれども常に勝利を求めている。ナニカに優越する事を渇望していた。男はいつの時代もチカラを求めて狂気の歴史を紡いでいるのだ。
生物学的に言えば、魔導技術や種族的多様性から性別に関わらず等しい戦闘能力を得た種族でも尚、男達が戦野で多数を占めるのは遙か過去の在り方に引き摺られた結果である。
「……ですが、そうでなくては男ではないのです」
クレアは軍人として、争わずに国家保全が叶わない事を理解している。
そして、幼少の砌より憧れたのだ。
戦記や軍記で政戦両略を以て総てに抗う英雄達に。
突如として現れ、忽ちに一軍を率いる立場を得て戦野に身を投じたトウカは、クレア目にした高位種の誰よりも近しい存在であった。
夢幻に等しい神秘性と純真無垢な残虐性。神威に等しい軍略と天意の如き政略。野獣の如き野性と賢者の如き知性……現世では相反する多くの要素を兼ね合わせた彼に、クレアは初見で恐れを抱いた。
トウカにとり忘却の彼方の記憶であっても、クレアには忘れ難い思い出であった。
ヴェルテンベルク伯爵邸の東側廊下ですれ違った二人。トウカは然して気にも留めていなかったであろうが、クレアには絶大なる印象を与えた。
クレアはその際、トウカに絶対的な悪意を見た。
軍人とは率先した不道徳を以てして敵軍と争う使命を帯びるが、トウカは不道徳などという生易しい存在ではなかった。皮肉を湛えた口元と殺意の滲む狂相。そして、悪意を以て睥睨する瞳。
憲兵としての危機感が、トウカに対する忌避感……確証なき拒絶を抱かせた。
ヒトの負の感情が軍服を纏っている。
特に内戦末期の市街戦に於ける鬼気迫る指揮統率は、クレアの憧憬を抱いた古の英雄達とは似ても似つかないものであった。領民を義勇兵として前線に積極的に投入する意図を、クレアは正確に察していた。
領民に征伐軍……中央貴族や政府に対する敵意を掻き立てる為であると理解した。現に陸海軍ではなく、中央貴族や政府に対する批判を主体にしていた事からも分かる。
その後、皇州同盟成立でその懸念は顕在化した。
掻き立てた敵意は皇州同盟成立の燃料となった。
敵意こそが軍を強大化させ、民意の結束を強固なものと成さしめる。
クレアは、その段階でトウカを排除する心算でいた。
しかし、朋友たるエイゼンタールがそれを止め、北部に選択肢がないという事実を彼女に突き付けた。
そこで、クレアは気付いた。気付かざるを得なかった。
既に北部はトウカの存在を前提に動いていた。
マリアベルから受け継いだ政戦の基盤に加え、彼自身の戦果が彼に他の追随を許さぬ軍事的威光を与えた。
最早、マリアベル亡き状況で、北部はトウカの存在なくて纏まり得ないところにまで行き着いていたのだ。ベルセリカがトウカに従臣する姿勢を見せ、エルゼリア侯に敗戦という失点が付いた以上、北部を強力な指導力と威光で統率できる存在はトウカしかいなかった。
その時、クレアは、それがトウカの思惑であったのだと悟る。
政戦両略の英雄と言える。認めざるを得なかった。或いは、マリアベルの死期を知り、権力の収奪を目論んだのか。マリアベルの死そのものがトウカの謀略であった可能性すらある。
認めるしかなかった。
トウカが嘗て憧れた英雄であると。
そして、英雄達の実情というものが陰惨で悲劇に彩られた栄光であると理解してしまった。
皇国全土を見渡しても、救国を担える者が彼しかいない以上、トウカには是非とも英雄となって貰うしかない。彼が厭うて已まない英雄という偽善者に。
クレアはアヤヒを正面から見据える。
「彼を英雄にする為、私は私の戦場で戦います」
クレアの決意は、彼女の想像を超えて後世に影響を及ぼす事になる。