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第二四四話    逃亡者リディア

 

 

 

 

 

 

「優秀だな、皇国軍は……」

 

 

 

 軍狼兵による迫撃を避けながらも、リディアは徒歩で北を目指していた。

 

 

 

 街道に一度として足を踏み入れず、獣道を通る事にすら最大限の注意を払いつつの単独踏破は容易なものではなかった。森林地帯などを選択しての移動は迂回なども数知れず、直線距離以を遥かに超える時間と体力が必要であったが、索敵能力に優れる軍狼兵の索敵網を躱すにはそれ以外の選択肢はなかった。

 

 

 

 戦塵と泥濘に塗れた外套は酷く不愉快であるが、それこそが己の体臭を誤魔化していると理解しているリディアは、泥まみれであった。

 

 

 

 幸いな事に、森林内は未だ完全な泥濘とはなっていない。差し込む陽光が木々によって遮られ、未だ根元には白雪を残す光景が散見された。

 

 

 

 ある一時を境にリディアの捕殺を目的とした残敵掃討が中止された事は窺い知れなくなった敵部隊によって理解できるが、その意図を察して彼女は焦燥に駆られていた。

 

 

 

 ――戦力集中の必要性があるという事は、我が軍も何処かで集結しているという事だろう。

 

 

 

 リディアは、飛行場への襲撃行動が失敗した場合、即座にミナス平原全域の〈南部鎮定軍〉を撤退させる命令を次席指揮官として選択したブルガーエフに通達していたが、その意図に反して帝国軍は何処かで集結しての反攻戦を目論んでいるのだと考えた。

 

 

 

 実際、その考えは間違いで、ブルガーエフは己の位置を適度に露呈させながらも、共和国に侵攻した帝国軍の方角への合流を意図した欺瞞行動を執っている。敵の視線を逸らし、一兵でも多くの友軍を戦域から離脱させる為であった。尤も、トウカはその意図を完全に見抜いた訳ではないが、帝国軍将兵の漸減を重視していた為、兵力的には僅少と言えるブルガーエフへの追撃は航空部隊のみを以て行われた。彼の挺身は一部の航空戦力を引き付ける程度の行動となりつつある。

 

 

 

 〈グローズヌイ軍集団〉が編制され、諸外国の陸軍の如く、撤退する将兵を救わんとしている事をリディアは知らない。帝国軍が戦地で敗走する際に敗残兵の救出を早期断念するというのは、リディアにとっても既定事実であるが、今回の敗走は例外であった。

 

 

 

 最大の要因は、エカテリーナによる方針転換である。

 

 

 

 トウカが帝国軍兵力の殲滅を指向している事を察し、それを抑止しする方向に動いた……という被害を拡大するだけの選択ではなく、彼女は既存の帝国軍が見捨てる敗残兵を見捨てない事で忠誠心を抱く将兵を抱え込もうという選択からである。特に帝国東部の者が多い部隊の収容を彼女は望んでいた。食糧事情が比較的良い帝国東部の地方貴族を纏める事での派閥形成を目論んだのだ。

 

 

 

 そして、自らの命令によって行われた事を示す為、軍集団の名に己の姓を与えた。陸軍ではなく、己の意図であると示す為である。

 

 

 

 エカテリーナは本格的な派閥形成を試み始めた。

 

 

 

 門閥貴族による大軍は既にエルライン回廊を通過しつつある。

 

 

 

 勝算亡きままの大規模増援の間隙を突く形で、エカテリーナは〈南部鎮定軍〉の敗残兵を後退させようと試みていた。

 

 

 

 規模だけは巨大な門閥貴族軍を、エカテリーナは正規軍を命懸けでで救出する為、矢面に立ち多大な被害を顧みず戦った勇士と賞賛する心算ですらあった。称賛だけであれば予算は懸からない。そして、門閥貴族に恩を売る事もできた。陸軍は門閥貴族に感謝し、門閥貴族は皇国軍の精強さに怯えて対外侵攻という選択肢を今後は躊躇する様になるだろう。

 

 

 

 トウカとエカテリーナの唾競り合いは未だ続いているのだ。否、互いの利益を最大化しようと二人は将兵の生命を効率的に捨て続けている。

 

 

 

 リディアですら二人の争いの歯車に過ぎなかったのだ。

 

 

 

「恐らくはドラッヘンフェルス高地であろうが……」

 

 

 

 消去法で帝国軍の再集結地点は容易に察せる。

 

 

 

 付近に大規模な森林地帯があり航空騎の対地襲撃を逃れる事が可能で、地形的に防衛戦が容易な場所はドラッヘンフェルス高地しかなかった。エルライン回廊も有力である様に思えるが、航空優勢が出現した今となっては狭隘な回廊に密集する部隊は標的でしかなくなる。加えて、エルライン要塞の大部分が破壊された事で永久防御陣地としての能力は損なわれていた。

 

 

 

 ――近付きたいが……難しいか。

 

 

 

 軍狼兵の追撃がなくなった事から、リディアはトウカが隷下にある軍狼兵部隊を以て帝国軍の索敵網を食い破ろうとしていると推測した。皇国軍は戦場に於いて部隊行動の秘匿性を重視する。敵軍の警戒網の寸断は軍狼兵や狙撃猟兵の浸透によって積極的に行われていた。

 

 

 

 ――勝算あっての再集結ならばいいが……

 

 

 

 リディアは木々の間を縫う様に歩を進める。

 

 

 

 泥濘に足を取られぬ様に進むが、足跡が目立たぬ様に開けた場所を避けてもいた。流石に足跡を消す事まではできなかった。魔術的には可能であるが、魔術行使の痕跡が別で生じるのでは発見の危険性は寧ろ跳ね上がる。

 

 

 

「御前……まだ付いてくるのか?」

 

 

 

 リディアは胡乱な瞳で肩越しに背後を見やる。

 

 

 

 そこにはさも当然の様に後に続く野狐がいた。

 

 

 

 狐種ではないただの野生の狐である。寒さに抗するべく毛深い野狐は円らな瞳でリディアを見上げてくるでの、彼女は周囲を見回した後、仕方ないとばかりに野狐を抱え上げた。

 

 

 

 幾度か野狐に助けられたリディアとしては、“彼女”を邪険に扱い難かった。

 

 

 

 目に付いた野狐に餌を放り投げて遠ざけただけだが、野狐は餌を貰えると知ってリディアを追い掛け続けていた。狐に野生の誇りなどなく、餌にさえあり付ければ他は些事なのだ。簡単に餌に在り付けるのであれば矜持など塵芥に等しい。

 

 

 

 既にリディアを追撃する野狐の追撃距離は軍狼兵の追撃距離を超えて久しいが、幾度かの追撃は野狐を抱き寄せる事で臭いを誤魔化して遣り過ごした。獣の臭いは軍狼の嗅覚からの欺瞞を成功させた。実績のある者を優遇するのは将校の常である。

 

 

 

 黙って抱え上げられた野狐。尻尾を触れば激怒される事は以前に腕を噛まれた事で思い知ったので、リディアは注意して腹に手を回す。

 

 

 

 熱源としても重宝できるとリディアは、肩周りに狐を乗せる。首巻の様な温かさがあった。(のみ)など今となっては気にも留めない。それよりも熱源が重要であった。皇国軍の軍装の様に魔導術式の編み込みによって各種効果を齎すのはリディアの軍装も同様であるが、リディアはそれすらも探知される可能性があると停止させている為、這寄る寒気に常に晒されていた。

 

 

 

「ええ、髪を齧るな。こいつめ……」

 

 

 

 リディアは懐を(まさぐ)って、携行糧秣を取り出すと、その包装を解いて狐の口へと押し込んだ。耳元でがしがしと音をさせながら小麦粉の塊を咀嚼する音が耳障りである。

 

 

 

 防弾性を有すると、帝国軍兵士が胸衣嚢(ポケット)に収める携行糧秣である棒洋餅(パン)であるが、狐の歯の前では然したる障碍足り得ないのか容易く粉砕されている。リディアも一本取り出して齧るが、前歯に絶望的な衝撃が奔った為、狐の口に二本目として押し込んだ。

 

 

 

 帝国軍兵士達は、棒洋餅(パン)洋餅(パン)として食するのではなく、汁物(スープ)に入れて具材としていた。塩分補給を兼ねて塩が多量に練り込まれた焼き上げられている事もあり、汁物(スープ)の味が増すと喜ばれているのだ。

 

 

 

 無論、汁物(スープ)などない状況では直接、噛み砕くしかない。

 

 

 

 同封されている砂糖片をリディアは齧る。糖分補給の為に同封されているのだが、当然ながら棒洋餅(パン)より遥かに細い為、腹が満たされた気がしない。

 

 

 

 薄暗さが薄れつつある中、リディアは野営を決意する。

 

 

 

 リディアは既存の行軍とは逆で夜間に行動していた。そして、夜が明けてから野営で睡眠するのだ。単身での夜間移動に自信のあるリディアだからこそ可能な芸当である。一寸先は闇の中っで歩を進める事を躊躇しないだけの視力と膂力が在ってこそであった。隷下将兵の面倒を見る必要がない単身である事も大きい。

 

 

 

 索敵軍狼兵部隊も夜間行動は控える傾向にある。

 

 

 

 部隊として行動する以上、意思疎通の手間と困難が増す夜間の軍事行動は控えるのが無難である。夜の帳すら動員し始めた近代戦であるが、それでも同士討ちや部隊配置の混乱が完全に解消された訳ではない。未だ夜間の軍事行動は控えるのが常識であり続けている。

 

 

 

 木陰……倒木に腰掛けたリディアは木漏れ日から時間と包囲を推測すると、自らの移動に間違いがない事を確認した。地図に経路を書き込み、推定ながらも大凡の現在位置を割り出す。街道や市町村に接触せず、北を目指す上では欠かせない行為である。

 

 

 

「少し東に逸れたか……」

 

 

 

 方向感覚に優れるリディアであれども、夜間移動は感覚の乖離を齎した。森林ともなれば月光すらまばらである為、場合によっては平衝感覚すら喪う事もある。

 

 

 

 帝国軍の警戒線すら避けようと考えるリディアとしては、己の感覚と陽光による位置確認だけが頼りの“行軍”であった。一人と一匹の行軍である。

 

 

 

「御前、私が生きて帰れたら褒美を取らせるぞ。何が良い?」

 

 

 

 首巻状態の野狐。その眉間の間を指で撫でてやるが、野狐は大きな欠伸を返すだけであった。

 

 

 

 夜間行軍の条件は共に進む野狐も同じであり、睡魔が襲う時期も同じである。

 

 

 

 逃亡中に戦死した皇国軍兵士の背嚢から拝借した携帯糧秣を取り出すと、リディアはしげしげとその包装を見据える。リディア自身も空腹を覚えていた。

 

 

 

帝国陸軍のものより凝った作りをしており、包装を破いてみると缶詰三つと缶詰とは思えない薄い缶詰?が転がり出てきた。覗くと長管器(チューブ)と細長い小瓶も一つずつ入っている。突匙(フォーク)(スプーン)は金属製であった。帝国では低価格化の為に木製である。端々に軍の性質の違いが窺えた。

 

 

 

 全体的に缶詰は幅があり、全高が低く円盤の様に見えた。特異な形状と言える。

 

 

 

 軍はその目的に合わせた装備をしている。それは軍装や携行糧秣も例外ではない。

 

 

 

 包装の表面には皇州同盟軍・戦闘糧秣Ⅵ型と印刷されている。Ⅵ号中戦改修産記念という文字も窺える。正規軍ではない地方軍閥が独自に携行糧秣を製造しているだけでなく、兵器の改修に合わせて記念で携行糧秣を新規製造するという無駄はリディアの理解を超えていた。

 

 

 

 因みに、そうした形で戦闘糧秣の種類を増していくのはヴェルテンベルク領邦軍のみの伝統で、皇国陸海軍にすら存在しない。

 

 

 

 一言で言えば、マリアベルの見栄から始まった事である。

 

 

 

 陸軍は北部との関係悪化が激化して以降、頻りに軍事演習に北部貴族を招待していた。端的に言えば示威行為であり、それによる叛乱の抑止を目論んでいた。政府判断であるが、当然ながら反発を招いて北部貴族の大部分は欠席している。

 

 

 

 しかし、そうした中で、ヴェルテンベルクとシュトラハヴィッツは毎年、軍事演習の招待を受けていた。無論、シュトラハヴィッツ伯爵家は先代シュトラハヴィッツ伯爵であり、彼は「敵情視察である」という言葉を口にして憚らなかった。

 

 

 

 対するマリアベルは、皮肉と嫌味の為に参加していたと言っても過言ではない。

 

 

 

 その際たるものが、演習で昼食の際、「何と惨めな食事ではないか? ええ? 妾の軍のものを恵んでやろう」と陸軍将兵にヴェルテンベルク領邦軍の携行糧秣を振る舞うという行為であった。書類上ではマリアベルの“厚意”となっているものの、当然ながら陸軍や政府に対する当て付けである。無論、マリアベルとしては陸軍将兵に携行糧秣にまで潤沢な資金投入を成せる領邦軍という印象付けを試みるという意味もあった。言わばマリアベルの趣味と実益を兼ねたものである。

 

 

 

「缶詰の二つをこの薄い缶詰の上下に付けるのか?」

 

 

 

 分かり易い様に包装の裏に絵付きで方法が記されている為、まともに文字すら読めない者も少なくない帝国陸軍兵士でも理解できるという点を、リディアは評価する。

 

 

 

「しかし、けったいな仕組みだな……塗装もされていない」

 

 

 

 帝国軍の缶詰は暗緑色に塗装されており、内容物の封入後、塗装液に沈めるという雑なものであった。しかも、開封方法の注釈などは一切印字されていない。製造年月すら打印されていない為、時折、外れを引いた兵士が食あたりで後送される事すらある。よって配布される際は籤引きの様な扱いである。挙げ句に外れは開封するまで分からない。

 

 

 

 対する皇国側は正規軍であれ領邦軍であれ、基本的には無地であり塗装はされていない。開封時に塗装片が内容物に混入する事を懸念したからであり、食糧まで擬装する必要はないという割り切りの産物であった。寧ろ、有事の際は包囲下にある部隊に対する空輸が想定されていた為に視認性は必要とされていた。空輸という理由もあり、強度確保の為に一般の缶詰よりも金属に厚みがある。

 

 

 

 薄い缶詰もどきの上下に連結された二つの缶詰を地面に置き、リディアは押さえ付けつつも薄い缶詰もどきの側面に付けられた紐を引っ張る。引っ張りきったと同時にぷちりと音を立てて紐は抜けた。

 

 

 

「これで温める事ができるのか。面白い絡繰りだ」後で薄い缶詰もどきを分解しようと決するリディア。

 

 

 

 包装の裏に書かれた事実には瞠目するしかない。携行糧秣のみで加熱が可能と言うのは画期的な事である。鍋も水も必要としないという事実は、軍事行動の制約が低減されるという事である。兵士の携行物の軽量化による移動距離の増加や食事の準備時間の減少。水を使用しない事で水という重量物の輸送量の減少も期待できる。

 

 

 

 帝国軍にとり飲料水の確保は常に頭を悩ます問題である。人海戦術を行う大規模動員の弊害として食糧消費の増大はあるが、消費される水の量もまた輜重線を圧迫した。何十万という人員の水を確保するのだ。容易な事ではない。

 

 

 

 雪を溶かして使うという手段もあったが、薪を集めて火を起こす手間を踏まえると兵が水と引き換えに疲労する結果にしかならない。魔術によって雪や川水を加熱するという手段もあるが、帝国人は他国と違い魔術を学んでいない者が多い。加えて戦闘以外での魔力消費は避けて然るべきである。

 

 

 

 そっと薄い缶詰もどきに手を近付けると、熱さを感じてリディアは手を引っ込める。

 

 

 

 短期間での加熱が可能である様子には驚くしかない。

 

 

 

 加熱時間の確認の為に今一度包装を見れば、左下に気弱そうな雰囲気の初老の料理人服を着た男が印刷されている。

 

 

 

「エルゼリア侯爵監修……侯爵位を持つ者が携行糧秣の開発をしているとは」

 

 

 

 民衆が貧困に喘ぐ中、放蕩三昧の者が散見される帝国貴族をリディアは苦々しく思っているが、侯爵が携行糧秣の開発や監修をしている皇国貴族も主君とするには別の苦労があるのだろうと同情するしかない。

 

 

 

 皇州同盟軍……北部の領邦軍は基本的にヴェルテンベルク伯爵家とエルゼリア侯爵家による合弁企業……イーゼンベルク食品によって製造されている。両家の合弁企業であるが、実情としては北部貴族はもれなく設立に伴い資金提供をしており株主でもあった。

 

 

 

 これは北部が常に有事を想定していたという訳ではなく、気候の安定しない北部で領民の飢餓を避けるべく非常食の開発と製造が盛んであった事に起因する。食糧生産の減少に備えた地方全体での対策の一つであったのだ。

 

 

 

 無論、共に筆頭株主となったヴェルテンベルク伯爵家とエルゼリア侯爵家の意向は最大限に反映される。携行糧秣としても想定したマリアベルに対し、エルゼリア候は趣味と実益を兼ねて四八もの種類を監修した。軍民共用と豊かな種類により価格は高騰したが、北部全体での採用が前提となっていた為、量産効果によってある程度の価格低下は成された。民間の食糧不足に備える為の備蓄である以上、軍とは比較にならない納入数が生じる。原産地の食品を使用した事から民間農家への安定した収入という成果もあった。ちなみに北部では都市部の商店などで期限が迫ったものが民間に販売されており、肉体労働者や猟師などが食事として携行する為に購入している姿がよく見られる。

 

 

 

 因みに陸軍は耐用試験(トライアル)に参加しなかったイーゼンベルク社の携行糧秣を採用できなかった。加えて、既存の携行糧秣の企業と衆議院議員の連帯や、食糧関係に供給が不安定化しかねない要因を加える事を輜重部が懸念したという理由もある。

 

 

 

「えらい国を相手に喧嘩を売っているな。我が帝国は……」

 

 

 

 諸々の事情を知らないリディアは、予算を掛けざるを得なかった携行糧秣を皇国という国家の国力として受け取る。マリアベルが陸軍に振る舞った際に求めた錯覚に、リディアは見事に嵌まっていた。

 

 

 

 包装の表示通りに時間が経過した事を確認し、リディアは恐る恐る連結された缶詰を手に取る。

 

 

 

「火傷する程ではないのか」

 

 

 

 中央の缶詰もどきに指先を触れてみるが生暖かいだけで触れない程ではない。

 

 

 

 暖かい程度の温度。火傷する程では缶詰が持てないが、生温い程度というのは中身も生温いという事になる。実際、兵士が下を火傷しては本末転倒である為、温度には配慮があった。

 

 

 

 帝国軍のものとは違う缶詰の蓋。爪を引き上げて捲れる蓋をリディアは取り払う。缶切りが必要な帝国軍のものと違い簡単に開ける事ができる。

 

 

 

 金属圧迫(プレス)加工技術の違いに驚きつつも、リディアは赤い汁物からの湯気に食欲を刺激される。(スプーン)で掻き回すと、赤茄子(トマト)臓物(もつ)が煮込まれたものであると分かった。

 

 

 

 臓物(もつ)を救って食べると、それは赤茄子(トマト)の味が染みており、塩気も聞いており美味であった。柔らかく煮込まれて加工品とは思えない。

 

 

 

「美味いな……」

 

 

 

 もつは保存性が悪いものの、食肉加工後、直ぐに洗浄、調理、脱気をして封入。封入した缶詰を加熱殺菌する為に劣化は極めて緩やかである。複数の維生素(ビタミン)や鉄分を豊富に含有し、皇国軍の携行糧秣では積極的に用いられていた。無論、用いられる最大の理由は安価であるという理由であったが。

 

 

 

 もう一つの缶詰を開けると、現れたのは玄米であった。卵焼きが二つ。玄米を押し退ける様に押し込まれてもいる。

 

 

 

 帝国は洋餅(パン)食があ基本であるが、皇国は神州国や共和国などから古来より食文化が流入しており、その多様性は帝国を優越する。他国では有り得ない組み合わせの料理も珍しくなかった。

 

 

 

「玄米か。白米ではないのか」

 

 

 

 神州国などでは、軍は白米を使用していると聞くリディアは首を傾げた。

 

 

 

 籾殻までを取り除き、(ぬか)を取り除く精米をしていない状態の玄米だが、(ぬか)にこそ栄養価が豊富であると比較研究で判明した事で、イーゼンベルク社の携行糧秣に於ける米は全てが玄米へと差し替えられた経緯がある。無論これには、白米よりも安価であるという理由もあったが、下痢などの減少が確認された事も大きい。将兵の体調は行軍に大きく影響するのだ。

 

 

 

 リディアは赤茄子(トマト)臓物(もつ)煮込みと玄米を書き込む。ブルガーエフが見れば「はしたのうございます」と目くじらを立てたであろう姿であるが、リディアは実力で元帥まで上り詰めた将官である。上品なるものが戦場では役に立たない事を知悉していた。寧ろ、品格はある程度毀損されているくらいが最も兵士に好ましく思われるとすら考えている。

 

 

 

 残りの一つ、加熱する必要がないとされた缶詰には、(きのこ)や根菜類などが煮込まれた料理が封入されていた。

 

 

 

 缶詰には筑前煮と刻印されている。

 

 

 

 食物繊維や栄養素の偏りを失くす必要性から野菜の摂取が必要な事は理解できるが、赤茄子(トマト)臓物(もつ)煮込みと筑前煮という組み合わせの感性には首を傾げざるを得ない。無論、缶詰の組み合わせた兵士の好みで変更できる為、戦死した兵士の個性に過ぎないが、携行糧秣の種類を兵士が決められる事をリディアは知らなかった。

 

 

 

 筑前煮は、次元漂流者によって齎された異郷の料理の一つであるとされている。神州国にも類似した料理はあるが、“筑前”という言葉は神州国に存在しない為、起源は異世界に求められた。

 

 

 

 甘藍の漬物(ザワークラウト)であろうな、と考えていたリディアとしては、想像よりもましと言えたが、煮物ばかりで些か落胆するものがあった。

 

 

 

 煮物が多いのは、携行糧秣の常である為、リディアも理解しているが、訳の分からぬ組み合わせえあるという事実は拭えない。

 

 

 

 野狐を起こさぬ様に食事を終えると、リディアは木陰で長外套の襟を立てて蹲る。強いた小枝と木葉の感触は心地よいものではないが、冷気は軽減される。

 

 

 

 携行糧秣に同封されていた長管器(チューブ)と細長い小瓶を地面に置き、野狐を首から胸元へと抱き寄せた。熱源を欲しての行為である。

 

 

 

 木々の影で視認性が低い位置取りをしているが、木々や木葉を集めて自然の天幕を作るまでは、追跡者の事を踏まえて行っていない。出立前に破壊したとしても痕跡を辿られる可能性が高い。

 

 

 

 リディアは、長管器(チューブ)の蓋を外すと口に咥えた。

 

 

 

 口内に広がる暴力的な甘さに眉を顰めるが、疲れた身体はそれを素直に受け入れた。仄かに柑橘の風味と香りがするが、その目的が糖質補給にあるのだろうとリディアは見当を付ける。そして、機会があれば大量に鹵獲しようと決意する。

 

 

 

 帝国軍は砂糖の塊であるが、皇国軍は粘性の高い液体で糖質補給を行う。これは洋餅(パン)に塗布する事を意識されたものであり、中には紅茶に混ぜて食後に楽しむ者も居た。

 

 

 

 早々に長管器(チューブ)は空になり、リディアは丸めて衣嚢(ポケット)に押し込むと、次は細長い小瓶を手に取る。

 

 

 

 黄金色と形容するには些か黒に近い液体が封入された細長い小瓶。硝子製容器はその耐久性から、携行糧秣の容器として扱われなくなって久しい。現に皇州同盟軍成立以降は螺旋蓋(スクリューキャップ)を使用した細長い円筒状の金属缶への更新が始まっていた。リディアが手にしたものは旧型と言えた。

 

 

 

 蓋を開けて臭いを確かめたリディアは、その刺激に眉を顰める。

 

 

 

 蒸留酒である。それも加水した酒精(アルコール)度数はない。

 

 

 

 その色合いを含め、リディアはそれが(ラム)酒であると察する。

 

 

 

 ――あの兵士。あそこで戦死せずとも糖質過多で早々に死んでいたやも知れんな。

 

 

 

 リディアは蒸留酒であれば基本的に選り好みしないが、糖酒だけは甘味が強いものが多い為に警戒感があった。そして経験則から色が濃いものは妙に甘いという知見を得てもいた。

 

 

 

 因みに、封入される酒は劣化の問題から蒸留酒のみとなっており、ウィシュケや(ラム)酒、焼酎の三種類に分かれていた。ヴォトカや香草酒(ジン)は人気がない為に選考から外れて採用されなかった。そして、焼酎が近年になって押し込まれたのはリシアの暗躍によるものである。焼酎も芋派と麦派で仁義なき戦い(トライアル)が行われた経緯があるが、その事実は情報部による機密指定を受けて闇に葬られた。

 

 

 

「まぁ、疲れている時には悪くないな」

 

 

 

 口に糖酒を含み、リディアは酒精交じりの溜息を吐く。

 

 

 

 軍務中に飲酒するのは帝国陸軍も皇州同盟軍も珍しい事ではない。寒冷気候への(ささ)やかなる抵抗という扱いである。

 

 

 

 名目上は身体を温める為であるので酒で手元を狂わせる程の飲酒は望ましくないという極めて微妙な範疇を満たす量でしかないが、携行糧秣に酒を同封するというのは帝国軍にはない発想であった。

 

 

 

 携行糧秣の缶詰や小瓶などを、戦闘短刀(コンバットナイフ)で横に掘った穴に纏めて埋めると、リディアは軍用長外套の襟を胸元へと引き寄せて目を閉じる。

 

 

 

 夜になれば、再び一人と一匹だけの脱出行を行わねばならないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「尚も攻撃を続けろというのか……」

 

 

 

 皇州同盟軍〈第二航空艦隊〉の航空艦隊司令官を務めるオステルカンプ中将は、フェルゼン市内に設置された〈第二航空艦隊〉司令部の作戦質で溜息を一つ。

 

 

 

 元は煉瓦製倉庫を改修した臨時司令部に過ぎないが、戦時体制が続く中で新設は見送られ続けていた。保温機能の不完全な航空艦隊司令部は足元が未だに外気の影響を免れ得ないもの、司令部要員達は航空艦隊という現状でも総数が五〇〇騎を超える一大航空戦力の運用に手間取る事で寒気など気にも留める余裕もなかった。

 

 

 

 航空攻勢時に於ける目標指示や誘導、目標の重複などの解決策を未だに模索し続けている段階での航空攻撃要請は、彼らの能力を超過した。特に目標の重複や誤認が相次いでおり、航空偵察による確認自体も正確性に疑問符が付く状況であった。

 

 

 

 彼らは、有り余る航空戦力で猛爆撃を継続中であるが、戦果評定が叶わぬ中でのものに過ぎず、その効果の規模を把握できていなかった。

 

 

 

 永久陣地に対する航空攻撃は有効であるのか?

 

 

 

 破片効果によって敵将兵を薙ぎ払うならばまだしも、堅固な陣地であれば直撃せねば致命傷を与えられない事は工兵司令部によって明言されている。元は敵砲兵の曳火砲撃に耐え得る強度を前提に鉄骨と鉄板、練石(べトン)によって建築された経緯がある以上、堅固であることは疑いなかった。

 

 

 

「しかし、帝国軍が後から拡充させた陣地に関してはそれ程の強度を持たないかと」

 

 

 

「だろうな。だとすると、やはり……サクラギ元帥の御懸念通りか」

 

 

 

 オステルカンプは隷下の戦闘爆撃航空団司令の一人……〈第一八二戦闘爆撃航空団(JKG182)〉航空団司令であるトラウトロフト中佐の呟きに応じる。

 

 

 

 実際、現地で航空部隊を率いて陣地へ爆撃を行った者の言葉は、酷く現実感を伴う。

 

 

 

 ドラッヘンフェルス高地の山岳部の陣地が航空攻撃の誘因を目的とした囮に過ぎず、主力は山岳部北方に広がる森林地帯に偽造して分散配置されているのではないかというトウカの懸念は、総司令部や参謀本部によって各軍に伝達されていた。

 

 

 

 航空偵察が行われてはいるが、数十mという全高の針葉樹林による遮蔽物は、森林地帯を遍在性の伴う戦域と成さしめていた。

 

 

 

 山岳部に展開する〈グローズヌイ軍集団〉の数を見れば、総数が不足している事は明白である。陣地への収容数を踏まえれば当然であった。皇国軍の永久陣地は北方からの侵略に対して運用する事を前提としており、帝国軍は運用できる陣地は少なく、増強した野戦陣地を加えても軍集団規模の軍勢を収容できる規模ではない。設置位置の都合から迎撃できない陣地への展開は遊兵化を招く上に、元より皇国軍に位置が露呈している為、優先して攻撃を受けてしまう。

 

 

 

 消去法として、大部分は森林部への展開が予想された。

 

 

 

 東西に延びるドラッヘンフェルス高地の陣地であるが、陣地防御よりも、高所に展開しての射程延伸と、より優位な照準の為の観測所を設置するという目的が主たるものであった。堅固ではあったが、縦深や相互支援に関しては限定的なものに過ぎない。あくまでも遅滞防御が目的の陣地であったが故であるが、それでも皇国軍工兵と民間土木企業の技術に陰りを及ぼすものではない。他国では不可能な速成建築である事に変わりなかった。

 

 

 

「足りぬ足りぬは工夫が足りぬ、か?」

 

 

 

「初代天帝陛下の御言葉ですね。サクラギ元帥が失笑なさったそうですが」

 

 

 

 不足を工夫で補う事も必要であると説いた初代天帝の言葉に対し、トウカは指導者に求められるのは隷下に工夫という圧力を加えるのではなく、各種資源を常に不足させない組織態勢の確立であると断言している。無論、それを確実に成せるかは、組織基盤と情勢次第であるが、少なくとも隷下将兵の工夫や挺身を前提にしないという点だけは、多くの将官が評価していた。

 

 

 

 現実性を伴わない前向きな意見など組織には害悪としかなり得ないのだ。

 

 

 

 しかし、足りぬ足りぬという状況は迫りつつある。トウカの……否、皇州同盟の力量を超えた戦争が続いているのだ。

 

 

 

 皇州同盟軍に於ける航空艦隊とは、純粋な航空戦力の行使者というだけに留まらない。

 

 

 

 航空基地……飛行場の管理と防衛を担い、地域の対空戦闘を主任務とする部隊を指揮する地域司令部(Feldluftgaukommando)でもあった。

 

 

 

 高射砲などが軍団規模で配備され、高射砲軍団(Flakkorps)として運用されることが決定している。尤も、現状では定数を満たしておらず、挙句に一部は野戦砲部隊として他部隊に転出していた。決して航空騎のみを維持管理、行使のみに限定されている訳ではない。航空基地の警備や対空戦闘、輜重なども含まれていた。

 

 

 

 航空艦隊司令官とは、戦域内の航空戦の趨勢に関わる大部分を掌握する役職である。

 

 

 

 その重責と困難は計り知れない。

 

 

 

 無論、展開しているのが、皇州同盟軍最大の策源地であるフェルゼンとその周辺であることもあり、ヴェルテンベルク領邦軍陸上部隊や領都航空隊、領都憲兵隊などが支援をしている。故に他の航空艦隊と比較して組織運営に余裕があった。

 

 

 

「現実問題として、航空爆弾は生産よりも消耗が上回りつつある。どこかで制限を付けねばなるまい」

 

 

 

「敵の強大化ではなく、自軍航空部隊の増強に伴う不足です。それを踏まえれば致し方ない事かと」

 

 

 

 航空戦力の消耗は限定的なものに留まっている。帝国軍が有力な対空兵器を保有していない事に尽きるが、優先して対空戦闘が可能な魔導部隊を初期の爆撃で撃破した事も大きい。

 

 

 

 だが、速成錬成を終えた航空部隊が順次戦列に加わる事で強大化した航空部隊の補給物資は不足しつつあった。航空部隊が増強されるにつれて増える物資消耗が生産能力を優越したのだ。物資だけではなく、整備員の不足による航空兵装の整備不良や航空騎の体調不良も相次いでいる。

 

 

 

 航空騎は生物である。

 

 

 

 その面倒を見る整備員の場合、機械工学ではなく軍医に近い要素を必要とする。育成は容易ではなく、短期間での増強は叶わない。

 

 

 

 全体としての稼働率は、書類上で部隊が増強される度に低下している。

 

 

 

 既に航空艦隊は五個が結成されているが、どれも定数には遠く及ばず、その結成が戦後を見据えた部隊編制である事は疑いなかった。オステルカンプは定かではない戦後よりも、現在の航空艦隊を縮小し、稼働率や物資不足を解消すべきではないかと考え、頻りに上申していたが、その返答は常に芳しいものではなかった。

 

 

 

「サクラギ元帥の意図が分からぬ」

 

 

 

 オステルカンプは、押し切れるであろう戦況であるとは言え、効率性を御座なりにする人物ではないと考える程度に、トウカを調べていた。

 

 

 

「……もしかすると一つでも多くの航空部隊に実戦経験を与えたいと考えているのかも知れません」トラウトロフトは一つの推測を口にする。

 

 

 

 実戦経験にも多種多様なものがあるが、その有無は将兵の自負心や対外的な評価という面で大きな意味を持つ。

 

 

 

 実戦経験のある五個航空艦隊。

 

 

 

 充足していないとはいえ、五個航空艦隊という肩書は絶大な効果を発揮する事は疑いない。

 

 

 

 皇州同盟軍の航空戦力編制は、航空団の上位に航空師団があり、その上位に航空軍がある。そして最上位に航空艦隊が位置し、それを総司令部が隷下に収めるという体制を執っていた。戦況により方面軍や戦域軍が編制される場合、航空艦隊はその隷下に収まる場合もある。

 

 

 

 航空艦隊とは戦略単位である。

 

 

 

 オステルカンプは知らないが、少なくとも艦隊という単位を呼称する意図は、砲艦外交を行う戦力としての期待があっての事でもある。

 

 

 

 海軍に売却する事で戦艦という戦略兵器を喪った皇州同盟軍の政治戦略の一翼として航空艦隊の整備は急がれている。戦艦が砲艦外交の主力を担うのは世界的潮流であるが、当然ながら戦艦が独航艦となって海域を遊弋する訳ではない。戦艦を中心とした艦隊が編制される。よって戦艦を含む艦隊こそが戦略兵器足り得るのだ。

 

 

 

 戦艦を含む艦隊に変わる砲艦外交の雄として、航空艦隊は期待されている。都市を灰燼と帰するだけの威力の戦力が、艦隊を遥かに優越する速度で飛来するのだ。その資格は十分にあり、国境沿いへの展開は極めて強力な意思表示となるだろう。場合によっては、戦艦の役目は戦略爆撃騎が負えばよい。象徴として戦艦を捉えるならば、代わりを戦略爆撃騎に求める事は不可能ではない。それだけの活躍を戦略爆撃騎は見せている。

 

 

 

 外交的優位は軍事力に依存するという観念に基づく、新たなる外交手段が航空艦隊による圧力である。砲艦外交ではない航空外交とでも言うべきものであった。

 

 

 

 実戦経験のある五個航空艦隊は政治的な役目も負いつつあるのだ。

 

 

 

 軍事的に多様性のある航空艦隊が政治的な役目まで負うのであれば、費用対効果は戦艦を遥かに優越する。

 

 

 

「内戦中の様に投石でも試みますか?」トラウトロフトは苦笑と共に肩を竦めて見せる。

 

 

 

 実際、内戦中は投石どころか切り出した角材なども空中散布され、航空爆弾とはまた違った恐怖を征伐軍に抱かせた。航空爆弾が消耗してても尚、敵を殺さんとする殺意が滲む行為は威力と効果は兎も角として酷く恐怖心を煽るものである。

 

 

 

「それならば、一部に下剤入りのものを混ぜた洋餅(パン)でも投下して分断を煽るさ」

 

 

 

 決して冗談などではない。

 

 

 

 一部が下剤入りとなれば、将校としては兵士が勝手に懐に収める事も取り締まらねばならなくなるが、兵士としては毒ではない下剤程度であれば空腹とあっては背に腹は代えられないと口に押し込むだろう。取り上げようとすれば、部隊内が割れかねない。

 

 

 

 相手が嫌がる事をする不道徳を率先して行うのが戦争であるが、彼らはそれを臆面もなく行える人物である。ヴェルテンベルク領出身であり、強固な被害者意識と排他性は好戦性を隠さない。

 

 

 

 そのオステルカンプですら物資不足の表面化に臆する状況であるが、打てる手があるのであれば躊躇はしない。

 

 

 

「いっそ森林部に食糧を投下して様子をみるか?」

 

 

 

「それはいいですな。餌の取り合いで争いでも起きれば上空から確認できるかも知れない」

 

 

 

 銃火や砲火を確認できれば、森林部の敵戦力を把握する切欠になるかも知れないという期待があったが、二人は互いに失笑を以て妄言を流す。

 

 

 

 トウカは敵がいると断じた。

 

 

 

 そして、客観的に見て確実視される以上、敢えて定かならぬ方法で確認する必要はなかった。

 

 

 

 航空攻撃を避ける為に森林部に分散配置したならば、帝国軍は人海戦術による突破という得意技を行えない。砲兵や迫撃砲も全高のある木々に遮蔽されて積極的な砲撃は叶わない。着弾観測や音源評定とて困難なのだ。

 

 

 

「サクラギ元帥からは焼夷弾を集積せよとの命令が出ている。森を焼く心算だろう」

 

 

 

「それは耳長族(エルフ)辺りが喚きそうですね」

 

 

 

 獣系種族なども森林保護に対する意識が高い。無論、戦時下であり弁解する必要などないが、国民軍である以上は一定の配慮が必要とされる。

 

 

 

 うんざりとした顔をする二人。

 

 

 

 トウカの苛烈な姿勢から、皇州同盟軍の将官による弁舌は芸術性を増している。トウカが激怒させる前に各方面で生じている不満を宥める必要に迫られるのだ。無論、暴君であるマリアベルの御機嫌伺の必要に迫られていたヴェルテンベルク領邦軍出身者は群を抜いている。

 

 

 

 クレア隷下の憲兵隊は砲兵、迫撃砲兵を保有しており、市街地で運用経験を持つ。金属板による阻害(バリケード)を粉砕する為、街路で犯罪者を挽肉する事も躊躇わない。そうした憲兵が口を挟む事は当事者達……同じ軍人であるはずの彼らからしても可能であれが回避したい事態であるのだ。

 

 

 

「理解を求めるしかない。まぁ、悲惨な目にあった村落の情報が流れた今となっては、彼らも強くは出れんだろう」

 

 

 

「国を失った後すら想像できない者が居るのも確かだがな」

 

 

 

 現状の見えない者が、自らの理想に現状が合わせるべきであると喚く様はどこの国でも見られるが、戦勝を続けるトウカはある種の権威を北部以外でも帯び始めた。

 

 

 

 彼を支持する者は急速に増えつつある。

 

 

 

 自らの生命と財産を明確に脅かす帝国という脅威に対し、最も苛烈に抵抗する彼は奇跡の如き実績もあって徐々に国民の熱狂を獲得しつつあった。

 

 

 

 ミナス平原会戦の勝利宣言も大きい。それ一つとっても臣民の不安を一撃で吹き飛ばす出来事であったのだ。しかも、トウカは守勢の側に在っても盛んに主導権を取りに掛かった。ミナス平原会戦は話題としても優れた出来となった。

 

 

 

 政府が宣伝戦(プロパガンダ)を黙認したこともあり、人心は忽ちに燃え上がった。(やに)に濡れた樹木に様に人々の戦意を奮い立たせ、軍への志願者が爆発的に増大している。無論、帝国という脅威もあるが、指導者不在による政治経済の停滞が続く中で明白なまでに栄光に包まれた人間に魅せられる者は多い。

 

 

 

 敵対的な大手新聞社は、戦時体制の美名の下に言論封殺された。四つの新聞社が対象となり、二つは愛国心溢れる民衆に襲撃されて流通網を失った。残り二つは事実上、皇州同盟の統制を受ける事となった。

 

 

 

 敵意のある四つの新聞は千の銃剣よりも恐ろしい。

 

 

 

 トウカは周辺諸国の悉くと争った人民の皇帝の意見を踏襲していた。

 

 

 

 元よりトウカに好意的な右派系新聞社は、トウカを称賛する記事を書くが、乗っ取られた二社はトウカの政戦に関わる部分を集中的に記事としていた。トウカの推し進める方策を理解させる為であるが、右派系新聞社の美麗字句と方針が併記される事をトウカは恐れたのだ。それは大和民族らしい謙譲の美徳によるものではなく、道理の欠如した感情論による称賛が方針や政策を貶めると知るからである。

 

 

 

 方向性の違う新聞社が同一人物を好意的に見ているという演出をトウカが望んだという理由もある。

 

 

 

「閣下の……あの新聞を読んだだろう? 君も」

 

 

 

「はい、閣下。実に愉快なものでしたな」

 

 

 

 宣伝戦(プロパガンダ)は、政戦よりも顕著に敵を操るものであり、敵味方の双方を利用して自身の主張を多数派と成さしめる事が本分である。

 

 

 

「言葉の通じない者にも銃弾は通じる。文明の利器は相互理解を促進させるという訳だ、だったか?」

 

 

 

「私は常に相互理解を惜しまない。軍人が得意とする方法での相互理解であるが、という意見もありましたな」

 

 

 

 二人は苦笑する。

 

 

 

 トウカは自国民に対する言葉として発言しなかったが、それが敵国に対してのみであると考えるほど楽観的な者は国内に存在しない。

 

 

 

 そうした過激な言葉も紙面には踊るが、トウカに敵対的な左派集団の意見と併記させる事も重要視されていた。右派系新聞社にはそれができない。劣勢だった今迄の状況から、鬱憤を晴らすかの如く彼らは左派を叩く事に熱中して長期的視野を持たないのだ。叩きはしても叩き潰すだけの展望(ビジョン)を持たないのであれば、それは扱い次第で害悪にすら成り得る。

 

 

 

 現状、敵国の侵攻によって生じた戦時下という情勢は酷くトウカに有利である。

 

 

 

 現実性を伴わない意見を戦時下に排除する急進的姿勢を見せるのではなく、民衆に自らが否定したと“思わせる”必要があるのだ。戦時下だから止むを得ない。取り敢えずは挙国一致の為に左派の意見は退けるべきであるという免罪符の下に合意形成を国民内で図りつつ、それを常態化させていく。

 

 

 

 決して、トウカの行動が決定打となったと思わせてはならないのだ。

 

 

 

 一度、世論が傾けば後は容易い。

 

 

 

 左派であれ右派であれ、主張を大多数に対して効率的に押し付けるには、多額の資金が必要となる。

 

 

 

 しかし、皇国は制限される部分もあるとはいえ、概ね資本主義と呼んで差し支えない以上、旗色の悪い組織への資金提供を続けるにはそれなりの理由と覚悟、主義が必要となる。そして大部分は利益があって初めて資金提供へと踏み切るのだ。加えて資金に於ける大部分の出資を占めるのが理に聡い資本主義者である。

 

 

 

 皇都擾乱の直後、利益がないとみて左派団体への資金提供の大部分は早々に打ち切られた。

 

 

 

 トウカは、戦争に対して否定的な勢力の資金源へ集中的に攻撃を加えている。

 

 

 

 不利益が出れば逃げ去る者を情報的に情報部は追い詰め続けていた。

 

 

 

 戦時体制の構築は、臣民の意識統一という面でも推し進められていたのだ。

 

 

 

 銃後でも形を変えた戦争が繰り広げられている事を知る者は少ない。

 

 

 

 

 

 

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敵意のある四つの新聞は千の銃剣よりも恐ろしい。

 

             《仏蘭西帝国》 皇帝 ナポレオン・ボナパルト