第二四五話 戦略的応酬
「フェルゼン帰還は後回しだ。残敵掃討が終わらぬ中で司令部の転換は混乱を招く」
トウカは、帰還を提案した航空参謀の言葉を退ける。
航空参謀であるキルヒシュラーガーは、航空輸送で司令部要員を移動させれば危険は少ないと断言してみせるが事は単純ではない。ベルゲンに展開するという事は、純粋な軍事行動の中枢という意味よりも、帝国軍の前線に近い位置で陸軍と皇州同盟軍が手を携えて共に戦うという必要性があったのだ。政治的演出に他ならないが、今はまだ他国に隙を見せる余裕はない以上、選択肢はなかった。特に神州国に皇国の陸上戦力が指揮系統の面で分断されていると見れば揚陸戦を行える条件が揃う。
トウカは敵軍の軍事行動を推測する際、政治や経済を理由に軍事的妥当性を曲げない。
可能とする軍事力を最大効率で行使されると判断する。
国力と軍備の面で可能であるならば、敵国が軍事的に最善の一手を行う事を前提に行動する。政治や経済、宗教という枷が常に軍事力に作用する訳ではない事を、何よりも自らが実演し続けるトウカは敵国にもそれが可能であるという確信の下に方針を決めている。
帝国〈南部鎮定軍〉が解けて消えつつある現状、最有力の敵は神州国陸海軍である。エルライン回廊を通過したとされる帝国門閥貴族軍は練度も低く、装備も斑が多く指揮統一もなされていない。航空戦力の前には鎧袖一触であることは疑いなく、防御縦深に可能な限り誘引して徹底的な航空攻撃を加える事が決定されていた。
「閣下……航空偵察に出ていた偵察騎が帰還した様です」
伝令兵より書類を受け取った通信参謀が、トウカに書類を手渡す。
〈南部鎮定軍〉の残存兵力と〈グロースヌイ軍集団〉は合流を果たしつつある。それ故の混乱や、それを阻止するべく動いた皇国軍軍狼兵部隊と、それを阻止するべく師団規模の帝国軍胸甲騎兵が交戦したのが先日であった。
騎兵の後部に機関銃を担いだ兵士を積載し、戦場で下馬させて全体の機動力を底上げしつつ火力も向上させるという無理を推しての強攻に、大隊規模で分散していた軍狼兵大隊が各所で撃破された。騎兵の迂回行動に気を取られた中で側面を複数の機関銃の集中射で薙ぎ倒されたのだ。軍馬の負担と移動速度の低下を承知の上で行ったならば、大した決断と言える。
最終的には、糾合された軍狼兵部隊の逆撃を受けて胸甲騎兵師団は敗走したが、それは秩序を失ったものではなかった。
地形を利用した後退戦で機関銃が猛威を振るった事もあるが、帝国軍胸甲騎兵師団の師団長は防御に優れた資質を見せた。航空攻撃を森林や混戦を利用して避けつつも、軍狼兵の混乱を助長させる迂回行動を成功させている。
――妙にこちらの配置を掴んでいる。あちらにも軍狼か獣系種族がいるのだろうな。
トウカは内戦で手を焼いた軍狼兵という兵科を良く理解している。
騎兵は囮で、下馬させた機関銃を非常識な程に装備した歩兵大隊が擬装配置された地点に軍狼兵を誘引したのだ。軍狼兵は接敵時には進行方向の魔道障壁を強化するが、不意打ちを受け、それが側面や後背であった場合は極めて脆弱と言える。魔道障壁の強度で言えば、帝国軍胸甲騎兵と然して変わらない。
軍狼兵の騎乗する軍狼は、最高速度と嗅覚、隠密性に優れる反面、防御力に劣る。積載量に劣る為、魔道障壁展開に使用する魔術刻印が刻印された装甲板の搭載が限定的であるからであった。索敵と迫撃に重きが置かれる兵科であるという事もあるが、決戦時の強襲や突撃は装虎兵という兵科の主任務である。軍狼兵の本分からは外れる。
帝国軍胸装騎兵も軍馬への装甲板搭載の規模からいえば軍狼兵と大差ないが、胸甲も魔術刻印の為されたものである為に軍狼兵とほぼ同等の魔道障壁を展開できた。魔道国家として魔道資質に優れた者を軍狼兵とする事で、魔道障壁の不足をある程度是正した皇国軍とは目的が違うが故の芸当であった。無論、帝国に魔道資質に優れた者が少ないという事情もある。
敵は両軍の特性を良く理解している。
複数の軍狼兵大隊を敗走せしめ、ミナス平原から敗走してきた〈南部鎮定軍〉の兵力を防御陣地へ可能な限り収容しようとした。軍狼兵は機関銃で針鼠となった擬装されている野戦陣地と胸甲騎兵の存在に索敵攻撃を阻害されて残敵掃討を満足に行う事が不可能となった。
――選択の仕方も悪くない。右翼を狙ったか。
先日の雨天を利用して航空索敵の監視を逃れつつ、皇国東部寄り……帝国軍から見た場合の左翼側からの進出は極めて妥当な判断と言える。
皇国西部寄りの地域は、ミナス平原より離脱して共和国を目指す兵力が一路東進して〈グロースヌイ軍集団〉に合流する事を避けるべく航空索敵と地上襲撃が重視されている。無論、主要な街道が通る中央も敗残兵の主要な経路である為に厳重な索敵が行われていた。
軍事学を知らない一般人は、敗残兵は慎重さを増して遮蔽物が多い地点へ迂回しながら撤退すると考えるであろうが、実情としては士気崩壊した敗残兵であるが故に武器を捨てて一目散に移動しやすい地形から逃げ去ろうとする。敵に見つからぬ事よりも、敵から少しでも遠くに逃れようという心理が生じるのだ。度重なる航空部隊の索敵攻撃に晒され、敗残兵の指揮統率を回復させようという試みも失敗している。
追撃時、敵に時間的余裕を与えないのは基本である。
「飛行兵は何と言っている?」
撮影機によって捕らえられた画像を情報部が精査するとしても、直接目にした者の意見も軽視できるものではない。
「ドラッヘンフェルス高地北方に幾つかの装甲部隊を確認したとの事です」
「装甲部隊? ああ、エルライン要塞防衛の際に展開していた部隊か」
トウカの知識からすると突撃砲に近い帝国軍の戦車は、機甲戦を前提としていない。要塞攻略戦を前提として常に前方に敵が存在する事を意識した構造をしている。そして、魔導技術で機械部分の構造強化が成されていない事もあって駆動部は極めて脆弱であった。踏破性は低い。
「今更か。意図が見えないな」
「装甲戦力は歩兵の脅威となります。航空攻撃で優先的に攻撃すべきかと」
キルヒシュラーガーの言葉に、トウカは眉を顰める。
航空参謀による攻撃目標指定に賛同する参謀が幾人も現れるが、敵指揮官の思惑をトウカは察して拒絶する。
装甲部隊を、航空攻撃を吸収する囮としたのだ。
戦車の火砲を取り外して野砲に転用するまでは砲架や中退器の都合上しているとは思えないが、共通規格であるならば搭載している砲弾は砲兵隊に再配分されているかも知れない。無論、車載機銃も同様である。
皇国軍は戦車部隊を過大評価している。
内戦で最強の棍棒として扱われた結果であるが、実情としては兵站線に多大な負担を掛ける兵科であり、その保全には多大な労力を必要とする。
確かに、集中運用による戦線突破は極めて阻止し難いものがあると内戦で証明されている。戦線を食い破り、後方を蹂躙する装甲部隊は征伐軍にとって悪夢であった。航空部隊との連携次第では、その突破で戦力比上の不利すら覆せるだろう。
可能であるが故に警戒する。それは軍人として酷く正しいが、それが可能とされる戦況であるか否かという点を軽視していた。装甲部隊が効果を発揮できる戦況と情勢であるかという点を見ていない。
「それは陽動だ。やってくれる。大した奴だな。敵の指揮官は。野戦昇進でユーリネン中将だったか?」トウカは情報参謀であるリシアに視線を向ける。
「はい、閣下。〈グローズヌイ軍集団〉による〈南部鎮定軍〉の残存部隊救出の功を以て昇進した様です」
敵将の詳しい調査結果の提出が可能であると進言するリシアの言葉を退け、トウカは命令を下す。
「航空攻撃は野戦陣地と森林部の部隊を狙え。他は捨て置いて構わない」
戦車に対する恐怖は、陸軍参謀本部にこそ強い。対する皇州同盟軍参謀本部は金食い虫の棍棒であると理解していた。そして、突破はできても戦域全体を押し上げるだけの数は用意できないとも思い知っている。内戦時、装甲部隊が突破と迂回による戦闘に傾倒していたのは、それが限界であったからに他ならない。
「どの道、付近の主要街道が爆撃で使用不能だ。装甲部隊の移動も困難を極める。用意された餌を貪る事に夢中になって陸上部隊が交戦する戦力を削ぐ事を疎かにはできない」
「しかし、敵が高地より敗走した際に装甲部隊に殿軍を務めさせる心算であるならば捨て置けないかと」
リシアの主張に、頷く者は少なくない。
一理あるように見える意見であるが、トウカとしては「君達、疲れているのか?」と返すしかなかった。
「ハルティカイネン大佐。戦略とは何か?」
「……戦術よりも、より大局を成す戦争全般を取り仕切る要素かと」
無難な答えにトウカは苦笑するしかない。
曖昧に過ぎる返答であったが、元来の戦略は曖昧な要素に他ならない。戦術と戦略の領分とて曖昧なのだ。よって、戦争に纏わる広域な部分を占めるのが戦略であるという主張も間違いではない。
しかし、戦略が望む最上は常に同じである。
「戦略とは、最も有利な条件下で決勝地点に兵力を機能させる大規模な手段に関連する将帥の学である」
決戦時、相対的に自軍の戦力乗数が優越する為に行使するあらゆる努力を指して戦略と言うのだ。少なくともトウカにとってはそうである。
より有利な条件で決戦を挑む為の努力こそが戦略であり、それは選択と集中に基づく優位や敵の分散による各所撃破もまた同様である。全体として兵力が劣っていても、決戦時に戦力乗数の面で優越する要素を携えて望む事も含まれるのだ。内戦時のシュットガルト湖畔防衛戦も例外ではなかった。全体的な兵力としては劣っていたが、迂回した陸上戦艦二隻と一個装甲師団が砲兵を漸減して戦力乗数を変え、勝手知ったる市街での防衛戦は防禦側の戦意を高め、陣地面での優位を常に提供した。民間人への被害を黙認すれば、であるが。
征伐軍は、兵力に勝る点を理由にフェルゼン攻略に挑んだが、北部統合軍側からすると市街戦である事と、複数の義勇装甲擲弾兵師団の投入……有利な地形と兵力補充の実現によって戦力乗数の面で優位に立つという打算があった。
「帝国軍の装甲部隊が決戦に参加する事が出来ない以上、現状での漸減に意味はない。それよりも決戦に参加する兵力を一兵でも削ぐべきなのだ」
帝国軍の装甲部隊は決勝地点に兵力として機能させる事が出来ない。兵力の展開としては拙劣なものである。しかし、殿軍や予備兵力と見る事もできる様な配置は、皇国軍の誤解を誘うものであった。
戦車を捨てるという思い切りの良さは評価できる。回転式砲塔を備えない戦車が活躍する時代は既に終わったの。どの道、戦力として寄与しないのであれば、航空攻撃を誘因する囮として消費するという判断は正しい。
――その判断は正しい……御前が軍の頂点であったならな。
役に立たぬ戦車の効率的な運用と言えば聞こえはいいが、戦車を数百輌単位で消耗したという客観的な事実は批判の材料になる。トウカもそれを見逃さない。敗残兵が帝国で孤立する事による国内の不安定化は歓迎すべき事であった。
「重ねて言うならば、もし装甲部隊が殿軍を務める事が確定したならば、その段階で航空攻撃を行えばいい。航空攻撃の優位はその速度にある」
軍大学の講義の真似事をせねばならないのかというトウカの視線に、参謀達が視線を逸らす。
「情報参謀、戦力が存在しても、それが展開できなければ行使は不可能だ。まぁ、動かない陸上戦艦と同じだ」
建造して戦力化したは良いが、足回りの問題から放置されていた陸上戦艦は、その最たるものであった。マリアベルもまたその点を理解していなかったと言える。戦場に展開できない新鋭艦よりも、戦場に展開する旧式艦である。存在する事が軍事力行使の最低限の条件なのだ。
歴史上、よく見られる喜劇である。ある一点に傾倒した兵器が、戦場に姿を見せられないというのは。
「歴史の最も重大な教訓は、人類が歴史の教訓を学ばないと言う事である、だな」
過去の戦訓と照らし合わせる事が出来ない点も同様であるが、今次戦役は航空攻撃や機甲戦など、新機軸の兵器や戦闘教義、戦術が直前に姿を見せた特異な戦争である。教育や対策も手探りの中での実戦投入である上、周知すらされていない。軍という巨大な組織では、新たな兵器や戦闘教義を士官に教育するだけでも多大な時間を必要とする、軍の本来の任務を放置する事が出来ない以上、段階を踏んだ教育を図らねばならず、そして何よりも膨大な人数である事が重しとなる。挙句に戦時下ともなれば、その様な余裕が生じる筈もなかった。
現状、航空騎などは翌日に運用規定が訂正されている事も少なくない。
参謀達が持て余すのも致し方なかった。
「明日からの攻勢で全てを終わらせる。門閥貴族の軍も迫っているが、あれば烏合の衆だ。装備は兎も角、編制は前時代的で恐れるに足らん」
門閥貴族軍……皇国北部に侵入した数は八〇万前後であると推測されているが、その展開や編制は航空偵察による結果を見るに酷いものであった。一部は戦列歩兵の如き編制をしているとの事で、恐らく戦術もまたそれに応じたものである可能性が高い。
「航空攻撃で壊乱するだろうが、殲滅する為には可能な限り誘因するべきだろう」
「しかし、現状の速度を踏まえると、敵軍がエルゼリア侯爵領に侵入する辺りで〈グローズヌイ軍集団〉は撃破できるのでは?」
リシアの問い掛けに、トウカは敵の指揮官が防禦に徹すれば話は変わるだろう、と言葉を返す。ミナス平原会戦に於ける皇国軍の短期間での勝利は帝国軍の強攻に助けられのものである。帝国軍は兵站線や国内事情から決戦を急がねばならない立場に追い遣られたが故に強攻を選択したが、それは甚大な被害を及ぼした。無論、航空基地襲撃やベルゲンに近郊にまで迫った点を見れば、対応次第で皇国軍側の敗北も有り得た。
未だミナス平原を始めとした周辺地域では残敵掃討が続いており、陸軍五個歩兵師団が当てられている。それ以外の師団は再編制が進められ、陸軍と皇州同盟軍は、その再編制……糾合によって投入した師団数が半減すると予想された。戦死者と負傷者で兵員が半減する以上、当然の結果であるが、半数の兵力を喪った部隊と言うのは軍事学上全滅判定を受ける。無論、失ったのは人員だけでなく、装備、糧秣、士気……多岐に上った。
無論、陸軍は他地方から無理を押して抽出した八個師団を更に追加で投入するべく、鉄道運航計画を修正しているが、これ以上の人的資源の消耗はトウカにとり……皇国にとり許容し難いものとなる。
「状況次第では此方から仕掛ける。航空部隊の徹底した地上襲撃と戦術爆撃で壊乱させた後、軍狼兵部隊と装虎兵部隊で蹂躙するのだ」
ミナス平原会戦に於ける皇国側の死者は、未だ集計の最中に在るが、推定で十四万名を超えるものと見られている。一週間足らずの犠牲としては破格のものであるが、推定で八〇万名近くの戦死が予想される〈南部鎮定軍〉と比較すれば少ない。人口と国力を踏まえれば痛み分けに近いが。
一週間で中都市一つの人口が失われたという事実は皇国行政を戦慄させた。講和という意見が飛び出す程に。帝都や諸都市の空襲、北大星洋海戦の勝利を踏まえれば決勝点という面では皇国側優位である為、トウカとしても講和は考えたが、皇国側から切り出す真似はできないと判断していた。
軍事強国という看板をトウカは求めているのだ。自ら講和を切り出す行為は、国民の結束や戦争への協力姿勢が定まっていないと国外に露呈する様なものであった。許容できない。
「航空攻撃で壊乱させ、軍狼兵と装虎兵で追撃するという事ですか? その、決戦もなく壊乱するでしょうか?」砲兵参謀のクルツバッハ少将が疑問を呈する。
実に模範的な意見であり、トウカとしても出来の悪い仮想戦記の如き容易な壊乱が起きるとは思えなかった。門閥貴族軍が前時代的な大軍で、通信方式も脆弱であるという前提がなければ、であるが。
近代戦に於いて通信は指揮統制を維持する最大の要素である。兵力が増大すればする程に複雑性を増し、通信を司る部隊数も増大する。通信能力が低いにも関わらず兵数が多いというのは帝国軍部隊全般に当て嵌まる事であるが、それは混乱時の指揮統制の低下を収集する事が困難となり、恐慌状態に陥りやすい事を意味する。
――そうなると戦列歩兵の如き扱いは間違いでは……いや論外か。
戦列歩兵は壊乱を防ぐ為に歩兵同士の間隔を狭めるという方策がある。練度が低い場合、壊乱が生じやすいが、密集させればさせる程に左右に戦友が居る安心感から踏み止まり易い。無論、密集する以上、被害は増す。野戦砲の曵火砲撃や爆撃騎による戦術爆撃を受けた日には目を当てられない惨事となる事は疑いない。
「通信参謀としては、敵が近代戦を知らないという点には同意できます。平文で遣り取りをする連中ですよ? 正直なところ、最初は兵力を大きく見せる為の情報戦の一種かと考えました」
「つまり一度壊乱すれば収拾がつかないという事だ」妙に目立つ軍装をしているので照準も容易だろう、とトウカは肩を竦める。
兵力に目が眩んで過大視する参謀達であるが、門閥貴族の軍隊とは基本的に、領内の治安維持や不穏分子の弾圧を主任務とする戦力である。外征能力を持たず、威圧を目的として古めかしい目立つ軍装をしていた。少なくとも情報部によって集められた報告を統合すると、そう考えるの自然である。
門閥貴族軍は、外征など行える筈がないのだ。
それが無理をして外征に及んでいるという事実が、帝国貴族の恐怖心を示している。不利な戦場に軍を投じる様に仕向けたトのはウカ自身なのだ。ここで見逃す真似はできなかった。
「これは好機なのだ。我々は極少の消耗で帝国人を追加で八〇万の帝国人を屠殺できる」
攻め入る必要があるが、未だ足場が固まらぬ皇国は外征への肯定を圧倒的多数が占めることができないでいた。形だけの小規模なものになる公算が高い。
故に誘引した兵力は確実に撃滅しておきたい。
「しかし、離脱に成功する者も多いでしょう。数が多い以上、追撃を逃れる者も多いかと」
リシアの指摘に、トウカはそうだろうな、と返す。
「だからこそ、以前の計画を進めたい。物資の集積は終えている筈だ」
今次戦役は誘因に寄る撃滅が計画として策定されていたが、同時に会戦に敗北した際の計画もまた存在していた。
「エルライン要塞への空挺。クルワッハ公に指揮を御願いしたい」
落下傘による空挺や有翼種による降下ではなく、大型騎の胴体着陸による二個師団の投入である。陸軍精鋭の鋭兵師団による強襲で、帝国軍の後方となったエルライン回廊を襲うのだ。無論、フェルゼンから三個戦闘爆撃航空団を投入して近接航空支援が行われる。
決戦に当たって後方戦力も軒並み〈グロースヌイ軍集団〉に編入され、大部分がドラッヘンフェルス高地か兵站線の防衛に当たっている。
「……撤退路を塞ぐという事か。現状ならば可能であろうな」
参謀達の喧騒を他所に、神龍と軍神は視線を交わす。
決戦に敗北した場合、戦闘行動が不可能な程に物資が困窮した帝国軍の兵站を完全に絶つ為、エルライン回廊の奪取が予定されていた。敗北時は不確定要素が多くとも強行する予定であったが、決戦の勝利とドラッヘンフェルス高地での持久戦を選択した〈グローズヌイ軍集団〉した事でエルライン回廊は手薄になった。戦力を集結させようとした結果である。
現状ならば成功する公算が高い。
「エルライン要塞駐留軍の一部将兵も同行させます」
要塞の奪還とあっては戦意も向上する事は間違いなく、何より地理に詳しい者達の存在は大きい。
問題は、陸軍の二個鋭兵師団でエルライン回廊の保持が可能であるかという点である。
強襲による奪還は可能であると見られているが、その後の保持となると話は変わる。限定空間であるとはいえ、二個師団での防衛は難しい。纏まった戦力が奪還に動いた場合、抗し切れない事は疑いなかった。
航空部隊による近接航空支援が手厚くなされはするものの、フェルゼンとエルライン回廊はあ相応の距離がある。胴体着陸にも使用予定のエルライン回廊に遺された飛行場……現在は帝国軍の物資集積所になっているそこに航空部隊を展開するという案もあったが、人員と兵装を短時間で運び込んで戦力化するのは無理があった為に断念された。二個師団を輸送するだけでも大型騎の大部分が投入される以上、可搬重量の限界を超える。
「良かろう。しかし、陸軍に花を持たせるとは、な」
「エルライン要塞は陸軍所属です。奪還は陸軍が主体になるべきかと」
建前を口にするトウカであるが、アーダルベルトがそれを信じる筈もない。下品に鼻を鳴らす姿をトウカは黙殺する。
皇州同盟軍の兵力を失いたくないという事情もあるが、最大の理由はエルライン回廊を皇州同盟が管理すべきであるという論調が生じる事を嫌っての事であった。皇州同盟内には、帝国南部の切り取りを望む者も少なくない。主に北部企業に属する者達で、彼らは新たな販路を求めて帝国南部の属国化を求めていた。
それは、トウカが口にした衛星国の理論に沿うものであるが、性急に過ぎた場合、皇州同盟は資源消費に耐えられない。故に国境の管理を陸軍に押し付ける必要がトウカにはあった。
当然、そこには帝国と陸軍が管理する国境が面する事で、皇州同盟を主な仮想敵に据える動きを是正しようという意図も含まれる。皇国陸軍が帝国からの国土防衛を対岸の火事と考える情勢は断じて避けねばならない。
「それに約束してしまったもので」
「?」リシアが眉を顰める。
軽挙な約定が身を滅ぼすとでも言いたげな視線に、トウカは丸縁の遮光眼鏡を掛ける。不愉快な視線は望んでいなかった。
「要塞駐留軍の連中に、奪還作戦には必ず参加させてやる、と」
戦士との約定は護らねばならない。
彼は軍神という軍旗を背に戦い往くのだから。
「これぞ火葬戦記という奴じゃないか、ええ?」
ユーリネンは燃える森林に笑声を零す。
将官としての余裕を示す意地ではなく、純粋に非現実的なまでの光景にある種の諧謔を感じたが故の笑声であると察した副官……リーリャが天を仰ぐ。
火の玉が天から降り注ぐ光景は非現実性の極みであった。
「焼夷弾というのか。あんなものまで用意されていたとは」
六角形の物体……零式集束焼夷弾と刻印されたそれを手に取ったユーリネンは、その六角形で己の肩を叩く。焼け焦げた臭いのするそれに副官は狐耳を曲げる姿に、ユーリネンはそれを投げ捨てる。相当数が容易く鹵獲できる代物であり、森林全体に散布される様に投下されているのだ。
「森林攻撃の為に用意されたとは思えません。恐らくは都市攻撃の為でしょう」
「確かに、な。木造建築なら良く燃えるだろう」
家が松明になる、とユーリネンは溜息を一つ。帝国東部……沿岸地帯は木造建築が少なくない。森林資源が豊富であり、石材が少ないという環境からであった。
実際、可燃性液体を封入した焼夷弾は相応の重量を持ち、特に先端部の重量が大きい為、石造建築の屋根を貫通する事が可能であった。
投入された焼夷弾には二種類あり、テルミット反応……酸化鉄と軽銀の還元反応を利用した効果で外装の苦土を燃焼させて火花を付近に撒き散らす型式も存在した。周辺環境次第で燃焼効率が違う為、共用されているのだ。
頭上に無数の爆弾が撒き散らされる。
一つが三つに分かれる。
「散布界を広げる為か、小型化しても問題ないという事は明らかに都市攻撃の為だな」
ユーリネンは何処かに現実感を置き去りにした光景を見上げ、冷静に観測する。
死を覚悟した訳ではなく、炸裂性や破片効果がない為、至近弾でも爆風や破片で危害が及ぶ訳でもないからである。高温で飛び散る火花や揮発性油脂も木々が遮蔽物となるという達観があった。逆に木々や地形を利用した防空壕も、天井の強度がなければ貫通する。運悪く直撃して六角柱に串刺しにされるならば、珍しい光景をその瞬間まで目に収め続けようという意地もあった。
何より魔道障壁があるのだ。
撒き散らされる揮発性油脂の飛距離は相応にあるものの、木々が吸収し、魔道障壁が阻む。貫通性がない以上、魔道障壁による防護は確実であった。
「彼は焼く事に拘るな。趣味は放火だろうね」
非道な事をするとは帝国軍人の立場からは口が裂けても言えないが、皇国の……トウカの非道には効率性が窺え、帝国政府とは違った非人間性が垣間見える。
三つに分裂した爆弾が更に九つに分離し、更に数えきれない程の火箭となる。
帝国軍将兵は炎の雨と称したが、皇国軍はトウカの命名によって、二種類の収束焼夷弾はオンバシラの異名で呼ばれている。彼からすると六角柱であるが故の安直な命名であったが、普段は兵器を自ら命名する事が滅多とない為、皇国軍内では目立つ事となった。
名称が不似合いなその光景は正に殺意の流星群。
焼夷弾後部に括り付けられた姿勢安定用の長方形の麻布が六枚。引火して炎の尾となって空を埋め尽くす。それが火の雨の正体である。
「閣下!」
「爆発はしないんだ。恐れるなよ。ほら、近くに寄るといい」
リーリャを抱き寄せ、空一面の火箭による火の雨を見上げるユーリネン。
世界の終末の如き光景は壮観の一言に尽きる。
木々や地面に次々と刺さる火の雨に、森林が俄かに慌ただしさを増す。動物が逃げ惑い、将兵が魔導士や遮蔽物に身を寄せて炎の暴虐が過ぎ去るのを息を潜めて待っている。時折、響く長い悲鳴は運悪く飛散する揮発性油脂に襲われたものである。無論、親油性から水などで鎮火させる事は不可能であった。粗製燃料と増粘剤、乳化剤の混合物は人体に対して極めて残忍な効果を発揮する。
「今朝の爆撃は何とは耐えられたが、これ以上は限界だな。文字通り炙り出されかねない」
視界の端に積み上げられた焼死体の山を一瞥するユーリネン。
炭化した兵士の遺体ならば良いが、大部分は生焼けであり異臭の原因となってた。冬が過ぎ春の訪れは戦場に腐敗と腐臭を齎したのだ。ヒトの愚かな行為を春の芽吹きは決して暖かくは迎えないという決意。
ユーリネンは早々に引き際を図るしかないと腹を括る。
しかし、それはそう簡単な事ではなかった。
〈グロースヌイ軍集団〉は、溶けて消えつつある。
ドラッヘンフェルス高地の防御陣地に詰めている五個歩兵師団が抵抗しているものの、森林部には三個師団しか存在しない。無論、その一つはユーリネンが師団長を務める〈第二六四狙撃師団〉であった。
他の部隊は闇夜に紛れて輜重部隊やその護衛として一週間掛けて帝国本土へと後退させていた。武器と糧秣を運び込み、空になっ荷馬車に負傷兵を詰め、健常な兵はその護衛であるかの様に見せて運用したのだ。現に軍狼兵の浸透に悩まされる輜重部隊に護衛を付ける事は不自然ではない。加えて皇国軍も帰路に就く輜重部隊への襲撃を重視しなかった。空の荷馬車を襲撃しても輜重線への効果は薄いと見たからである。
地面に群生したかの様に刺さる六角形の姿を一瞥し、ユーリネンは気温が跳ね上がった森林をリーリャを伴って歩く。
ユーリネンの見たところ、最大の理由はドラッヘンフェルス高地の陣地と門閥貴族軍に気を取られたという点が大きい。堅固な陣地を航空攻撃で執拗に攻撃し、門閥貴族軍の後背の輜重部隊を重点的に攻撃するべく、皇国軍は有力な戦闘爆撃航空団や戦術爆撃航空団を振り分けた。〈南部鎮定軍〉と違い門閥貴族軍は各貴族領から若干の戦闘騎を用意していた為、一部では熾烈な要撃戦が展開されていた。
皇国軍は、帝国軍戦闘騎を確認した瞬間、これの撃滅に過剰な規模の戦闘航空団を投入した。明らかに帝国軍戦力の消耗を意図しているが、盆暗貴族にそれが理解できると考える程にユーリネンは楽観的ではない。
門閥貴族軍……厳密には〈南域征伐軍〉という名称の雑多な装備と雑兵の混合物は、戦略や戦術の道理を弁えぬ者達が指揮を執っている部隊の集団であり、それ故に帝国陸軍が消耗を抑制して国境防空に集中させようとしている竜騎兵まで持ち込んでいたのだ。
戦略上から見れば目が眩む程の売国的行為である。
航空装備も用意できていない中、機関銃を手にしただけの戦闘騎と、航空機関砲と魔導杖、恐らくは高度な照準装置まで装備した戦闘騎では巴戦能力に雲泥の差がある。育成に手間の掛かる航空騎を敢えて不利な戦空に投じて無為に失うという行為は、軍人のユーリネンからすると度し難いものであった。
しかし、それ故に航空戦力は誘引された。
自らの失態ではない以上、それは紛れもなく幸運であり、付け入るべき悲劇であった。
それ故の撤退である。
隙を見ての撤退を思い悩むユーリネンとしては渡りに船であったが、実際のところ情勢は更に複雑であった。
トウカは帝国軍を確実に殲滅する為、大規模空挺によるエルライン回廊奪還作戦……『無名戦士の帰還』を発令したが、その為に必要な各種航空騎の配置転換が皇国軍航空戦力の対地襲撃能力を低下させたのだ。陸軍二個鋭兵師団のみの投入となる以上、エルライン回廊近傍の戦力を徹底して叩かねばならないと考えたトウカは戦闘爆撃航空団と戦術爆撃航空団を二個ずつ引き抜いた。護衛の三個戦闘航空団を含めれば、一時的に戦線を離脱した航空騎数は七〇〇騎近くが一時的に戦線から姿を消し、シュットガルト湖上の複数航空基地へと再配置されたのだ。その航空戦力の一時的減少の結果として攻撃目標は絞られ、離脱すると思しき輜重部隊は見逃された。
戦場での効率が偶然に相手を助ける事になる例は枚挙に暇がない。戦争とは、相手よりより多くの失敗をした者が敗北するのだ。
しかし、それはユーリネンの一戦線に対する視野と、トウカの戦争全体に対する視野の差でもあった。
「森林の北側を重点的に消化するんだ。他は捨て置いていい。あと、防禦陣地の師団を宵闇に紛れて後退させる。殿軍は三個師団」
「〈第二六四狙撃師団〉と〈第五二四重歩兵師団〉、〈第三四〇胸甲騎兵師団〉ですね」
ユーリネンが師団長を務める〈第二六四狙撃師団〉と、アンドロポフ少将が師団長を務める〈第五二四重歩兵師団〉、アレクセイエフ少将が師団長を務める〈第三四〇胸甲騎兵師団〉は、辺境軍から動員された兵力としては例外的に高い練度を有していた。撤退時の殿軍としては最適と言える。
「あと、工兵に橇を作らせる。馬を手当たり次第に集めて移動速度を上げたい」
泥濘に北になればなるほどに雪は残り、泥濘に足を取られる事はないが、これ以上の遅延は部隊移動が致命的に遅くなる。
「撤退部隊の工兵中隊も別任務がある。後で各中隊長を集めておいてくれ」
普通に撤退するのでは芸がない。そう考えるだけの余裕をユーリネンは未だ保持していた。隷下の戦力の大部分を離脱させつつあるが故の余裕であり、自らの師団以外の面倒を見る事は彼にとり重責に他ならない。共に戦うのであれば、相応の能力を持ち合わせたアンドロポフやアレクセイエフに比肩し得る程度の指揮能力を持ち合わせていなければ邪魔にしかならなかった。撤退戦に求められる迅速な意思決定と柔軟性は帝国陸軍の教育制度上、稀有な存在となりがちである事をユーリネンは心得ていた。
「よう、小僧! 程よく燃えてるな! 飯炊きの煙を誤魔化せて火種にもなる。兵士に暖かい飯を食わせられて重畳だ」軍神も粋な真似をする、とアンドロポフが無秩序な口鬚を撫でる。
大熊が現れたかの様に一歩引くリーリャと周囲の護衛。護衛の魔導士が臆する程の偉容。
「やれやれ、明らかに炙り出そうとされているのに暢気なことで」片眼鏡の鎖を揺らしたアレクセイエフが熊の陰から姿を見せる。
巌の如き体躯のアンドロポフを遮蔽物として扱うアレクセイエフの姿には奇妙な愛嬌が滲むが、二人が共に居る光景がある種の微笑ましさを見せるのは、最早日常的な光景である。風の強い日は必ずアンドロポフ越しにアレクセイエフは立つ事からも分かる通り、銃弾以外からの遮蔽物としても利用している為、使用頻度は高くあった。
ユーリネンは、頃合いを察して訪れた二人を軽やかな笑みを湛えて迎える。野戦昇進で上官になったユーリネンに対する物言いとは思えないものが言葉に滲むが、この不器用な大熊なりの親愛の示し方であると思えば咎める気にもならない。死線を共に潜った戦友であればこそ、少々の目溢しはあって然るべきである。気が向けば、ヴォトカを飲ませようとする点を除けば、ユーリネンに不満はない。
早速、大熊の懐から飛び出たヴォトカの酒瓶を避け、ユーリネンは彼らと今後の撤退戦についての情報交換を始めた。
名将達の駆け引きは、味方の犠牲すら踏み台にして敵の思惑を撥ね付けようとしていた。
「戦略とは、最も有利な条件下で決勝地点に兵力を機能させる大規模な手段に関連する将帥の学である」
《普魯西王国》 元帥 ヴィルヘルム・レオポルト・コルマール・フォン・デア・ゴルツ男爵
「歴史の最も重大な教訓は、人類が歴史の教訓を学ばないと言う事である」
《大英帝国》 首相 ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル